
夏コミ(C78)は、東ト-23aです。
なおこの絵は、夏コミに出すものと何も関係していません。
著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-06-29 01:45:51

神社だの巫女さんだの言ったら怒られそうなのでそういうことは言いません。実は男の娘ではないかとかそういうことも言いません。原寸サイズ(5000ピクセル越えてます)
そうだ、忘れてた。
COMITIA 92(5月4日)に参加します。 の27b osakana.factory
(2010/05/02 23:39追記)
森永卓郎氏の「オタク恋愛コンサルタントは日本を救えるか」という記事を読んで、なんだかモヤモヤするけど上手く批判できないというお声を目にしたので、2つ問題点を挙げてみる。
森永氏の記事は、オタクは本心では恋愛・結婚したがっているので、それを助ける仕事が日本では必要だ、というのが趣旨だと思われる。
まず、オタクは恋愛をしたがっているのに出来ていない、「二次元」へ逃避しているという前提がどうにも妙だ。
アニメ・マンガ・フィギュア等の制作・消費を趣味とする人達は恋愛・結婚ができない、という単純化がなされているようだが、俺の周りには、そういう趣味であって恋愛・結婚している人はいっぱいいる。大塚英志や岡田斗司夫や東浩紀といったオタクのパイオニアも、みんな(実質的には)結婚しているじゃん。
だから、オタクは恋愛・結婚できないという主張は、そういう趣味を持つ人達の中から、恋愛・結婚できない人達という集合を特別に抜き出しているわけで、逆に考えると、恋愛・結婚できない人間でそういう趣味の人達を、オタクと名付けているようなもんだ。
つまり、オタクという言葉を、自分が否定したい人達のレッテルにしている。 今の日本で、アニメを見たことない・マンガも読んだことないなどという人はかなりレアだ。モテなさそうな人を捕まえて「マンガを読みますか?」と尋ね、Yesと応えたらオタク扱いしてしまう、なんていうようなイメージでオタクという集合を形作るとすれば、この定義の曖昧な概念は、適当に都合よく膨らませていくことができる。
そもそもオタク概念の始祖である中森明夫も、 自分達とは違う価値観の人々を排除するための言葉としてオタクという語を使い出した。それは、中森がこの語を初めて使ったエッセイで、コミケに集まる人達を揶揄しているところを読んでもよく分かる。
東京中から一万人以上もの少年少女が集まってくるんだけど、その彼らの異様さね。なんて言うんだろうねぇ、ほら、どこのクラスにもいるでしょ、運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じ込もって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴らが。モロあれなんだよね。
髪型は七三の長髪でボサボサか、キョーフの刈り上げ坊っちゃん刈り。イトーヨーカドーや西友でママに買ってきて貰った980円1980円均一のシャツやスラックスを小粋に着こなし、数年前はやったRのマークのリーガルのニセ物スニーカーはいて、ショルダーバッグをパンパンにふくらませてヨタヨタやってくるんだよ、これが。
それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタかてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね。普段はクラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴らが、どこからわいてきたんだろうって首をひねるぐらいにゾロゾロゾロゾロ一万人!
森永卓郎氏も、結婚・恋愛していない人間を否定したいがために、「オタク」という語を当てはめているのではないか。この記事の違和感の1つはここにある。
もう1つの問題点は、恋愛・結婚できないヤツが劣っているという価値観だ。この価値観はさらに分解出来て、恋愛=結婚という等式の問題点と、もう1つは、それができないヤツが劣っているという価値観そのものだ。
この辺は、本田透が「恋愛資本主義」と命名して散々批判しているから充分な気がするけれど、まず、元々恋愛と結婚は別物だ。
『電波男』
本田 透
例えば、平安時代の貴族は結構自由に恋愛していたようだが、結婚は一族が決めた相手と粛々と行って子孫を残す。また、赤松民俗学が描くように、夜這いやりまくりだが特定の相手と結婚する、というような世界も、恋愛と結婚が別物であると考えると理解出来る。日本で、恋愛=結婚という等式になったのは、せいぜい数十年だと考えられる。この辺は、デビッド・ノッターの『純潔の近代』などにも詳しい。
『純潔の近代 』
デビッド・ノッター
で、恋愛=結婚が自由な以上、恋愛=結婚しないことも自由なはずなのだが、それは劣っているとされ批判の対象となってしまう。そういう価値観は本田透を初めとして色々な人が批判するのだけれど、日本で恋愛や結婚をしないでいる若者に有形無形の圧力がかかるのならば、日本の恋愛や結婚は、実質的には自由ではないということだ。
この不自由さの根は深い。しかし森永卓郎氏の記事は、そういう不自由さや息苦しさを全て、「オタク」という便利な否定のための語に封じてしまっている。そこがこの記事のもう1つの問題点だ。
まとめよう。おそらく皆の不満点はこういう辺りだと思う。
停電を乗り越え冬コミ新刊が滑り込みで出きました!

初めて絵が商業誌に載ってから丸10年(実は11年目ではないかという気もする)ということで、10年間の乏しい仕事を振り返りつつ、当時描いた絵を今描き直してみるとどうなるか? という本です。
多分この辺りが劇的。

左は2000年に同人誌即売会眼鏡時空のポスターとして描いた絵、右は今年同じ絵を今描いたらこうなる、というもの。……実は俺は成長していないのか?
当日はデータDVDも用意したいと思います。『ソデなし!?』等々の過去の本もありますよ。(2009/12/28 03:18追記)
AT-Xブースにもなんかあります。しあたんと4コマを描きました。


4コマですっごいブラックなネタを描いたら、すっごい怒られたので丸くしましたが、でもまだ危険っぽいです。
先日livedoorで「レイプレイ事件」のコラムを書いたけど、あれで言い足りなかった(ていうか編集が入ってよく分からなくなったところがある)ので、長文だが俺の言いたいことを書いておく。
児童ポルノ法の審議入りも近い。エロゲー規制に加えてどこまで与党案が盛り込まれるのか、大変憂慮している。だが、規制反対派にはヒステリックな反応をして欲しくない。そのために、できるだけ分かりやすく「メディア害悪論」と「ポルノ規制論」についての俯瞰を提供したいと思う。
メディア(コンテンツ)は人間に影響を与えるのかといえば、もちろん与えるに決まっている。メディアを利用して流布するコンテンツ、つまりは一定の情報が人間の思考や行動に影響を与えるか? という命題は、紛れも無く真だ。
コンテンツは人間を一定程度コントロールするから、「プロパガンダ」という概念がある。結局イラクに大量破壊兵器は無かったじゃないか。でも、「ある」という情報を流し込まれれば、人間はその情報に基づいて一定の判断をし、行動を起こす。情報が人をコントロールするのは紛れも無い事実だから、「情報戦」という概念もある。もっと単純に考えても好い。「明日は100%雨が降る」という天気予報だってコンテンツだ。アナタの行動に影響を与えないわけが無い。
より卑近な話になるが、オタクなアナタはエロマンガでオナニーしてるんでしょ? エロゲーで抜いてるんでしょ? 別に恥ずかしがることもない、クリエイタは、アナタがそういう用途に使ってくれるよう、血を吐きながら創っているんだから。それはつまり、エロマンガやエロゲーがあるお陰で、アナタのリアルワールドでの行動は変化しているってことだ。そもそも、その作品を消費するために、他の趣味なり仕事なりの時間を削るわけじゃん。引きこもってる人だって、ゲームに熱中して飯を食い忘れたりなんてことがあるだろう。つまり「機会損失」を出しているわけだ。こういうのをひっくるめれば、「コンテンツは人間に影響を与える」って言うしかない。エロゲー規制児童ポルノ規制反対の人も、まずこれは認めよう。
既存のメディアについての学術的な研究をものすごく大まかにまとめれば、
『メディア文化論 』
吉見 俊哉
現在一般的な考え方は、「結構影響がある」が基本だ。しかしここで注意して欲しいのは、「影響がある=悪影響がある」ではないことだ。
メディア(コンテンツ)が人間に影響を与えるのは確かだが、「コンテンツが人間や社会に悪影響を与えるか?」という問いになると、急にどっちとも言えなくなるのだ。何故なら、①「悪」という価値判断をしているのは誰か、②ある人間がどれくらい「悪」なのかを誰がどうやって判断するのか、という2点の極めて難しい問題を孕むことになるからだ。
まず、「悪」という判断が、例えば為政者であったり、特定の利害関係者の価値に基づくものだとしたら、その判断はフェアとは言えない。例えば、中国が共産党に反対する言論を「悪」とすることや、キリスト教徒がイスラム教徒の価値観を「悪」とすることがフェアからほど遠いことは、容易に理解されよう。
もう1つの難しい問題は、その曖昧なる「悪」影響とやらが「どれくらい」「どのように」高まるのかをちゃんと測定できるのか? という点だ。
例えばワールドベースクラシックスのテレビ中継を見た後に、イチローの真似してバットを振り回したくなった中学生を考えて見よう。これは悪だろうか? あるいは、映画『スターウォーズ』を見た後にライトセーバーを振り回したくなったとしよう。それってその人間が暴力的になったのだろうか? そうだと言えばそうも言えるし、否定することもできる。教室や街中でいきなり金属バットのフルスイングを始めれば周囲を恐怖のドン底に叩き込めるだろうが、野球場でやってる限り誰からも文句は出ない。そして、1週間もしたらその子は違う遊びをしているだろう。こういうのは極めて短期的な影響であって、スターウォーズマニアも、恒常的に刀で人を襲うようになったりはしない。斯様に、「悪」影響というのは満足に定義もできないし、その影響を計測することも難しい。
2D格闘ゲームがブームの頃ぐらいから、「暴力的で残酷なゲームは悪い」という主張は繰り返し聞かされたものだ。「暴力性が悪い」というのは、その通りじゃないかと言う人もいるかもしれない。だが、これだってよく考えると曖昧な話だ。「暴力性」や「残酷さ」は誰の基準でどう測るのか? という問題が必ず付いて回る。
以上のようにややこしい問題を抱えているため、コンテンツには確かに影響力があるけど、「悪」と言うのはいかがなものか、という風に学者は考えるわけだ。
「悪」影響とは何なのか、どう計測するのかという問いに満足に答えることが難しい中で、メディアの影響を探るとする科学者の研究は色々進められている。しかし、当然ながらその研究結果は、割れている。
よく心理学の学生などが行ってしまいがちなダメな研究の例としては、被験者を密室に閉じ込めて2時間ほど格ゲーやシューティングなんかをやらせて、「イライラしましたか?」などと質問したりする類のものだ。この手の実験は、
当然まじめな学者達は、この辺を何とか定量化しようとがんばることになる。研究室に閉じ込めて行う心理実験などのようなのも含めて、科学者は色々な限定条件をつけて、「ある特定の場合ならどうにか計測できるんじゃないか」という仮説の実証を、延々試みているのだ。限定した条件の下での限定した影響については、量として示すことを可能にしよう、と試しているわけ。
そうするとどうなるかというと、絶対に一般化することができない特殊ケースについての実験や調査、統計が蓄積されていくことになるのだ。だから、この手の議論はあっちのケースではこうで、こっちのケースではこうで、という話ばかりが積み上がり、尽きることがないのである。
適当に紹介しよう。例えば、David Phillipsは、“Natural experiments on the effects of mass media violence on fatal aggression: strengths and weaknesses of a new approach.”(Advances in Experimental Social Psychology, Volume 19, 1986, p.207-250)という論文で、「全国ネットで放映されるプロボクシングヘビー級チャンピオン決定戦から4日以内に何の罪も無いアメリカ市民が少なくとも11人冷酷に殺される」と唱えている。これは、ボクシングのチャンピオンが全国規模のメディアで尊敬すべき人物として讃えられるため、その悪影響が出るのだという主張だと思われる。ポイントは、被験者を研究室に閉じ込めたりせず、犯罪の数字を使ったことだ。しかしこの主張はやや疑わしい。1980年代のアメリカの年間の殺人事件発生数は、年間約2万件だ。1日辺り50件を大きく越える。ボクシングの試合放映から4日間、1日2人~3人程度殺人事件の被害者が増えるという計算になるが、果たしてこれは本当に有意な数字なんだろうか?
今度は逆のケースを紹介しよう。Josephson, W. L.は、“Television violence and children's aggression: Testing the priming, social script, and disinhibition predictions”(Journal of Personality and Social Psychology, 535, 1987 p.882-890)という論文で、暴力的番組の視聴率が高いほど、暴力犯罪の発生率が低いという結論の論文を発表している。これは、396人の2年生と3年生の男の子に暴力的な番組と暴力的でない番組を見せ、その後ホッケーの試合をさせて暴力性を測定しようとしたものだ。問診票のチェックで元々暴力性が低いと判断された子供たちは、暴力的番組を見せたところ攻撃性が下がったという。この研究についても、例えば問診票で測れるナニカを「暴力性」とする、と定義しているだけであって、その人間がどれくらい他人に暴力を振るうかなどを測っているわけではないこととか、同様にホッケーの試合が荒っぽいことでその人間を「暴力的」だと評価するのってどうよとか、色々突っ込みどころがある。
まあ、以上のように紹介すると、学者ってのがバカの集まりに見えるかもしれないが、まじめなアカデミシャンは、自分達がやっているのが特殊ケースであって、コンテンツそのものやメディアという仕組みそのものに、善悪を押し付けられないことくらい、実はとっくの昔に分かっている。
ものすごく古い論文を紹介しよう。Schramm, Lyle, & Parker は、“Television in the lives of our children.”(Schramm, W., Lyle, J., & Parker, E. B. Television in the lives of our children, Stanford University Press. 1961)という論文の冒頭で、
ある子供が、ある条件下におかれた場合、いくらかのテレビ番組は有害だ。しかし他の子供たちが同じ条件下におかれた場合、あるいは同じ子供たちが別の条件下におかれた場合には、そのテレビ番組は有益となる。そして、ほとんどの子供にとって、ほとんどの場合テレビ番組は特に有害でも有益でも無い (俺訳)と述べている。もはや1960年代の段階で、コンテンツ害悪論についてはほぼ結論が出ていると言える。ある子供にはあるコンテンツは有害であり、ある子供には同じコンテンツが有益であったりする。
例えば、『はだしのゲン』は今のところ有益なコンテンツということになってるだろうけど、アレは本当に有益なんだろうか? 反戦意識を高める人から良いということになってんだろうが、そもそもアレで反戦意識とやらは高まるのだろうか。で、それを高めるのは誰にとって良いことなのか。それに暴力やグロさがトラウマになる人もいるし、特高警察の拷問方法を熟読するガキだっているだろう。つまりは、コンテンツそのものが客体として善悪を帯びるわけじゃあないのだ。
ここまでのまとめ。コンテンツに影響力があるのは事実だが、常に「悪」影響があるなんてことはない。コンテンツ単体が善悪を帯びるわけでもない。影響の善悪や程度は場合によりけりで、あるコンテンツがどういう影響力を持つかは、研究者が設定した特定環境下以外では、よく分からん。
コンテンツそのものに害がある論ってのにムリがあることは、まともな学者なら分かっている。では、エロゲー害悪論、準児童ポルノ害悪論の立脚点は一体何なのか。江口聡は、『ポルノグラフィに対する言語行為論アプローチ』という論文で、ポルノを批判する文脈を次の5つに整理している。
このうち、①~④については、生身の女性についての話なのでほぼ関係が無い。エロゲー害悪論、準児童ポルノ害悪論の立脚点は、⑤あるいはそれに類する発想だ。簡単に説明すると、ポルノってのは、女性を従属させるという男性の行為そのものだから、ダメなんだそうな。何でポルノが女性を従属させる行為そのものになるのかというと、そういう風に考えることも可能だから、っていうか、ラングトンっていう人が思いついたからという、理由だか何だか判断のできないものが理由になっている。
『レイプレイ』事件で大いに力を発揮したEquality Nowが、
『レイプレイ』のようなコンピューター・ゲームは、性に基づく差別的振る舞いやステレオタイプを許容するものであり、これは女性に対する暴力を維持する(日本語訳より)という声明を出している背景には、こういう発想がある。女性をレイプするという表現そのものが、女性抑圧行為なのだという論理だ。どうだ、すげぇだろう? じゃあ、黒人差別を描いた物語は黒人抑圧の行為なんだろうかね?
しみじみ感心するのは、エロゲーやエロマンガが、実社会にどれくらい「害悪」をもたらすかどうか等々について、Equality Nowとか日本ユニセフとかは、計測する気なんか無いってところだ。まあ、さっきまで言っていたように、コンテンツはそのものに善悪が無いってことは分かりきってるから、いっそ計測しようともしないというのは、かなり潔いアプローチだと評価することもできる。ただ、このあまりに無茶苦茶な論法が、それなりに社会に通るところが恐ろしい。
江口氏の論文でも、「女性に対する暴力を『祝福・促進・許可・合法化する』ことが、女性に対する直接の『危害』であるかどうかは議論の余地があるかもしれないことはラングトンも認めている」って言ってるのに、表現=抑圧っていう等式を錦の御旗にしているんだよね。どうだ、オタク共、我々は恐ろしい連中を相手にしているだろう? 論理が通じない相手ほど怖いものは無いぞ。そして、どうもそれが多数派らしいんだ。
もし、幼女を犯すマンガを読んだとしても、「よーし、今日は近所の小学校に幼女犯しに行こうっと!」となるバカなど、まずいないのだ。我々は、妄想そのままの行動を取るのではなく、理性や社会性などによってその妄想をコントロールしながら生きていて、先のLivedoorのコラムでも書いたけど、理性の箍が外れて犯罪者となる人間は、日本では本当に少ないんだよね。そして、エロゲー害悪論者、準児童ポルノ規制派達は、本当に子供を守ろうとしているわけではなくて、自分達の価値観を押し広げたいだけなんだよ。
俺が一番ムカつくのは、規制派が理性を信じていない、つまりは日本国民をバカだと思っているところだ。自分の主張を、客観的な証拠と論理を用いて広げるのではなく、感情にアピールする形でプロパガンダを撒けば世論の支持が得られると思っているところだ。我々を、論理的にモノの考えられないアホと考えているからこそ取り得る手法だ。要するに、バカにされているわけだ。バカにされたら怒って文句を言わないといけない。
Livedoorでははっきり書かなかったけど、マスコミがそういう変な団体の主張をそのまんま伝えようとしていたら、毎日新聞が変態記事を載せたときのように、どんどん文句を言わなきゃいけない。電凸? スポンサー下ろし? やるなよ!? やるなよ!?
A・プラトカニス、E・アロンソン著の『プロパガンダ』はかなり面白い。 『影響力の武器』とも似ている。論文のポインタ集としてはかなり便利だ。ただし、「コンテンツが影響を与える」のが前提になっているので、例えば、D・フィリップスについては無批判だ。著者達のプロパガンダへの世代による反応の違いというのが興味深い。第二次大戦を経験している著者の1人はメディアを妄信していたが、ベトナム戦争世代のもう1人は、メディアが嘘を流すことを直感的に分かっていた、という。そして今の世代は、メディアが嘘を流していることを承知で、しかもそれに無関心なのだそうだ。恐ろしい話だ。
『プロパガンダ 』
アンソニー プラトカニス エリ…
L・カトナー、C・K・オルソン著の『ゲームと犯罪と子どもたち』。メタアナリシスと、多数のインタビュー調査で構成されている。ばっさり要約すると、子供からゲームを奪うと、子供は子供社会でハブられて、却ってロクでもないことになる、って話だ。メディア批判の歴史がコンパクトにまとめられているのも良い。19世紀は小説害悪論、20世紀になって映画害悪論、後半はテレビ害悪論、そしてゲーム害悪論、ネット害悪論と、この手のメディア害悪論が延々続けられてきたことがよくわかる。
『ゲームと犯罪と子どもたち 』
ハーバード大学医学部 ローレン…
ジュディス・レヴァイン著の『青少年に有害!』は、さまざまな出版妨害に合いながらも刊行された奇跡の書だ。児童ポルノを排除しようとすることは「臭い物にフタ」の行為でしかなく、子供たちが苦しむ本当の原因は貧困であったり無教育であることであって、小学生がキスをしたからといって「セックス依存症では!?」と騒ぎ立てたり、オムツの赤ん坊の写真をポルノだと取り締まっても、本当に何の価値も無い。貧困や教育に取り組み、きんちとした性知識を持たせることこそが本当に子供を救うことだというビジョンをちゃんと示している。ついでに言えば、日本の児童ポルノ法の最大の問題は、この表紙の写真も児童ポルノになりえる定義の曖昧さを内包していることだ。(2009/06/29 21:44追記)
『青少年に有害! 子どもの「性」に怯える社会』
ジュディス・レヴァイン
理性の弱い、もろに影響を受ける人もいるんだ
それって、Equality Nowとかのプロパガンダにあっさりだまされる人って意味? じゃないんだろうね。以下と一緒に答えよう。
「黒人を差別する事を主眼に描かれた物語」は黒人抑圧の行為になると思うけどな。
違うよ、どうしてそう考えるんだ? その物語は黒人を差別するという欲望の発露でしかない。ある日物語に足が生えてKKKと一緒に黒人殺しに行くわけじゃないだろ。抑圧は、物語から影響を受けた極一部の人が行うんだよ。で、それは、黒人差別を悲惨に描こうが、果敢に戦う様を描こうが、絶対に発生するんだよ。ナチズムについての肯定的言説が一切禁止されているドイツで、何故ネオナチに惹かれる人達が途切れないのか、考えたことがあるかい? 完全にナチズムを切るためには、ナチズムを肯定・否定する全ての言説を、丸ごと消す以外にない。でもそれは紛れも無い愚民化政策だ。
エロゲーやそのオタクは確かに気持ち悪いが~
これこそ差別だよね。外見差別イクナイ。個人的に誰かを気持ち悪いと思うことは思想信条の自由というやつで、いくらでも勝手にキモがれば良いし、俺だって「キモッ」と言うことはあるけれど、だからといってそいつらを社会から封殺する政策を取ったら、それは差別以外の何物でもなかろう。
そういや、俺が『レイプレイ』を擁護していると思っている人がいるようだが、どこにそう書いてあるのか指摘してみ? 俺は擁護に相当する文言を一言も書いて無いだろう。文章の趣旨は冒頭に要約したよね。俺が何を言っているのか分かるかな? (2009/07/21 00:26追記)そういえばこのひとは実作者でありながらさらにアカデミックに対抗できる人物か
いや、一応俺アカデミシャンだぜ? 後、まともなアカデミズムは大体味方だぞ。規制大賛成派の首都大学の前田雅英氏なんか、学者からはあまり相手されて無いもん。
で、俺達は具体的に何をどうすれば何とかなるんですか?というか何とかなる方法はないんですか?
散々書いてるんだから読み取ってくれ。
“電凸? スポンサー下ろし? やるなよ!? やるなよ!?” やらない方がいいですよねー(棒
つまりそういうことだ。論理的かつ冷静にな。
「物語から影響を受けた極一部の人が行う」影響うけるんじゃん。上で自分の言ったこと自分で否定しているし。
ついに冒頭の4行の要約すら読めない人間まで出たか。影響はあるって一番初めに言ってんだろうが。ここまで書いても「あるコンテンツからの影響を一律に『悪』と言うことはできない」っていう話が分からんのかぁ。一応これ学部生のレベルで読めるように書いたつもりなんだけどな。
顔出しでエロゲ擁護できる人いなさそうだしねぇ
お前さんは俺の顔も本名も知らんでここ読んどるんかえ? ぐぐるといいよ。
『萌え大全〈Vol.2〉
すぽーつうぇあ大全
(萌え大全 Vol. 2)』

『智場#113 情報通信政策
2010年代の輪郭』
中川 譲 アダム・ピーク 鬼木 …

さて、同日にどうやって2つのイベントに参加するのか。多分朝はショタケットに、昼からはティアに移動すると思います。その間は連れが切り盛りしてくれているはずですので、俺に会いたい人はそんな感じでお願いいたします。新刊はあんまり期待しないでねぇ。
地デジカ騒動について、あまりにいい加減なことを言う人が多いのでばっさりまとめた。著作権の問題だという人が多いようだが、問題の本質は著作権にはない。問題点は2つある。1つは、著作権はただでさえややこしいのに、著作権法にない「二次創作」なんて言葉を使ったせいで一層議論がややこしくなったこと。もう1つは「マスゴミ」体質のウェブメディアのせいで間違いが拡大したことだ。
まず、ここから始めよう。
あの鹿そっくりに描いた場合、怒られる可能性はある。その場合に、複製権だ同一性保持権だのといった、著作権法の概念を持ち出される可能性は高い。そして、pixivなどにのっけている場合、pixivごと怒られる可能性もある。これは事実だ。
しかし、美少女化なりショタ化なりムキムキな擬人化して描いた場合、それらに文句を言う法的根拠はほぼ無い。表現的に似て無さ過ぎるから、著作権で責めるのは不可能と想像される。常識的に考えて、変な色のスクール水着の女の子の絵を手当たり次第訴えられるわけがない。
商標が登録されていればそれで訴えることはできるかもしれないが、特許庁で検索しても出てこないので、現状、商標で文句を言うこともムリだろう。
だから、以下のような擬人絵を描いても文句は言いようが無いし、そこで地デジ行政を揶揄していたとしても、これまた文句は言いようが無い。こういうのは正当な表現行為だ。

昔、こういう赤いプラスチックの外装を持つSONYのブラウン管テレビ、しかもトリニトロンになる遥か前、というのが実家にあったような気がするんだが、今更探しようもないので適当に描いた。閑話休題。
そもそもの騒動の発端となったガジェット通信での記事を注意深く読んでみる必要がある。問題の根本はここにある。
記者はまず、「地デジカのイラストを掲載」することを「許すか」?と尋いている。これについて民放連は「無断掲載には厳しく対応していきます」と答えている。ここで考えなければいけないのは、民放連が何を想像しているかである。
ここでは、地デジカとして民放連が公表したイラストを、そのまんま勝手に掲載することについては許さないという意味だと考えるのが普通だ。これについてNOだということは、俺は驚くには値しない発言だと思う。ここまでで民放連は、「二次創作」なんて微塵も語っていないことに注意していただきたい。そのままのコピーは止めてくれ、としか言ってないと想像される。
記事に拠ればその後、「特に、二次創作キャラクターの作成や掲載につきましては、許されるものではありません」と続けたようであるが、じゃあこの場合の「二次創作」って何のことなのか。問題はここだ。民放連が何を二次創作として考えたのか、それはこの記事からは分からないんである。
以前、『同人作家も誤解する二次創作の「合法性」』という記事で書いたように、「二次創作」という言葉は著作権法の言葉ではない。俺が調べる限り、1990年代後半に一部のエロゲーメーカー、っていうか、つまりはLeafが使い始めてから広がった言葉であることは確かなようだ。
で、この言葉は極めて曖昧だ。元の素材をそのままつなぎ合わせただけの、著作権法的には限りなく黒い作品も、素材にあったアイディアを参考にしただけの、著作権法的には100%白い作品も、どちらも含まれる。
このインタビューの時に、民法連側がMADやコラなどの著作権法的に黒い「二次創作」を想像し、そしてそれを否定したがっていたとしても、何の不思議も無い。なぜなら、それはイキかどうかはともかくとして、現行法に基づく適法な要求だからだ。
それにも拘らず、彼らが「二次創作」という言葉で何を想定していたのかは確認せず、「地デジカをもとに美少女や萌え系のイラストを創作することは断固として許さない」などという、民放連側が言ってもいない上に、著作権法上否定することができない行為を、民法連が反対しているかのように記事をでっち上げたのは、他ならぬガジェット通信だ。
今回の件で民放連がイキでないことは確かだ。しかし、民放連はそれほど大きく間違ったことを言ってはいない。恐らくは、勝手にオリジナルのシカをコピーするなと言っただけだろう。むしろ、著作権法に載っていない「二次創作」という言葉の曖昧さに乗じて誤解を拡大させたガジェット通信にはそれなりに罪がある。
不確かなことを元に扇動するのが「マスゴミ」だというのなら、ガジェット通信がやったことはマスゴミの行動そのものだ。既存メディア対ネットっていう構造は、恐らく本質的な問題ではない。大きな声を出すメディアが、多くの人の信じたいデマを述べれば、そのデマは人心を惑わして、すぐ拡大してしまうのだ。
ネットメディアも、広告ビジネスにどっぷり依存するのならば、人の関心を引くためだけのアジテータ中心になるだろう。そうしたら、あまり既存メディア、つまりは「マスゴミ」と変わらないことが起きると思う。「マスゴミ」の正体が本当は何なのか、考える必要がある。
はてブや拍手などから。
キャラクターの改変をして、どこまでが法的に複製でないか?ってのはケースバイケースなんでは?
俺は一貫してケースバイケースだって言ってんだろ。文章読めなさ杉にも程がある。
権利者のコントロールの及ぶそっくりさんと及ばない改変との境界に興味がある
まあこれもケースバイケースですが、最終的には「常識」ってことですよ。
サザエボンとかDOB君とか
ドテラマン裁判
だって、これらはどれも、まあそれなりに似ていたでしょ。
俺は、この3つの例ほど鹿とすく水の子とが「表現的」に似てるとは思えないし、この判断はわりと普遍的だと思うから、上に掲載したような絵を描いて公開してるけど、この俺の絵と民放連の鹿が「そっくり似ている」という人は、まあ世界も広いから少しはいるかもしれないね。俺の目には別物にしか見えんが。
この辺はバランスとか常識の問題だよ。 (2009/05/02 18:27追記)
さらに追記。
「美少女化なりショタ化なりムキムキな擬人化して描いた場合」○○『化』って言ってる時点で、同一性保持権を侵害してますって言ってる様なものかと。そういう絵は大抵「地デジカ」タグもセットだし。
一体どこのバカなら、擬人絵を地デジカそのものだと思うんだろうね? 誰が見ても別モノじゃん。ここまで表現が違うものは、別個の著作物になるんだよ。判例っぽい表現で言えば、擬人絵からは地デジカの「本質的な特徴を直接感得できない」と判断されると考えるのが妥当。
はてブを読んだり他のサイトを回ったりすると、一体どれだけの人が、著作権法を「表現規制法」のようなものと誤解しているのかと、空恐ろしくなる。 (2009/05/09 14:09追記)
地デジ促進キャンペーン」の偶像であるキャラをネットでの情報拡散にすら利用できない部分が叩かれてるのでは?
前にも書いた通り、民放連は粋ではないけど、適法な反応をしているだけだから、俺はあまり批判する気にはならんなぁ。著作権法を変えてフェアユース入れよう! とかいうんなら分かるけど。
後、「普及キャンペーンのためなんだからブログとかにもどんどんコピーさせろよ」って主張する人については、
私が民放連だったら卑猥な二次創作なんかより、ジデジカ(原文ママ)のステッカー作って脱獄製品に張って売るような糞業者が出てこないかの方が気になる
という、はてブコメントにあった危惧をどう拭うのか、尋いてみたい。 (2009/05/10 16:44追記)
さらさらさらに追記。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090508/194086/
こんな記事が出た。趣旨としては結構だが、小田嶋さん、あなたもガジェット通信の例の記事を満足に読めていないのに、「民放連にはメディアリテラシーがない」などと嘲笑するのは、いかがなものなのか。
別に俺、民放連をかばう気はまったく無いんだけど、真摯にモノを書こうというのなら、いくら自分の書きたい話に都合が良いからといって、煽り記事を丸呑みしてはいけないと思うんですよ。 (2009/05/12 05:30追記)