全文検索(S)

エロゲー規制派・児童ポルノ規制派の考え方の恐ろしさ

要約

公開したらいきなり「なげーよ」って言われたので、要約を付けておく。(2009/06/25 03:18追記)

  1. メディア(コンテンツ)はもちろん人間の行動に影響あるよ
  2. でも「悪」影響があるとはいえないよ
  3. エロゲとか児ポ規制派とかはそんなこと気にせず言いたいこと言ってるよ
  4. オマエラもっと怒れ

はじめに

先日livedoorで「レイプレイ事件」のコラムを書いたけど、あれで言い足りなかった(ていうか編集が入ってよく分からなくなったところがある)ので、長文だが俺の言いたいことを書いておく。

児童ポルノ法の審議入りも近い。エロゲー規制に加えてどこまで与党案が盛り込まれるのか、大変憂慮している。だが、規制反対派にはヒステリックな反応をして欲しくない。そのために、できるだけ分かりやすく「メディア害悪論」と「ポルノ規制論」についての俯瞰を提供したいと思う。

メディア(コンテンツ)は人間に影響を与えるのか?

メディア(コンテンツ)は人間に影響を与えるのかといえば、もちろん与えるに決まっている。メディアを利用して流布するコンテンツ、つまりは一定の情報が人間の思考や行動に影響を与えるか? という命題は、紛れも無く真だ。

コンテンツは人間を一定程度コントロールするから、「プロパガンダ」という概念がある。結局イラクに大量破壊兵器は無かったじゃないか。でも、「ある」という情報を流し込まれれば、人間はその情報に基づいて一定の判断をし、行動を起こす。情報が人をコントロールするのは紛れも無い事実だから、「情報戦」という概念もある。もっと単純に考えても好い。「明日は100%雨が降る」という天気予報だってコンテンツだ。アナタの行動に影響を与えないわけが無い。

より卑近な話になるが、オタクなアナタはエロマンガでオナニーしてるんでしょ? エロゲーで抜いてるんでしょ? 別に恥ずかしがることもない、クリエイタは、アナタがそういう用途に使ってくれるよう、血を吐きながら創っているんだから。それはつまり、エロマンガやエロゲーがあるお陰で、アナタのリアルワールドでの行動は変化しているってことだ。そもそも、その作品を消費するために、他の趣味なり仕事なりの時間を削るわけじゃん。引きこもってる人だって、ゲームに熱中して飯を食い忘れたりなんてことがあるだろう。つまり「機会損失」を出しているわけだ。こういうのをひっくるめれば、「コンテンツは人間に影響を与える」って言うしかない。エロゲー規制児童ポルノ規制反対の人も、まずこれは認めよう。

既存のメディアについての学術的な研究をものすごく大まかにまとめれば、

  1. 人間はメディアに言われた通りに動くぜ(強力効果説)
  2. おいおい、人間はそんなバカじゃねぇよ(限定効果説)
  3. いやいや、やっぱり結構影響あるでしょ(議題設定機能説等)
という歴史的な変遷を辿っている。詳しく知りたい人は、吉見俊哉の『メディア文化論』辺りを読むと良い。優れた入門書だ。

現在一般的な考え方は、「結構影響がある」が基本だ。しかしここで注意して欲しいのは、「影響がある=悪影響がある」ではないことだ。

コンテンツが「悪」影響を与えるという考えが正しくないわけ

メディア(コンテンツ)が人間に影響を与えるのは確かだが、「コンテンツが人間や社会に悪影響を与えるか?」という問いになると、急にどっちとも言えなくなるのだ。何故なら、①「悪」という価値判断をしているのは誰か、②ある人間がどれくらい「悪」なのかを誰がどうやって判断するのか、という2点の極めて難しい問題を孕むことになるからだ。

まず、「悪」という判断が、例えば為政者であったり、特定の利害関係者の価値に基づくものだとしたら、その判断はフェアとは言えない。例えば、中国が共産党に反対する言論を「悪」とすることや、キリスト教徒がイスラム教徒の価値観を「悪」とすることがフェアからほど遠いことは、容易に理解されよう。

もう1つの難しい問題は、その曖昧なる「悪」影響とやらが「どれくらい」「どのように」高まるのかをちゃんと測定できるのか? という点だ。

例えばワールドベースクラシックスのテレビ中継を見た後に、イチローの真似してバットを振り回したくなった中学生を考えて見よう。これは悪だろうか? あるいは、映画『スターウォーズ』を見た後にライトセーバーを振り回したくなったとしよう。それってその人間が暴力的になったのだろうか? そうだと言えばそうも言えるし、否定することもできる。教室や街中でいきなり金属バットのフルスイングを始めれば周囲を恐怖のドン底に叩き込めるだろうが、野球場でやってる限り誰からも文句は出ない。そして、1週間もしたらその子は違う遊びをしているだろう。こういうのは極めて短期的な影響であって、スターウォーズマニアも、恒常的に刀で人を襲うようになったりはしない。斯様に、「悪」影響というのは満足に定義もできないし、その影響を計測することも難しい。

2D格闘ゲームがブームの頃ぐらいから、「暴力的で残酷なゲームは悪い」という主張は繰り返し聞かされたものだ。「暴力性が悪い」というのは、その通りじゃないかと言う人もいるかもしれない。だが、これだってよく考えると曖昧な話だ。「暴力性」や「残酷さ」は誰の基準でどう測るのか? という問題が必ず付いて回る。

以上のようにややこしい問題を抱えているため、コンテンツには確かに影響力があるけど、「悪」と言うのはいかがなものか、という風に学者は考えるわけだ。

学者は何をやっているのか?

「悪」影響とは何なのか、どう計測するのかという問いに満足に答えることが難しい中で、メディアの影響を探るとする科学者の研究は色々進められている。しかし、当然ながらその研究結果は、割れている。

よく心理学の学生などが行ってしまいがちなダメな研究の例としては、被験者を密室に閉じ込めて2時間ほど格ゲーやシューティングなんかをやらせて、「イライラしましたか?」などと質問したりする類のものだ。この手の実験は、

  1. 慣れない環境や長時間の拘束などゲーム以外の要因でイライラしている可能性を排除できないという問題
  2. 短時間イライラすることはその人間が「暴力的」なこととイコールなのかという問題
などが解決されないまま、「ゲームは暴力性を高める」あるいは「あまり影響が無い」などの結論に結び付けられがちだ。慣れないコントローラでつまらんゲームを衆人環視の中2時間もプレイさせられたら、それだけで十分イライラできると思うが、それはコンテンツのせいではないし、そのイライラのせいで、今まで穏便だった人が急に暴力的な人間に変化するわけではない。あるいは、ゲームを冷静にプレイしたからといってその人が暴力を振るわない保障など、どこにあるというのだろうか。

当然まじめな学者達は、この辺を何とか定量化しようとがんばることになる。研究室に閉じ込めて行う心理実験などのようなのも含めて、科学者は色々な限定条件をつけて、「ある特定の場合ならどうにか計測できるんじゃないか」という仮説の実証を、延々試みているのだ。限定した条件の下での限定した影響については、量として示すことを可能にしよう、と試しているわけ。

そうするとどうなるかというと、絶対に一般化することができない特殊ケースについての実験や調査、統計が蓄積されていくことになるのだ。だから、この手の議論はあっちのケースではこうで、こっちのケースではこうで、という話ばかりが積み上がり、尽きることがないのである。

適当に紹介しよう。例えば、David Phillipsは、“Natural experiments on the effects of mass media violence on fatal aggression: strengths and weaknesses of a new approach.”(Advances in Experimental Social Psychology, Volume 19, 1986, p.207-250)という論文で、「全国ネットで放映されるプロボクシングヘビー級チャンピオン決定戦から4日以内に何の罪も無いアメリカ市民が少なくとも11人冷酷に殺される」と唱えている。これは、ボクシングのチャンピオンが全国規模のメディアで尊敬すべき人物として讃えられるため、その悪影響が出るのだという主張だと思われる。ポイントは、被験者を研究室に閉じ込めたりせず、犯罪の数字を使ったことだ。しかしこの主張はやや疑わしい。1980年代のアメリカの年間の殺人事件発生数は、年間約2万件だ。1日辺り50件を大きく越える。ボクシングの試合放映から4日間、1日2人~3人程度殺人事件の被害者が増えるという計算になるが、果たしてこれは本当に有意な数字なんだろうか?

今度は逆のケースを紹介しよう。Josephson, W. L.は、“Television violence and children's aggression: Testing the priming, social script, and disinhibition predictions”(Journal of Personality and Social Psychology, 535, 1987 p.882-890)という論文で、暴力的番組の視聴率が高いほど、暴力犯罪の発生率が低いという結論の論文を発表している。これは、396人の2年生と3年生の男の子に暴力的な番組と暴力的でない番組を見せ、その後ホッケーの試合をさせて暴力性を測定しようとしたものだ。問診票のチェックで元々暴力性が低いと判断された子供たちは、暴力的番組を見せたところ攻撃性が下がったという。この研究についても、例えば問診票で測れるナニカを「暴力性」とする、と定義しているだけであって、その人間がどれくらい他人に暴力を振るうかなどを測っているわけではないこととか、同様にホッケーの試合が荒っぽいことでその人間を「暴力的」だと評価するのってどうよとか、色々突っ込みどころがある。

まあ、以上のように紹介すると、学者ってのがバカの集まりに見えるかもしれないが、まじめなアカデミシャンは、自分達がやっているのが特殊ケースであって、コンテンツそのものやメディアという仕組みそのものに、善悪を押し付けられないことくらい、実はとっくの昔に分かっている。

ものすごく古い論文を紹介しよう。Schramm, Lyle, & Parker は、“Television in the lives of our children.”(Schramm, W., Lyle, J., & Parker, E. B. Television in the lives of our children, Stanford University Press. 1961)という論文の冒頭で、

ある子供が、ある条件下におかれた場合、いくらかのテレビ番組は有害だ。しかし他の子供たちが同じ条件下におかれた場合、あるいは同じ子供たちが別の条件下におかれた場合には、そのテレビ番組は有益となる。そして、ほとんどの子供にとって、ほとんどの場合テレビ番組は特に有害でも有益でも無い (俺訳)
と述べている。もはや1960年代の段階で、コンテンツ害悪論についてはほぼ結論が出ていると言える。ある子供にはあるコンテンツは有害であり、ある子供には同じコンテンツが有益であったりする。

例えば、『はだしのゲン』は今のところ有益なコンテンツということになってるだろうけど、アレは本当に有益なんだろうか? 反戦意識を高める人から良いということになってんだろうが、そもそもアレで反戦意識とやらは高まるのだろうか。で、それを高めるのは誰にとって良いことなのか。それに暴力やグロさがトラウマになる人もいるし、特高警察の拷問方法を熟読するガキだっているだろう。つまりは、コンテンツそのものが客体として善悪を帯びるわけじゃあないのだ。

ここまでのまとめ。コンテンツに影響力があるのは事実だが、常に「悪」影響があるなんてことはない。コンテンツ単体が善悪を帯びるわけでもない。影響の善悪や程度は場合によりけりで、あるコンテンツがどういう影響力を持つかは、研究者が設定した特定環境下以外では、よく分からん。

エロゲー害悪論の立脚点は何か

コンテンツそのものに害がある論ってのにムリがあることは、まともな学者なら分かっている。では、エロゲー害悪論、準児童ポルノ害悪論の立脚点は一体何なのか。江口聡は、『ポルノグラフィに対する言語行為論アプローチ』という論文で、ポルノを批判する文脈を次の5つに整理している。

  1. ①性暴力アプローチ
  2. ②名誉毀損アプローチ
  3. ③搾取アプローチ
  4. ④モノ化アプローチ
  5. ⑤言語行為論アプローチ

このうち、①~④については、生身の女性についての話なのでほぼ関係が無い。エロゲー害悪論、準児童ポルノ害悪論の立脚点は、⑤あるいはそれに類する発想だ。簡単に説明すると、ポルノってのは、女性を従属させるという男性の行為そのものだから、ダメなんだそうな。何でポルノが女性を従属させる行為そのものになるのかというと、そういう風に考えることも可能だから、っていうか、ラングトンっていう人が思いついたからという、理由だか何だか判断のできないものが理由になっている。

『レイプレイ』事件で大いに力を発揮したEquality Nowが、

『レイプレイ』のようなコンピューター・ゲームは、性に基づく差別的振る舞いやステレオタイプを許容するものであり、これは女性に対する暴力を維持する(日本語訳より
という声明を出している背景には、こういう発想がある。女性をレイプするという表現そのものが、女性抑圧行為なのだという論理だ。どうだ、すげぇだろう? じゃあ、黒人差別を描いた物語は黒人抑圧の行為なんだろうかね?

しみじみ感心するのは、エロゲーやエロマンガが、実社会にどれくらい「害悪」をもたらすかどうか等々について、Equality Nowとか日本ユニセフとかは、計測する気なんか無いってところだ。まあ、さっきまで言っていたように、コンテンツはそのものに善悪が無いってことは分かりきってるから、いっそ計測しようともしないというのは、かなり潔いアプローチだと評価することもできる。ただ、このあまりに無茶苦茶な論法が、それなりに社会に通るところが恐ろしい。

江口氏の論文でも、「女性に対する暴力を『祝福・促進・許可・合法化する』ことが、女性に対する直接の『危害』であるかどうかは議論の余地があるかもしれないことはラングトンも認めている」って言ってるのに、表現=抑圧っていう等式を錦の御旗にしているんだよね。どうだ、オタク共、我々は恐ろしい連中を相手にしているだろう? 論理が通じない相手ほど怖いものは無いぞ。そして、どうもそれが多数派らしいんだ。

俺は何にムカついているか

もし、幼女を犯すマンガを読んだとしても、「よーし、今日は近所の小学校に幼女犯しに行こうっと!」となるバカなど、まずいないのだ。我々は、妄想そのままの行動を取るのではなく、理性や社会性などによってその妄想をコントロールしながら生きていて、先のLivedoorのコラムでも書いたけど、理性の箍が外れて犯罪者となる人間は、日本では本当に少ないんだよね。そして、エロゲー害悪論者、準児童ポルノ規制派達は、本当に子供を守ろうとしているわけではなくて、自分達の価値観を押し広げたいだけなんだよ。

俺が一番ムカつくのは、規制派が理性を信じていない、つまりは日本国民をバカだと思っているところだ。自分の主張を、客観的な証拠と論理を用いて広げるのではなく、感情にアピールする形でプロパガンダを撒けば世論の支持が得られると思っているところだ。我々を、論理的にモノの考えられないアホと考えているからこそ取り得る手法だ。要するに、バカにされているわけだ。バカにされたら怒って文句を言わないといけない。

Livedoorでははっきり書かなかったけど、マスコミがそういう変な団体の主張をそのまんま伝えようとしていたら、毎日新聞が変態記事を載せたときのように、どんどん文句を言わなきゃいけない。電凸? スポンサー下ろし? やるなよ!? やるなよ!?

追記

どういう本を読めば良いのかということで、上記を書く上で参考になった一般書を挙げる。 (2009/06/25 08:55追記)

A・プラトカニス、E・アロンソン著の『プロパガンダ』はかなり面白い。 『影響力の武器』とも似ている。論文のポインタ集としてはかなり便利だ。ただし、「コンテンツが影響を与える」のが前提になっているので、例えば、D・フィリップスについては無批判だ。著者達のプロパガンダへの世代による反応の違いというのが興味深い。第二次大戦を経験している著者の1人はメディアを妄信していたが、ベトナム戦争世代のもう1人は、メディアが嘘を流すことを直感的に分かっていた、という。そして今の世代は、メディアが嘘を流していることを承知で、しかもそれに無関心なのだそうだ。恐ろしい話だ。


L・カトナー、C・K・オルソン著の『ゲームと犯罪と子どもたち』。メタアナリシスと、多数のインタビュー調査で構成されている。ばっさり要約すると、子供からゲームを奪うと、子供は子供社会でハブられて、却ってロクでもないことになる、って話だ。メディア批判の歴史がコンパクトにまとめられているのも良い。19世紀は小説害悪論、20世紀になって映画害悪論、後半はテレビ害悪論、そしてゲーム害悪論、ネット害悪論と、この手のメディア害悪論が延々続けられてきたことがよくわかる。


ジュディス・レヴァイン著の『青少年に有害!』は、さまざまな出版妨害に合いながらも刊行された奇跡の書だ。児童ポルノを排除しようとすることは「臭い物にフタ」の行為でしかなく、子供たちが苦しむ本当の原因は貧困であったり無教育であることであって、小学生がキスをしたからといって「セックス依存症では!?」と騒ぎ立てたり、オムツの赤ん坊の写真をポルノだと取り締まっても、本当に何の価値も無い。貧困や教育に取り組み、きんちとした性知識を持たせることこそが本当に子供を救うことだというビジョンをちゃんと示している。ついでに言えば、日本の児童ポルノ法の最大の問題は、この表紙の写真も児童ポルノになりえる定義の曖昧さを内包していることだ。(2009/06/29 21:44追記)

さらに追記

よく分かってない人のために、打ち合わせ中なんだけど、こっそり内職で追記しよう。(2009/06/25 12:00追記)

理性の弱い、もろに影響を受ける人もいるんだ

それって、Equality Nowとかのプロパガンダにあっさりだまされる人って意味? じゃないんだろうね。以下と一緒に答えよう。

「黒人を差別する事を主眼に描かれた物語」は黒人抑圧の行為になると思うけどな。

違うよ、どうしてそう考えるんだ? その物語は黒人を差別するという欲望の発露でしかない。ある日物語に足が生えてKKKと一緒に黒人殺しに行くわけじゃないだろ。抑圧は、物語から影響を受けた極一部の人が行うんだよ。で、それは、黒人差別を悲惨に描こうが、果敢に戦う様を描こうが、絶対に発生するんだよ。ナチズムについての肯定的言説が一切禁止されているドイツで、何故ネオナチに惹かれる人達が途切れないのか、考えたことがあるかい? 完全にナチズムを切るためには、ナチズムを肯定・否定する全ての言説を、丸ごと消す以外にない。でもそれは紛れも無い愚民化政策だ。

エロゲーやそのオタクは確かに気持ち悪いが~

これこそ差別だよね。外見差別イクナイ。個人的に誰かを気持ち悪いと思うことは思想信条の自由というやつで、いくらでも勝手にキモがれば良いし、俺だって「キモッ」と言うことはあるけれど、だからといってそいつらを社会から封殺する政策を取ったら、それは差別以外の何物でもなかろう。

そういや、俺が『レイプレイ』を擁護していると思っている人がいるようだが、どこにそう書いてあるのか指摘してみ? 俺は擁護に相当する文言を一言も書いて無いだろう。文章の趣旨は冒頭に要約したよね。俺が何を言っているのか分かるかな? (2009/07/21 00:26追記)

そういえばこのひとは実作者でありながらさらにアカデミックに対抗できる人物か

いや、一応俺アカデミシャンだぜ? 後、まともなアカデミズムは大体味方だぞ。規制大賛成派の首都大学の前田雅英氏なんか、学者からはあまり相手されて無いもん。

で、俺達は具体的に何をどうすれば何とかなるんですか?というか何とかなる方法はないんですか?

散々書いてるんだから読み取ってくれ。

“電凸? スポンサー下ろし? やるなよ!? やるなよ!?” やらない方がいいですよねー(棒

つまりそういうことだ。論理的かつ冷静にな。

「物語から影響を受けた極一部の人が行う」影響うけるんじゃん。上で自分の言ったこと自分で否定しているし。

ついに冒頭の4行の要約すら読めない人間まで出たか。影響はあるって一番初めに言ってんだろうが。ここまで書いても「あるコンテンツからの影響を一律に『悪』と言うことはできない」っていう話が分からんのかぁ。一応これ学部生のレベルで読めるように書いたつもりなんだけどな。

顔出しでエロゲ擁護できる人いなさそうだしねぇ

お前さんは俺の顔も本名も知らんでここ読んどるんかえ? ぐぐるといいよ

(902)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2009-07-21 00:26:24

地デジカ騒動と「マスゴミ」という虚像

要約

地デジカ騒動について、あまりにいい加減なことを言う人が多いのでばっさりまとめた。著作権の問題だという人が多いようだが、問題の本質は著作権にはない。問題点は2つある。1つは、著作権はただでさえややこしいのに、著作権法にない「二次創作」なんて言葉を使ったせいで一層議論がややこしくなったこと。もう1つは「マスゴミ」体質のウェブメディアのせいで間違いが拡大したことだ。

地デジカのイラストを描くことに問題はあるのか?

まず、ここから始めよう。

あの鹿そっくりに描いた場合、怒られる可能性はある。その場合に、複製権だ同一性保持権だのといった、著作権法の概念を持ち出される可能性は高い。そして、pixivなどにのっけている場合、pixivごと怒られる可能性もある。これは事実だ。

しかし、美少女化なりショタ化なりムキムキな擬人化して描いた場合、それらに文句を言う法的根拠はほぼ無い。表現的に似て無さ過ぎるから、著作権で責めるのは不可能と想像される。常識的に考えて、変な色のスクール水着の女の子の絵を手当たり次第訴えられるわけがない。

商標が登録されていればそれで訴えることはできるかもしれないが、特許庁で検索しても出てこないので、現状、商標で文句を言うこともムリだろう。

だから、以下のような擬人絵を描いても文句は言いようが無いし、そこで地デジ行政を揶揄していたとしても、これまた文句は言いようが無い。こういうのは正当な表現行為だ。

地デジカではありません、全く関係ありません。黄色いスクール水着ですからね!

昔、こういう赤いプラスチックの外装を持つSONYのブラウン管テレビ、しかもトリニトロンになる遥か前、というのが実家にあったような気がするんだが、今更探しようもないので適当に描いた。閑話休題。

民放連の発言を注意深く読んでみる

そもそもの騒動の発端となったガジェット通信での記事を注意深く読んでみる必要がある。問題の根本はここにある。

記者はまず、「地デジカのイラストを掲載」することを「許すか」?と尋いている。これについて民放連は「無断掲載には厳しく対応していきます」と答えている。ここで考えなければいけないのは、民放連が何を想像しているかである。

ここでは、地デジカとして民放連が公表したイラストを、そのまんま勝手に掲載することについては許さないという意味だと考えるのが普通だ。これについてNOだということは、俺は驚くには値しない発言だと思う。ここまでで民放連は、「二次創作」なんて微塵も語っていないことに注意していただきたい。そのままのコピーは止めてくれ、としか言ってないと想像される。

記事に拠ればその後、「特に、二次創作キャラクターの作成や掲載につきましては、許されるものではありません」と続けたようであるが、じゃあこの場合の「二次創作」って何のことなのか。問題はここだ。民放連が何を二次創作として考えたのか、それはこの記事からは分からないんである。

以前、『同人作家も誤解する二次創作の「合法性」』という記事で書いたように、「二次創作」という言葉は著作権法の言葉ではない。俺が調べる限り、1990年代後半に一部のエロゲーメーカー、っていうか、つまりはLeafが使い始めてから広がった言葉であることは確かなようだ。

で、この言葉は極めて曖昧だ。元の素材をそのままつなぎ合わせただけの、著作権法的には限りなく黒い作品も、素材にあったアイディアを参考にしただけの、著作権法的には100%白い作品も、どちらも含まれる。

このインタビューの時に、民法連側がMADやコラなどの著作権法的に黒い「二次創作」を想像し、そしてそれを否定したがっていたとしても、何の不思議も無い。なぜなら、それはイキかどうかはともかくとして、現行法に基づく適法な要求だからだ。

それにも拘らず、彼らが「二次創作」という言葉で何を想定していたのかは確認せず、「地デジカをもとに美少女や萌え系のイラストを創作することは断固として許さない」などという、民放連側が言ってもいない上に、著作権法上否定することができない行為を、民法連が反対しているかのように記事をでっち上げたのは、他ならぬガジェット通信だ。

問題の根本

今回の件で民放連がイキでないことは確かだ。しかし、民放連はそれほど大きく間違ったことを言ってはいない。恐らくは、勝手にオリジナルのシカをコピーするなと言っただけだろう。むしろ、著作権法に載っていない「二次創作」という言葉の曖昧さに乗じて誤解を拡大させたガジェット通信にはそれなりに罪がある。

不確かなことを元に扇動するのが「マスゴミ」だというのなら、ガジェット通信がやったことはマスゴミの行動そのものだ。既存メディア対ネットっていう構造は、恐らく本質的な問題ではない。大きな声を出すメディアが、多くの人の信じたいデマを述べれば、そのデマは人心を惑わして、すぐ拡大してしまうのだ。

ネットメディアも、広告ビジネスにどっぷり依存するのならば、人の関心を引くためだけのアジテータ中心になるだろう。そうしたら、あまり既存メディア、つまりは「マスゴミ」と変わらないことが起きると思う。「マスゴミ」の正体が本当は何なのか、考える必要がある。

追記

はてブや拍手などから。

キャラクターの改変をして、どこまでが法的に複製でないか?ってのはケースバイケースなんでは?

俺は一貫してケースバイケースだって言ってんだろ。文章読めなさ杉にも程がある。

権利者のコントロールの及ぶそっくりさんと及ばない改変との境界に興味がある

まあこれもケースバイケースですが、最終的には「常識」ってことですよ。

サザエボンとかDOB君とか
ドテラマン裁判

だって、これらはどれも、まあそれなりに似ていたでしょ。

俺は、この3つの例ほど鹿とすく水の子とが「表現的」に似てるとは思えないし、この判断はわりと普遍的だと思うから、上に掲載したような絵を描いて公開してるけど、この俺の絵と民放連の鹿が「そっくり似ている」という人は、まあ世界も広いから少しはいるかもしれないね。俺の目には別物にしか見えんが。

この辺はバランスとか常識の問題だよ。 (2009/05/02 18:27追記)


さらに追記。

「美少女化なりショタ化なりムキムキな擬人化して描いた場合」○○『化』って言ってる時点で、同一性保持権を侵害してますって言ってる様なものかと。そういう絵は大抵「地デジカ」タグもセットだし。

一体どこのバカなら、擬人絵を地デジカそのものだと思うんだろうね? 誰が見ても別モノじゃん。ここまで表現が違うものは、別個の著作物になるんだよ。判例っぽい表現で言えば、擬人絵からは地デジカの「本質的な特徴を直接感得できない」と判断されると考えるのが妥当。

はてブを読んだり他のサイトを回ったりすると、一体どれだけの人が、著作権法を「表現規制法」のようなものと誤解しているのかと、空恐ろしくなる。 (2009/05/09 14:09追記)


さらさらに追記。拍手より。

地デジ促進キャンペーン」の偶像であるキャラをネットでの情報拡散にすら利用できない部分が叩かれてるのでは?

前にも書いた通り、民放連は粋ではないけど、適法な反応をしているだけだから、俺はあまり批判する気にはならんなぁ。著作権法を変えてフェアユース入れよう! とかいうんなら分かるけど。

後、「普及キャンペーンのためなんだからブログとかにもどんどんコピーさせろよ」って主張する人については、

私が民放連だったら卑猥な二次創作なんかより、ジデジカ(原文ママ)のステッカー作って脱獄製品に張って売るような糞業者が出てこないかの方が気になる

という、はてブコメントにあった危惧をどう拭うのか、尋いてみたい。 (2009/05/10 16:44追記)


さらさらさらに追記。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090508/194086/

こんな記事が出た。趣旨としては結構だが、小田嶋さん、あなたもガジェット通信の例の記事を満足に読めていないのに、「民放連にはメディアリテラシーがない」などと嘲笑するのは、いかがなものなのか。

別に俺、民放連をかばう気はまったく無いんだけど、真摯にモノを書こうというのなら、いくら自分の書きたい話に都合が良いからといって、煽り記事を丸呑みしてはいけないと思うんですよ。 (2009/05/12 05:30追記)

(191)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2009-05-12 05:30:07

同人作家も誤解する二次創作の「合法性」

後輩にあたると思われる人のサイトをたまたま見たら、「二次創作イラストは、著作権法を厳密に解釈すれば権利の侵害にあたる」という記述があった。俺はこの言い方がものすごく気になった。そして、権利の侵害に当たるはずのものがなぜ黙認されているのかという理由として挙げられているものも、すごく気になった。しかも、ほとんどの人がこれらを前提だと思っているらしい。

同人活動が黙認されるのは、一次創作の宣伝になっているからでも、プロが生まれる土壌だからでもない。それらは副次的な理由だ。そもそも、「二次創作が権利の侵害にあたる」というところからして間違っている。「著作権法を厳密に解釈しても、いわゆる版権イラストが著作権法の侵害に当たるかどうかは、一概には決められない」からである。

例えば、ドラえもんのジャイアンを美少女化したような絵をウェブ上に載せた場合、著作権法に違反するといえるのか? こういうのはなんとも判断が難しい。物語の設定や名前やキャラクターの性格付けなどは「アイディア」であって、「アイディア」に著作権は無い。保護されるのは表現だけだ。アイディアをパクることは、作家として非難されることではあるかもしれないが、パロディはそれを意図的にやるわけだし、出来上がる表現としては劇的に異なってくるので、果たして最終的に司法がどう判断するかは、裁判をしてみなければわからない。もし裁判で一定の結論が出たとしても、学者達の見解は割れるだろう。

第一、「二次創作」といったときに何を連想するかは、人によってかなり違いがある。元ネタをそのまんまコピーしてつなぎ合わせたものだと考えるかもしれないし、元ネタで使われた「アイディア」や「設定」を膨らませて作られた別の物語だと考えるかもしれない。前者はいわゆるMAD、英語圏で言うところのAMVであり、後者は大塚英志が『物語消費論』で論じた同人作品の形だ。 『キャプテン翼』の翼君と岬君の淡い恋愛関係を描いたりというのは、(今となっては陳腐過ぎるが、そうした表現がほとんど存在しなかった時代を考えれば)名前や設定を借りて原作とは異なる新しい耽美的な物語を作り上げたものだとも評価できる。それらは、本来の著作権法が考慮していた「二次的著作物」、つまり、翻訳や、編曲、小説の映画化などとは、チト異なるものだ。

元のマンガやアニメの絵という表現をそのまま模写したり、そのままつなぎ合わせたりした場合、著作権法に違反する可能性はやや高くなるが、これもケースバイケースで、元の絵が「二次創作」の着想の参考になっただけで、「二次創作」されたマンガやイラストに新しい独創性が盛り込まれていれば、翻案にすら当たらない場合もあるかもしれない。やっぱり裁判をしてみなければ分からない。そしてそういった裁判は、一次著作者が訴えを起こさなければ始まらない。さらに、何が著作権法違反として訴えられる可能性があるのかというのは、突き詰めてしまえば排他的独占権を持つ一次著作者の主観に拠るといえる(ここら辺のせいで、「心意気」とかの誤解が入りやすくなる)。

「二次創作」って一口に言われるものの範囲は広く、それ故、違法かどうかってのは一口には言えないのだ。

さらにいえば、一次創作と二次創作という分類も、ボーダーのはっきりしない、あやふやなものだ。例えば、ウルトラマンがその着想を手塚治虫から得ていたとしたって、「ウルトラマンは二次創作だ」とか「パクった」とか叫ぶ人はいないだろう。

また、宮崎 駿がルパンやラピュタでフライシャーのメカを真似たからといって、「宮崎駿はパクリ人間だ」などと叫ぶ人もいないだろう。

こういう話になるとすぐ「作品Aと作品Bは似ている/似ていない」の議論になるが、そういう議論をし出したら、もういっそほとんどの萌えキャラは似ているともいえるし、ほとんどのジャンプマンガは似ているともいえるのだ。俺の親の世代なんかだと、美少女キャラクターの区別なんて全然付かない人が大勢いる。一次創作と二次創作に客観的で明快なボーダーを引こうというのも、実は結構難しいわけだ。

二次創作が黙認される理由は、一次創作者の「心意気」や、二次創作者の「リスペクト」が問題なんじゃない。どうしてそっちへ行くんだろう。その考え方はやや危険だ。何でも「クリエイターの心意気」に落としちゃいけない。黙認される最大の理由は、はっきり言えば著作権法が曖昧だからだ。もっと言えば、人間の創作活動というものが、一次創作と二次創作とへ常に簡単に分けられるものでもないからだ。

二次創作が「違法」なのかどうか、さらには一次創作と二次創作の分離も、判断はケースバイケースであって、その判断は容易とは言い難いものも多い。もし一次創作者がギャーギャー騒ぐのならそれなりに酷いケースなんだろうから、じゃあ裁判して白黒付けてやろうじゃないか、でもそうでないなら放っておこう、というのが現状の著作権法のスタンスだ。

大胆に考えれば、二次創作を行わせるためのプロトコルは、現状の著作権法の曖昧さの中に、ある程度インプリメントされているとしてもよいだろう。フェアユースってのだって、曖昧さ故に成り立ってるようなもんだ。

何が言いたいのかというと、「二次創作」=「違法」という認識は誤解だということです。「二次創作」とされる作品は、「違法」な作品を真部分集合として含む、くらいに考えた方が良い。そしてそのボーダーの曖昧さ、グレーっぷりは、フェアユースなどの制度を入れても、完全なホワイトにはならんのです。著作権法は曖昧なんです。

(1049)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2012-04-23 12:42:49

アートとコンテンツの違い

アートって何だろう。村上 隆がオタク作品をアートだと主張する時の違和感は何だろう。半年くらい前に俺の絵をイギリス人のインテリに見せたら、「アートだ!」とか騒いでくれたが、それは大きな勘違いというものだ。アート(芸術作品)とコンテンツ(商業作品)とは何が違うんだろう。

アート作品とは、複製が困難でこの世にその1点きりしか存在しない作品のことを指す。この世に1つしか存在しないのだから、その作品を市場で取引する場合は、大変な高値で行われることになる。一方、コンテンツは、そもそも全く同一の作品が多数存在しえるよう、複製が容易な表現形態でのみ、製作が行われる。その作品の完全に同一なコピーが多数存在するのだから、当然市場では安価に取引される。アートとコンテンツの本来的な違いは、この1点のみだ。

オタクコンテンツが時々アートだと叫ばれてしまう理由は簡単で、それはアート作品に芸術家が挑む時と同様、オタクコンテンツの作家も命を削って作品を作っているからである。しかしながら、どんなに命を削ろうが、その作品はコピーされることが前提なので、決して高価にはなりようがないのだ(命の削りっぷりや作品の輝きっぷりを評価する概念として、ベンヤミンの「アウラ」という言葉があったりするが、一部の文系の人にしか通じない狭くて誰も読まない話になるし俺もよく知らないので止めておきたい)

とはいっても、オタクコンテンツを高価なアート作品にしてしまう方法は簡単である。複製しなけりゃいいのだ。「これはアートなので1点モノです、複製しません!」と宣言すればいい。村上 隆もそうやっている。しかし、コピーできる媒体の作品(印刷とかフィギュアとか)でそんなことを叫んでも、そりゃあ違和感があるだろう。同じようなことをやっているのが、“エウリアン”と揶揄される、天野喜孝の水彩画やラッセンのシルクスクリーンのコピーを押し売りする版画販売業者だ。

一方、アート作品をコンテンツにしてしまう方法も、まあ簡単である。コンテンツと同じように、複製が容易な媒体に向けて作品を作ればいいのだ。例えば写真とかNTSCで再現できる映像作品とかさ。それでどうなるかというと、作品がさっぱり売れないだけだ。かくして、「芸術なんてゴミ」だとかいわれてしまう。

だって、芸術というのは、すげぇニッチな層へ向けるものだ。そもそも1点しか作らないものなのだから、受け手が大勢いたら困るんです。なので、極々少数の受け手へ向けた文法で作品を作るわけだ。そんな作品を、多くの人に楽しんでもらえる文法で作られたコンテンツと同じ媒体に乗せたって、そりゃぁ勝負にはならんわけですよ。写真などの複製できるメディアで芸術だといわれる作品が存在し得るのは、デジタル技術が普及する以前の時代には、写真の複製に物理的な手間がかかり、なおかつ美術館での展示や高級な書籍として媒介させる以外販路がなかったからだ。

さて、ここで視点を変えて、情報通信技術がアートやコンテンツに与えた影響を考えてみよう。

まずコンテンツについて。情報通信技術の発展によって、情報の共有、すなわち情報のコピーは行いやすくなった。だから、コンテンツの流通コストは下がる。コンテンツの製作も容易になった。ということは、流通するコンテンツの総量は増えるわけで、経済の基本原理に従った結果どうなるかといえば、人々がコンテンツを今以上に消費していくか、あるいはコンテンツの創り手の淘汰が行われない限り、コンテンツ1つあたりの値段はグッと下がるということを意味する。日本のオタク市場はほぼ飽和している。となればコンテンツの世界でいわゆる「勝ち組」になるには、外人とかに売りつけながら、創り手同士の生存競争に勝つくらいしかない。でも、逆に考えれば、創作や発表のコストが下がって低リスクになるのだから、細く長くゆっくり自分の主義主張の下で活動することも、可能になったという見方も出来る。どっちを選ぶかはその人次第やね。

一方、アートの方だが、先ほど述べたように、芸術作品は皆に広める必要など全くないのだ。啓蒙主義的な作品だって、どうせエリートにしか届かない。本当の大衆はアートなど必要とはしない。芸術の本質は、唯一性だ。だから、本来的には、情報通信技術はアートに何の影響も与えないはずだ。でも、写真や映画など、複製できるメディアのアートが持っていた「芸術性」などといわれる芸術の文脈は、よりいっそう奪われていって、コンテンツと同じ土俵でアートが勝つチャンスは、決定的にゼロになるだろう。芸術性とやらを発揮したければ、複製できるメディアでコピーできないふりをするか、そもそも複製できないメディアを使うか、しかないんだ。

繰り返しになるが、普通の人が芸術を理解しない理由は簡単だ。そもそも創り手に相手にされてないからだ。芸術というものは、創造性に理解があり、作家の背景を想像し解釈し講釈できる人たち、そしてその解釈を理解できる人たち、すなわち教養あるエリートの間だけに共有される。一方コンテンツは、一人でも多くの人が理解できるように、作られる。ハリウッドの映画からふたばの二次裏に貼られる絵まで、全てがそうだ。商業用途に用いられない個人的な作品であっても、多くの人への訴求力を持つよう商業的にくみ上げられた作品の影響下で作られている。だから、分かりやすくキャッチーに作るという文法から逃れることはできない。

で、コンテンツ畑の俺が今なんとなく考えてるのは、コンテンツについての文法、言い換えると、コンテンツの技術的なクライテリアをもっと共有したいなーって辺りだ。評論という形でのコンテンツの文脈付けは既にかなり行われているけれど、技術を知らないために頓珍漢なのも少なくない。特に商業音楽は酷いと思う。芸術の技術的なクライテリアはそれについて教えてくれる学校もちゃんと存在するのに、コンテンツについての技術的なクライテリアは、映画や写真などの古いメディアの以外全然固まってない。まあ、すぐ廃れてしまうのでまとめるのが難しいというのはあるかもしれないが、夏目房之介とか竹熊健太郎より新しい世代で、萌え絵とかをまとめていかないといかんのかなあ、と思わなくもない昨今である。とかいってるが、実はこれ書いているうちに思いついただけだ。

(52)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 01:29:06

作り手は諦めない

この前大手ゲーム会社のN社の方とお話しする機会があった。俺は、ゲームっていうメディアがものすごい勢いでパチンコ化して、「どうやってバカを誑かしていかに金を巻き上げるかモード」になっていることを危惧していたりした。でも、それは杞憂だった。少なくともクリエイタたちは違った。俺は悪いプロデューサの形を見過ぎたのです。ごめんなさい。

ゲーム業界のクリエイタたちは、自分の表現というものを全然諦めてなかった。彼らにとっては、面白い何かを作り上げることが第一義であるようで、それはつまり、自分たちが面白い・楽しいと感じられた経験を抽象化・一般化して周りの人に伝達する方法を真剣に探した結果、ゲームというメディアを使っているに過ぎない、ということのようだった。熱かった。情熱があった。面白いものを作ってやろうという空気に満ち満ちていた。これは、最高の創造の空間ではないだろうか。仕事上で妥協させられることはあるにしろ、創造的な人々が作り出している熱気のようなものの漂う空間が維持されているということは、とてもすごいことだ。

クリエイタの創造への熱情を盛り上げ、なおかつ現実的な金銭の問題とを調整する役目がプロデューサには課せられていて、N社のプロデューサは皆、何よりもそれに重点を置かれていた。どこかで、プロデューサの仕事は、金、金、金で 3K だなどという冗談を聞いたことがあるが、そんなのはニヒリズムに酔っているだけの戯言のようである。つまり、何が言いたいかというと、とある独立行政法人の中の偉い人は、こういう意味でのコンテンツプロデューサの役目をどの程度理解されておられたのかと。

こっそり内部告発しよう。残念ながら、本郷三丁目にある組織のコンテンツ創造科学産学連携プログラムにおいて、そういった「場を作る能力」について問われることは、まずない。なぜなら、そんな能力を持った人間が教える側で常駐してはいないからだ。だからそういう能力の評価もできない。そもそも、そこまでの理解にたどり着いてる人がどれくらいいるやら。あのプログラムを存続させるには、誰か突発的な能力を持った受講生が出世して宣伝する以外にないのかしらねぇ。

(47)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2009-05-07 13:54:21

檻に入る幸せ

高校生くらいの頃、なぜ成年向けコンテンツのレーティング(分別)やゾーニング(販売などの制限)があるのか、全く分からなかった。10代後半は、人生でもっとも性欲が強い時期だと思う。多分、肉体的にはもっとも生殖に適している年代だからだろう。10代で子どもを作らないのは、動物としての側面のみで考えれば、致命的な間違いだ。なぜその性欲がもっとも強い10代からセックスを取り上げ、はけ口となりうる性的なコンテンツまでも取り上げるのか。本当に分からなかった。表現の自由を歌うなら、性表現を完全解放しろよ! 高校生当時の俺はこんなことを本当に考えていたんだよ、へっへっへ、エロかろう。まあ早い話が、俺は20代半ばにして高校生と間違われて身分証を求められたことがあったくらいで、ぶっちゃけエロマンガを買ったりするのにそれなりの困難が伴ったのであるよ。

若年でのセックスを批判する人達の典型的な論理として、10代ではセックスの責任を取れないというのがある。でも、その責任を取るための社会制度を失ってしまったのは、別にやりたい盛りの10代の責任ではない。「ガキのうちに教育を叩き込んで大人になってからは労働させる社会と、それを支える家族」という枠組みが定着したのは近代以後の話で、それまでの200万年間くらいは、人間は10代でセックスして子どもを作っていたわけだし、今のような家族という枠組みも不明瞭だったのだ。赤松啓介の奇書なんぞを色々読むに、昭和30年代くらいまでは多少なりともそういった性環境を許容する土地も日本にあったようである。だから、現在の性制度はかなりいびつなものなのだ。

でもね、もし俺が今ゾーニングやレーティングについての是非を問われれば、多分俺は賛成するよ。だってさ、俺描きたいもの。ほんわかした絵も、パンチラも、少女が強姦されてる絵も、俺は分けへだてなく描きたいんだよね。それと同時に、読みたいの。他人が描いたの見たいの。そういう俺たち変態の趣味嗜好を、理解できない有象無象の人達から守るための手段としては、ゾーニングやレーティングといった理論武装を使うしかないと思う。俺たちは檻の中に入りますから、勝手にやらせて下さい。それ以外の論理で、どうやって社会の大多数と戦える? 至るところにエロ画像あるのは困るのだ。

これは、社会倫理という点からだけで言うのではない。白田秀彰先生は猥褻表現規制の理由を、倫理などではなく、猥褻表現の放置が情報流通の帯域を食いつぶすという点に求めている。実に怜悧な指摘である。「あまりにも人々の興味を強くかきたてすぎる」ため、放置してしまうと情報伝達のリソースを食い過ぎるという。エロサイトやスパムメールなどの例を考えれば、理解は容易であろう。

といった辺りを根拠に、俺は、創作者の表現活動を活発にするための、自主規制を誘発しないような形でのゾーニングやレーティングについては、賛成しちゃうだろう。何を描いても安全な世界がやってくるとしたら。修正も要らない世界がやってくるとしたら。たとえそこが檻の中であったとしても、俺は飛び込むと思うね。その先に待っているのは、ハックスリーの『すばらしき新世界』で描かれるような、動物的な快楽をアホ面下げて享受するだけの腐ったユートピアなのかもしれないけどね。

すまんな、10代のときの俺。そいから今10代で、鬱々とした性欲を抱えているような若人。でもね、現代のように18歳まで性的な表現に一切触れさせないくせに、20歳過ぎの童貞をあざ笑う日本がいびつなのは間違いないから、上手くかいくぐって強く生きてくれ。そういうたくましさが、ハックスリー的な安定を打ち破る鍵なんだと思う。そこら辺に期待。

(51)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:07

ゲームはパチンコ化しちゃったわけだが

身近なヤバいネタ書こう。コンテンツ創造科学なんていうのがあるんだ、東京本郷辺りの某偉そうな国立の組織に。そこにいる人や、やってくる人を見て色々考えるわけだよ、所属する身として。しみじみ、将来の日本のコンテンツ産業のほとんどはパチンコ化するのだろうな、とね。半ば絶望的な確信を深めていく今日この頃だ。

俺はパチンコをやったことがないので印象論になることをあらかじめ詫びておくが、画期的なパチンコ台から新しい表現が生まれメディアが開拓されたというような話は、寡聞にして知らない。初めてパチンコが発明された時から基本的には変わっていないだろう。パチンコは、決して表現としての場などではなく、いかにユーザから金を巻き上げるかという技術のみを徹底的に追求してきた娯楽であるように思われる。そして、どのゲーム会社のプロデューサの話を聞いても、今後のゲームが目指す世界はパチンコと全く同じ世界のようである。どうやって射幸心を煽るか。いかに効率よくユーザから金を吸い取るか。さらには、いかにユーザに社会と適当な折り合いをつけ「させ」るかまで考えている。もう、手取り足取り面倒みてやるからさっさと金を出せ、てな状態ですな。

プロデューサはそれでいいのだという反論もあるだろう。人々を満足させるコンテンツが創られるためには、強い創造欲と、それを維持し続けるための環境、つまりは飯が食えるだけの金が必要だ。プロデューサは金を考えてればいいんだという意見は、まあ成り立つかもしれない。短期的にはすごく正しい。

でも、10年先、20年先という期間を考えた場合、そんな縮小再生産を繰り返すようになってしまった世界で、作り手側の強い創造へのモチベーションを維持することは可能だろうか。新しい作品もメディアも生まれることのない閉じた世界で、作り手の創造欲を飼い殺すような表現の場というのは、本当に日本のコンテンツ産業にとって長期的にプラスとなりえるのだろうか。意欲ある若い世代は、そんな閉鎖的な環境に未来を見い出さないだろう。ゲームというメディアが輝いていた時代を知っている世代として、そういう世界はあまり望ましくないと俺は思う。

もっと一歩引いた視点で、10年、20年先までを俯瞰している人達は、日本に大勢いるはずだ。上記のような構造くらい、切込隊長や山形浩生はよーく分かってるし、白田秀彰先生だって分かってる。だからさ、いい加減分かれよ。愚民を誑かしながら金を吸い上げることばかり夢見てたら、足元すくわれるぞ。そんなんでどうやって「コンテンツ立国」するんだ。

閉鎖的な状況を打破するには2つの選択肢があると思う。1つは、俯瞰して長期的な方策を考えること。白田先生たちが取り組んでいるのはこっちだ。もう1つは、今までの構造をぶち壊す斬新な技術や表現を開発すること。Winnyがやってしまったのはこれだ。新しいものが反社会的に見えるのは仕方が無い。だが、新しいものに何一つ注力せずアガリだけを欲しがる連中は唾棄すべき寄生虫であろう。反社会的で斬新な何かと社会との折り合いをつけるという調停の部分で暗躍することこそ、あの本郷や駒場の組織の文系の人間がもっとも得意とするところではなかったのか。だから文系はダメなんだ、と皆に揶揄されるのが悔しければ発奮しやがれ。

(51)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 01:32:46

絵描きの生き方

絵描きや音楽屋などの生きる方法ってのには、大きく分けて 2 つあると思う。1 つは、多くの人に見てもらって鑑賞料を頂く方法。原稿料という形であったり同人誌の売上だったり、色々なバリエーションはあれど、今の多くのフリーの絵師は大体こういう方法を取っている。もう 1 つは、特定の金持ちにウケるものを描いてその金持ちに養っていただく方法。鑑賞する人間は極めて少ない。昔の王族や貴族の下で絵を描いたり曲を作っていた画家や音楽家なんてのはこのパターンだ。

じゃあ現代において、企業に雇われている絵師やデザイナーってのはどっちなんだろう? 多くの人に見ていただかねばならないという点では前者だけれど、上司やクライアントに逆らえない点や、ある程度の生活は保障されている点などでは後者だ。2 つを折衷した現代資本主義社会的なあり方だと思う。

さて。結局現代の商業芸術においては、自分の作品を多くの人に見ていただかねばならないわけなのだ。マンガにしろイラストにしろ、3次元のフィギュアでさえも、あるいは音楽、映画、小説など、全ての商業芸術は、コピーされて広められることを前提として作られている。自分の作品がたっぷりコピーされて市場に出回ることが、まず何よりも作者の義務なのだ。そして作者に直接お金が入ってくればなおのこと良い。しかし実はそれは二の次だったりする。コピーが出回らないというのが実はもっとも恐ろしい。良い作品なら自然に売れる? そんなことは絶対にない。一度コミティアにでも来てみれば、技術と売上にはあまり相関性がなく、プロモーションと「売るための文脈」が大事であることが分かるだろう。多くの人がどういう作品かを知れば、誰かは金を出してくれる。誰にも知られなければ、誰も出さない。多くの人に罵られるリスクも伴うが、声高に罵るやつは金を出して作品を買ったやつなのだから、実は大切なお客様だ。この仕組みを分かっているから、音楽業界はプロモーションと称してラジオやテレビその他で音楽をかけまって劣化させたコピーをばらまく。そうすることで、少なからぬ人が純度の高いコピーを買うわけだ。

で。劣化コピーではなく純度の高い不正コピーが出回るってのが最近問題になっているわけだが、純度の高い不正コピーを取り締まるために、劣化コピーすら作れないコピーアットワンスなどの仕組みを導入するのは、商業的失敗につながるだろう。単純に見てくれる人の数が減るからだ。商業芸術ってのは嗜好品だ。普通の人は、そんなもんを日々チェキするほどヒマではない。劣化させたコピーをばらまくというプロモーション活動を満足に行わずに、純度の高いオフィシャルコピーが売れると考えているのなら、致命的に愚かだ。

純度の高い不正コピーが出回るのを止めたければ、音楽同様に劣化させたコピーをオフィシャルにばらまけ。しかも大量に。例えば、15 秒の予告編だけで 2 時間も続く映画を“買わせる”のは無茶だ。もう少し工夫して劣化コピーをばらまけ。そうすれば不正コピーはずっと減るだろう。そして純度の高いコピーにもっと付加価値を付けろ。音楽業界の構造は糞だと思っていたけど、これからやろうとしている地上波デジタルがもっと糞な構造を作るつもりだとは思わなかった。今のままではあまり芳しい未来は待っていないだろう。

(50)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 22:27:21

熱意の功罪

「法で禁じられてないから何をしてもいいってワケじゃないし……」という常識論を、「ハァ? 法で禁じられてないことは何してもいいに決まってんじゃん」と猿にでもわかりやすい言葉でステキに一刀両断しやがったのは、我らが切込隊長だったと思います。より遠まわしな表現でなら教養の法学なんかでも教えられますが。

ナイーブ(これは「バカ」の婉曲表現であり、褒め言葉ではありません)な人は、「法律的には問題ないけど、常識で考えたらあんなことは許されないんだから、そのことを禁じる法律があってもいいよね」などと平気で考えます。もちろんこういう直感的な解釈が社会的に適当なことがあるのも事実ですが、国民の権利や義務に関わる場合、こういうナイーブ(=バカでDQN)な癖に声のでかい人間が多いとロクなことにならんケースも多々あるのです。せっかく手にした表現の自由などの権利を、気前好く放り投げてしまい兼ねません。

例えば、「他人の作品パクるのはよくないよね」、というナイーブ(=バカでアホでDQNでクズ)かつ直感的理解だけに留まっていると、気が付いたら作者が死んでも延々著作権が残り続け、ミッキーマウスが嬉しいだけで他の創作者の身動きが大変取りにくい状態になっていたりします。また、「子どものはだかで欲情するヤツってキモいね」とかいうナイーブ(=バカでアホでマヌケで無知でDQNでクズ)な解釈だけをしてると、マンガ業界が自主規制の嵐になって出版不況に拍車がかかったり、別件逮捕の口実を存分にばらまいたりするような事態を引き起こし兼ねないのです。「他人を悪く言うのはよくないでしょ」などというお上品な人もおります。確かにあまり褒められることでもないのですが、まっとうな批判や批評であっても、文章如何では限りなく悪口に近似することがあります。恐ろしいことに、「他人の悪口をネットで言えないようにしたい」などと考えている、とめどもなく頭の悪い人たちは存在します。こういう人たちは、「あのメーカーの製品は質が悪くて……」とウェブ日記で愚痴っただけで刑事責任を追及された上にメーカーから損害賠償を請求されたりするような事態(悪徳企業批判が出来なくなるわけだが)などは一切想像できず、単に「過激な表現から我が子を遠ざけたい」といった歪んだ正義感に燃えているだけだったりするので、大変にタチが悪い。

繰り返しますが、ナイーブ(=バカでアホでマヌケで単純で無知蒙昧全開でDQNでクズ)な直感的理解は、その社会において比較的普遍的でかつ適当な解釈ではあるのです。パクるのもよくないし、ハァハァしてるのを気持ち悪がるのも妥当でしょう。ただ、それを拡大解釈可能な権威あるルールとして明文化してしまった時に何が起こるのかを想像できないナイーブさというのは、大変よろしくない。そしてもっとも罪深いのは、こういったことは全て他人事だと考えているナイーブ(=バカでアホで以下略)さでしょう。無知は罪なり。

(49)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 00:29:38

オタクの飽食

物語というものは、出来事と出来事をつないでいく過程を楽しむものであって、シーンの一部だけを取り出して前後を鑑みずどうのこうの言っても詮無きものです。過程を無視してしまえば、例えば戦隊モノとか、シュワルツェネガーやセガールのアクションものなんて、「今日も苦労したけど主人公が勝ちました」で要約できてしまいます。

しかし、過程を作るためにつないで行くべき出来事というのにもそんなにバリエーションがあるのかというと、実はネタ切れしきってます。「普通の少年少女がある日ヘンな生き物と出会って正義の味方になって、友達を増やしたり修行したり裏切られたりしたけどラスボスに勝つ」なんて構造の物語は、一体この世に何万・何十万あるやら。こんな風に物語の要素を分解してみたウラジミール・プロップというロシア人は、ストーリー展開というのはどれもこれも似たようなもんだ、というようなことをまとめ上げました。例えば、スターウォーズとハリーポッターをそれぞれ要約して比べてみてください。養父母の下で育てられ、ある日「実はお前は……」と告げられ、旅に出て、仲間を作って……。ね?

で、そういう大して複雑な構造を持ちようも無い物語というものに、実際にバリエーションを与えてるのが、設定や演出という部分になってきます。物語の場所、時代、背景を変えたり、話し方を変えてみたりして、受け手をひきつけていくわけです。

さて。我々オタクが「オタク」と後ろ指を差されるようになるまでには、莫大な量の物語を消費してきています。当然、物語の展開に大してパターンが無いことくらいは、経験的に了解しています。次どうなるのかとドキドキワクワクしながら物語を眺めるなんてことは、できなくなっています。「どうせ次はこうなって、それからこうなって、最後はああなるな」くらいの予想は立ってしまいますから。そうなると、オタク的に楽しむべきポイントは、設定(キャラクターやメカや舞台など)や、演出(画面作り、構図、細かい台詞回し、演技、音楽など)の部分へ移ってくるのです。これは、映画という形で物語を消費しまくってる映画ファンなども同じはずです。

そもそもの萌えという概念は、キャラクターとかメカとか、あるいはカメラワークとか、そういうオタク的に楽しむ細かいポイントが強く自分の興味をかきたてている様を表す言葉ではなかったか、と今の私は考えています。現在の「萌え」は、単に性的好奇心をかきたてる様くらいの意味しかありません。性的な好奇心というものは、広く皆が共有できるオタク的な視点だからでしょう。

我々の世代は、かつて無い量の物語を消費しまくっている層です。映画は100年、マンガは50年くらいしか歴史がありません。いわゆる「テレビゲーム」に至ってはせいぜい20年です。たったそれだけの期間にもかかわらず、テレビ、ビデオ、コミックス、文庫本、CD、ゲーム、ネットなどなど、色々なメディアで莫大な数の物語が作り出され、その洪水の中で生きています。大塚英志氏が以前、若者が物語を作りたがらないというようなことをおっしゃってて(その時同意を求められて実は微妙に困ったのですが)、それは恐らくメディアへの暴露量が違うからなんではないかと。逆に言うとジュニアノベルとかを量産してそういう世代を作ったのは大塚氏たちなんですが。

多分、東 浩紀が本来検討すべきだったのはこういうことであって、自分の消費的傾向を動物的だとか何とか言い訳してゴニョゴニョするべきではなかったんだと思いますよ。ニンニン。

(50)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 00:34:42
  1. [1]
  2. [2]
  3. NEXT >


<TOP>

[ Copyright 1996-2023 Mishiki Sakana. Some Rights Reserved. ]