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オタクからコメさんへのお返事

すごく長文の拍手を頂戴した。

記事、ぱら読みではありますが、面白かったです。

ヲタクってすごいんだなーと思いました。楽な方に流れようとする人は、支配される体制を好んだり、傍受するだけの情報を好んだりするけど、ヲタクはわざわざ楽な流れに抗って、自由を求めたり、自分の頭で考えようとするのだな、と。

……もちろん、私の考え方も曲解している恐れを孕んでいて今コメントを送っているのがとてつもなく怖いのですが。

私は、ヲタクの事をとても格好悪い(というより気持ち悪い)と思っています。

「美少女萌えー」と言っている人間全てが、ペドフィリアで、性的な暴行を少女に加えるとは思ってませんし、第二次成長を迎えた10歳頃の女の子に性的な欲求を感じるのは生産的なのでまだアリだと思うのです(……肯定は絶対に出来ませんけど)。それよりもよっぽど「社会の中でまっとうに生きてます」という顔をしながら、電車内で痴漢行為を働く人間の方がよほど許し難い。

あれ、論題がずれた。えーと、そんな気持ち悪いヲタクのスタイルを好んで貫くスタイルに感銘に似た畏怖を抱きました。自分の頭で考える事の難しさと大事さを学んだ気がします。

考えさせてくれる記事を提供して頂き、こんな支離滅裂で長い文を読んで頂き、どうもありがとうございました。

「彼だか彼女だか分からないコメントをくれた誰か」だと呼びにくいので、コメさんと呼ぼう。コメさんの意見には色々と考えさせられることが多かった。あの小さい入力欄に長文を入力する気になってくれたコメさんに敬意を表し、丁寧にお返事しようと思う。

「オタクは気持ち悪いが俺の存在は許してやっても良い」というのがコメさんの趣旨だと思う。俺が評価された理由は何だろう。

まず可能性の1つとして、所属する学術機関の力が有効に機能したことは考えられる。ある程度のキチガイがフィルタリングされていると想像することは容易だ。でもそれだけでは、蓋然的にキチガイじゃなさそうだというだけだ。

次に「自分の頭で考えていそう」というところが評価されているようにも思われる。でも自分の頭で考えるってのはどういうことだろう。誰だって自分の頭で考えているはずだ。欲望に身を任せている人だって、その行動は、その人の持つ脳による情報処理の結果だろう。

あるいは、ほぼ実名でこういうサイトをやっている傾きっぷりというか、露悪趣味というか、そういうところがコメさんにウケたのだろうか。

それとも、幼女の絵をほぼ本名で描いているような人間は、「自分が社会にとって危険であると表明している人」であって、それは「危険性を隠している人」よりはマシということだろうか。

一応、女の子の絵を描くのが好きだと表明した俺を、面と向かって幼女連続強姦魔か何かのように捉えた人間は、今のところいない。学者、官僚、主婦、無職、幼稚園児の娘を持つ母親など、色々な人に伝えてきたが、直接悪くは言わなかった。みんな常識人だったから、流石に本人の前では悪く言わないよね。一応俺は1年くらい絵の仕事だけで食べてた時期もある人間なわけだし。ただ、こういう絵を描く人間を世間一般がどう評価しているのかについて、俺は無知ではないつもりだ。

世間のオタクへの風当たりは、別に和らいでいるとは思わない。「オタク」という語は、80年代に中森明夫が使い出した時から現在に至るまで、「気持ち悪いヤツら」に対する罵声、そしてそう罵られるヤツらの自嘲の言葉だったんだから。

つまり、こういうことだろう。特定の個人(この場合俺)が、分かりやすく己の脳内を語れるのであれば、コメさんをはじめとし、多くの人も理解できる。ただ、似たような行動を取る人間が大勢いて、そいつらを集団としてみた場合は、理解がグンと難しくなる。その中には、エリート官僚もいれば、性犯罪者もいるだろう。一言で集団を理解できるわけが無い。だが、その有象無象にレッテルを貼ってまとめてしまおうとするのが、情報処理能力に上限がある故の、人間の必然的な行動パターンだ。そしてそういう単純な記号化が、オタク=ペドフィリアのような、明らかに間違っているレッテルを貼り、そういう分かりやすい言説がマスメディアを闊歩する。

オタクなら、こういう分かりやすいレッテル貼りに怨嗟の声を上げたくなるだろうけど、自分だって、他人にはそういうレッテルを貼っているはずだから、オタクを気持ち悪がっていたコメさんを容易くは非難できない。「政治家」は、「金と権力が好きで汚職ばっかやってそう」だろう?

俺はオタクの代表ではない。でも、俺は世間に「オタク」というレッテルを貼られる存在だと思う。もし俺の存在によって、コメさんが多少なりとも「オタク」を肯定的に評価してくれたのだとしたら、オタク達にとって大事なのは、「まともそうなオタクもいる」、「面白いオタクもいる」というように、自分を肯定的に評価してくれる知己を増やすのが大事、ということなんだと思う。

それが何によってなされるのかは、よく分からん。とりあえず 電車男 みたいなのは止めて欲しい。

さてさて。

その他のコメント幾つかにも、お返事。今のペースだと返信は月に1度くらいになるなぁ。

  • 2007年あけましておめでたかった

    この子、しっぽがあるのに耳はない!(ツイテはあるけど) は!これがもしかして噂のトリプルテールって奴ですか!?

    おおなるほど、俺の好みはトリプルテールだったのか! 新ジャンルですな。所詮ただのネコミミなんぞシングルテール。猫又なら 2 + 2 でクアドロテールに、そして九尾の狐ならウンデキャプルテールか!

    邪道こそ正義!

    何気ない一言かもしれんが、歴史的にはすごく真理を突いたテーゼかもしれん。奥が深い。

  • オーマイニュースで分かったこと
    「本多勝一」ですよー

    む、鋭い指摘。誤字ってました。

  • 『ねこだもの』ポスター
    握手するの忘れてました。。。

    いつでもどうぞ。

    そういえばこの前、本郷から水道橋の辺りを自転車で走っている時にふと街頭スクリーンに目をやったら、「東京ドームシティーでボクと握手!」と言ってました。「後楽園遊園地でボクと握手」というフレーズに耳馴染んだ世代としては一抹の寂しさがあります。

  • クリスマス限定ワキワキ
    くりすますbqあ@じょんかわゆす!

    まあもちつけ、このワキフェチが。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2007-02-12 22:27:50

表現というアーキテクチャ

絵画とは、受け手の視線の動きをコントロールし、何らかの感情や思想を想起させるための表現だ。「視線 誘導」などでググってもらうと幾つかそういうページが見つかると思うが、構図というのは、鑑賞する人間の視線を特定の要素へ誘導するための技法 のことなのだ。絵を描いたり写真を撮ったりする人間は、どう要素を配置すれば受け手に「見てもらうか」というのをずっと考えている。あえて嫌な言い方をすれば、どう配置すれば受け手の行動(視線)をコントロールできるか考えてる、といっても間違いではない。

マンガの場合を考えるともっと分かりやすい。マンガでは、絵の他に言葉も利用して、受け手の行動や思考や感情をコントロールしている。マンガを読んで喜んだり泣いたりするということは、受け手に感情をコントロールされていることに他ならない。さらに、アニメや映画などの映像作品は、音声と映像と時間を利用して同じことをやる。ゲームはユーザからのフィードバックが入るが、やっていることは一緒だ。

つまり表現された作品というものは、一種の「アーキテクチャ」なのだ(ここでいう「アーキテクチャ」とは、「枠組み」とか「仕組み」とか「行動を制限をする構造」といった意味です。)。表現は、受容者に感情や思念などの新たな何かを想起させているが、それは受け手の行動や感情を制御することによって実現されている。

もちろん、作家は読者の全てをコントロールしうる神などというわけではない。その作品が提供するアーキテクチャを気に入らなければ、絵なら見るのを止めればいいし、音楽なら聞かなきゃいい。それに、作り手の想定していない作品の受け取り方というものは多数存在していて、たとえば俺の作った もじうめ は、絵師などが画像を整理するために、と思って作ったんだけど、実は携帯電話向けコンテンツ用の画像処理に使われているケースの方が多いらしいし(俺はプログラムを表現だと考えています)、絵についてだって、予想もしない受け取り方をされることは多い。構図的に寂しいので穴埋めのつもりで描いただけの小動物が意外にウケたりする。すなわち、ある表現には、受け取り方の幅というものが存在する。その幅はかなり大きく、しかも人や時代によって変遷していく。だから、評論という表現活動も成立するし、過去の作品を現在の文脈で読み直すといったことも可能になる。

例えば SQUARE の大作 RPG なんかは、あまりに一本道なもので、“アーキテクチャに縛られる”という感覚が体感できてしまう。より普通の言葉でいえば「やらされてる感が強い」。これは上記の、受け取り方の幅というものが、意図的にかなり狭められているからだと思われる。色々な受け取り方を許容する作品であるならば、(面白いかどうかはともかくとしても)やり込めるゲームと言えるだろう。

アーキテクチャによる自由の制限は随所で行われている。そしてそれらはとても意識しにくい。今後は、単純なメディア・リテラシのみならず、アーキテクチャ・リテラシみたいなのが大事になってくるのかも。

(46)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:16

無関心でいるために関心をもつ

俺は政治的な活動ってのはでぇっ嫌いだ。自分に好意を持っているかどうかもわからない上に理解力の足りない人に自分の意思を的確に伝えてなんらかの行動を起こしてもらうなんて全然好きじゃない。まあオタクだしそんなもんだろ。しかし世の中は広い。そういうのが好きな人もいるらしい。一種の征服欲が満たされる喜びを求めてるのかもしれないし、信念が達成される満足感なのかもしれない。いずれにしろよく分からない。

そんな俺でも、政治的な部分に無関心でい続けるのは難しい。青少年健全育成基本法で表現規制とか児童ポルノ法での絵の規制とかさ、ああいうオタクの首を絞めたがるのって、行政側が何らかの悪意を持ってしかけてくるように見えるじゃない、ヲタの身としては。でも最近、そういう行政とかの意思決定できるようになる人たちとかをわりと近くで見てると、思うんだ。こいつら、悪意なんて別にないんだろうなぁ、って。

なんでって、オタクじゃない人はオタクを全然知らないから。考えてみてくれよ、非オタクたちは、あの東浩紀の『動物化するポストモダン』を読むくらいしか、オタクやその行動様式を知る術がないんだぜ (それ以前は大塚英志の『物語消費論』だよ。自分の作品の売り込みのために考えたことを取りまとめたあの本)。ああいうのを読んだら、いまのオタク達が目指すべき目標や価値観というようなものを失っていて、即物的に楽しんでいるだけっていう風に解釈されるだろうし、さらにタチの悪いことにそれはオタクの一面の分析としては極めて分かりやすい形で現状を説明している……いや、もってまわった言い方を止めれば、正しい分析だと思う(細かい間違いは多いけどな)。明確な目標を持って生きていくことが当たり前のエリートたちやハイソサイエティにとって、そういう生き方ってどう映ると思う?

「社会のためになる正しい道を与えてやる」になるか、「バカは遊ばせておいてガンガンむしりとってやる」の二択になると思わん? だからさ、むしろ青少年健全育成なんてのを目指してる方はまだオタクにとってマシなのかもしれないよ? 彼らの多くは、純粋に善意でオタクを更正させようとしてくれてるのではないかと思う。そして、それがいかに勘違いであるかを指摘してくれる人は誰も周囲にいない。オタクで大きな声を上げてるのは、政治闘争そのものが大好きで日々「粉砕」とか「勝利」とかしてそうな左翼系で、ちょっとヘンで、関わりたくもない人たちばっかりだったりするし。

「社会のためになる正しい道を与えてやる」ってのは、テレビとか映画とかの比較的メジャーなメディアで目指されていると思われる。この手のメディア戦略が有効なのはいまさらいうまでもなかろう。たとえば、NHKスペシャル の『映像の世紀』には、第一次大戦時に戦時国債売り込みをやっているチャップリンが映っているし、エイゼンシュタインリーフェンシュタール 辺りは有名どころだから、傍証は十分だ。今だってマスメディアはやってんだろうけど、最近はちょっと視聴者も知恵つけちゃってるんだよね。

一方「バカは遊ばせておいてむしりとる」ってのは主に商売人の発想だから、国策としては取りにくかったと思う。でもさ、国もいわゆるポストモダン状態だったら、国としての理念なんてものを重要視するより、商売人の発想を優先することもありえるよね。そもそも、産業を維持するってのは国のためになるわけだし。そして最近、行政がオタク関係の生産側の方へ色々と首を突っ込もうとしてる。色々なことを知らないままに。大体、東の本なんかに目を通してるのはまだ勉強している方で、大体は日経とかが宮崎や押井煽ったのを真に受けてるだけだろう。

まぁ、山形浩生が危惧していたようなことが現実に起こらんようできるだけくちばしをつっこむってのが、せいいっぱいの俺の良心だろうな。

(47)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:17

エトナたんマンセー

わーい、ちょっと今さらだけどエトナたんゲットー。ほんとだパンツ履いてなーい。(ぇ

(54)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 22:21:45

聖地巡礼

こっそりおねてぃ & おね2 聖地巡礼に行って参りました。木崎湖の日の出(例の桟橋から撮影)は非常に美しかった。木崎湖の周りには、トトロくらいいてもいいかもという森と田んぼとひなびた家、そしてその中を通る一本の線路。これは日本人の考える理想的な田舎像ではないかなぁ。純粋に観光で行っても心洗われると思います。いわゆる観光名所ってのはなーんもないけどね。

(46)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 22:21:29

略すとTM

村上 隆はオタクの敵か味方か。多分敵ではあるだろう。彼はとてつもなく頭が良いからだ。友達じゃない無茶苦茶頭の良いヤツは敵である。

彼は、糞マテリアルに対してバカが金を落とす文脈を作ってしまうことが出来る。彼は単にその素材にオタクのマテリアルを選んだだけであろう。だから、いわゆるオタク作品は作らない。オタク的に、彼の作品に萌えられなかったり、むしろかなりキモかったりするのは当然なんである。オタク作品とアート作品とでは、値段が3桁は違う。何故違うのかといえば、彼はその価値を生み出す文脈ごと作品を作り上げられるからだ。「この糞みたいな作品はどうすんばらしいのか」を自ら語りながら聴衆に聞かせて、一部のバカにそれを納得させて金を巻き上げる力がある。まあ金を巻き上げるのは2次的なこととして、より真っ当な表現をすれば、彼は「意味の創造」の能力が高いのだ。意味があるものとは価値があるものであり、資本主義社会では高価な値が付く。

で、この後誰でも思いつくパターンとして、「こういった村上の手法は、既存のアートのコンテキストや価値感、意味へのアンチテーゼとして云々」と論を進めるのが無難なところであろう。クラシカルな芸術は何故アートたりえるのか、オタク作品は何故商業芸術や趣味の領域でしかないのか。彼がそのボーダを崩すことによって、既存のパラダイムも壊れていくのではないか。

……なんてな、多分彼の目の前でこういう単純な展開で話を〆たりしたら、鼻で笑ってその場ででっち上げた適当な反論をする能力があるんだろう。あー憎たらしい。(w だから友達じゃない頭の良いヤツは敵なんだって。ヤツはオタクの敵だ。(w

(47)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 00:06:35


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