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現在的な「マンガの巧さ」を里好さんで考える

里好さんの新刊、『哲学さんと詭弁くん』の1巻が出てちょっと経っちまったのだが、明後日には『踏切時間』も出ることだし、里好先生を崇める会会員ナンバー1番を僭称する俺が、『哲学さんと詭弁くん』のAmazonレビューをリライトして、どう巧いのかというのを解説したいと思います。

元々、日常4コマ作家というより漫才マンガ家だと思う

里好さんは中堅作家ということになるのだろうか。最初期の『うぃずりず』の頃からいわゆる日常4コマの中にいながらちょっと違う道筋を作ろうとしている作家さんだなと思っていたら、『ディス魔トピア』で少しサイバーパンクをやって、そしてまた帰ってきたのだ、漫才マンガの世界へ!!

誤解されがちではあると思うんだが、『哲学さん~』の里好さんの土台は哲学ではない。たとえ女の子が折口さんで下の名前は多分「しのぶ」さんだとしても、そういうペダントリーは全てネタである。

里好の本質は間違いなく「漫才」だ。

Wikipediaによる漫才の定義は、「2人の会話の滑稽な掛け合いの妙などで笑いを提供する」話芸だそうだ。正にコレのことよ。小難しい言葉を使いこなして天然ボケを繰り出す女の子に翻弄される男子高校生が頑張ってツッコミを入れていくマンガである。

その漫才のネタが、哲学や社会思想から拾われているのがこの作品の「変」なところだ。範囲はかなり広い。アリストテレスちゃんからポパー、リチャード・ローティまでほぼ並列化されているところは本作の大きなポイントだ。ハイデガーのことは「センス・オブ・ワンダ~」と評しちゃう。


純粋に社会思想史的な視点から見たら文脈がブツ切りにされているわけだが、これは、全部漫才のネタなのだ。対話は時空を超える。対話とは、人間が人間たらしめる「言語」を駆使した、人間の快楽の一つである。高度に練り上げられた対話の演技である漫才で、社会思想史の文脈を振りかざすのは野暮ってもんだ。里好さんのマンガは、埋め込まれている元ネタが分からなくても普通に読めてしまうように、二重性を持って作られている。マンガを漫才として読む上で、哲学ネタは全く理解しなくても問題ないように練られている。

そうなんだ、本作は、「知ったかぶりの知識を振りかざしている高校生男女のイチャイチャラブコメマンガ」として普通に読める。むしろ、表に散りばめられている社会思想史的な概念は全部デコイ(囮)で、ただのイチャラブマンガと読んでも別に問題はない。ネコとは和解せよー。

「普通に巧い」故に巧さがわかりにくい

この後、Amazonレビューは字数の問題もあるので、「漫才マンガってのは2人の会話だけになるから、絵的な緩急がつけにくくて結構難儀する。本作はかなりその点工夫が散りばめられていて、アングルも多様だし背景にも力が入っている。3DCGフル活用なのだろうと思う。その点でも学びの多い作品だ」とだけ書いたのだけど、「本作はかなりその点工夫が散りばめられていて、アングルも多様だし背景にも力が入っている」という点を、絵描き向けにもう少し解体しておきたいと思う。というのも、里好さんの作品は、さらりと読めてしまって巧さが分かりにくいんじゃないかと思っているのだ。

里好の巧さ①:漫才マンガでの絵のバリエーション

漫才マンガは構図が単調化しやすい。だって2人が会話しているだけだから。右向きのAさんと左向きのBさんを交互に繰り返すだけでマンガとして「読める」ものになってしまうのだ。俺が同人誌で漫才するとこういう無精な絵を描く。


『千住少女』より

しかし! 当然というかさすがというか、プロはこのワンパな右向きと左向きの繰り返しを、様々なアングルとショットサイズへ「散らす」のである。上下の目線の位置(アングル)や対象の大きさ(ショットサイズ)を様々に散りばめてバリエーションをつけてくる。これが里好さんは地味に巧い。メインの2人登場の初っ端から、バストショット、ウェストショット、ロングショット、クロースアップ、マクロショット入り混じっている。単に「分かりやすくて読めるマンガ」を超えて、表現力というのが問われてくるプロのマンガというのは、ここから先の地平なのだ。


里好の巧さ②カメラを意識しながらカメラを無視する!

空間を意識する絵には、どこかに仮想的な画家の目線、つまり「カメラ」を置いて、その仮想的なカメラから写真が撮られているようなものだと理解することができる。だから、映画・映像の作り方とマンガの絵との距離というのは、実は結構近い。

里好さんがカメラを意識しているのはこの辺を見るとよく分かる。こんな絵を描く人がカメラ意識してない訳がない! っていうか今3DCG使えば、レンズの焦点距離とか普通に出るからな。


で、アングルやショットサイズを工夫するのは映像表現でも同じなのだけれど、これはマンガなので、いわゆるイマジナリーラインをぶっ飛ばしまくる。それがまた絵の豊富なバリエーションになっている。

こういう辺り、里好さんは、理解した上でぶっ飛ばしている(と思う)。わかった上でぶっ飛ばすっての、ほんと難しいんだよねー。意志の勝利ってヤツ?


おわかりいただけるだろうか、2コマ目から3コマ目でカメラが反対側へ回り込んでいるわけであるが、実写でもアニメでも映像作品では絶対にやらない絵である。しかし、こうしている方が詭弁くんのあさってに吠えている感が出る。

里好の巧さ③なんだその俯瞰は!そんなの良く描けるなオイ!

それから、里好さんの絵は取り立てて目立つ萌え絵に見えないかもしれないが、絵描き視点で見ていると「俯瞰の巧さ」がおかしいレベルで巧い。

背景の絵については、写真や3DCGでかなり技術的に平準化した部分はあるけれど、一般的に、萌え絵描きは俯瞰のキャラクター、特に頭の上の方から見下ろした顔を描くのが苦手である。瞳が髪に隠れたり、顎の線が隠れたりするから描き難い。できれば描くの自体避けたい。それでかわいさとか表情をキープするのはなかなか困難なのだ。だからかなり顔の形を歪まして嘘を吐かないといけないのだが、中々「コレだ!」という巧い嘘がない。厄介なので避けたい。

しかし里好さんはいろいろな俯瞰を描いてる。これは絵が巧くないと、というか、相当な試行錯誤がないと出来ない。うおぉぉ試行錯誤してんだろうなー。クソっ、巧いなアンタ!(当方、上手い絵にはもれなく嫉妬します)。

あと、斜めからの顔の描き方も巧い。この辺、里好さんはフィギュア作りまくっている故というのもあるのかもしれない。これは中々描き難いよなーという絵をさらりとお描きになってる。


さらりと描いてあるけどこの折口さんの頭頂部から観る絵は地味に難しいぞ!

里好さんは、萌え4コマ第二世代という立ち位置のみならず、重層的に読めるシットコム的な漫才マンガを切り開いていってるように思います。これからも楽しみにしてます。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2016-12-10 16:37:59

『ズートピア』とディズニーの呪縛

『ズートピア』を観てきた。日本語吹替ばっかりなのでわざわざ六本木くんだりまで出向きましたよ。なお以下には平然と全ての結末までのネタバレを含んでおりますのでご注意下さい。

http://www.disney.co.jp/movie/zootopia.html より

たくさんみつかる「社会問題」

この作品の中には、様々な社会的な対立の図式が埋め込まれている。

  • 肉食か草食か
  • 体が大きいか小さいか
  • 男性か女性か
  • 上司か部下か
  • イジメる側かイジメられる側か
  • 多数派か少数派か
  • 都市か地方か
丁寧に観ればもっともっと見つけられるだろう。

『ズートピア』が上手いのは、こういう様々な対立構造を、自身の所属する社会のアナロジーであると解釈していくことが出来るようになっているところである。自身をマイノリティであると思っている人は自分への抑圧と似た構造を簡単に見つけられるし、実はマイノリティのつもりなのに抑圧側になってしまう自分に気づくことも簡単だ。「ウサギ初の警察官」という主人公に、「男性社会へ入り込んだ女性幹部候補」のようなアナロジーを見つけられない人はいないだろう。

注意しなければならないのは、これは何らかの「差別的」で「抑圧的」な構造を簡単に見いだせるように作られている映画だという点だ。この映画に「差別」とか「抑圧」が見い出せるのは、あなたが今いる社会がそのようであるからというよりも、「複雑な社会の問題のアナロジーを見つけ、自身の問題に引きつけて読んでもらう」ことが作品の目的の一つだからなのである。

分かりやすく作られている対立と矛盾

http://moviepilot.com/posts/3613061 より

俺が「おおっ!」と思ったのは、例えば、いかにも白人主流派に見えるJ・K・シモンズがライオンで、しかも市長をやっていると。で、そこにユダヤ系の女性ジェニー・スレイトが演じるヒツジを副市長に迎えているわけだが、その理由について「ヒツジの票が欲しいからでしょ」と言わせたりするのだ。これは「白人男性が、ユダヤ人と女性票を当てこんでますよー」っていう「中の人」の属性の置き換えになっている。それから、あのポップスターのガゼル、角あるからオスなんだよね。女性的に振る舞ってるし声は女性なのだけれどさ。

http://disney.wikia.com/wiki/Gazelle より

昨今の大統領選を眺めているアメリカの人だと、主人公が「肉食獣(プレデター)は遺伝子的に凶暴で」みたいなことを口走ってしまうところからは、その昔ヒラリー・クリントンが黒人に対して「スーパー・プレデター」と発言した騒動を思い出すらしい。まあこれは時期的に偶然ではあろうけれど、恐らく分かる人には、さらにしこたまアナロジーやらアレゴリーやらを見つけうる表現が練りこまれているのだろう。

繰り返しになるが、この映画を「社会問題を的確に描いていて素晴らしい」などと捉えるのは、視野を狭めるし表現の解釈を困難にするのでお勧めしない。身近にある社会的な対立を色々と連想させるように作られているのだ、と理解しよう。

しかも、上手いことにというか恐ろしいことにというか、意図的に矛盾を埋め込んである。先のガゼルもそうだし、白人女性が演じる女性主人公の前に立ちはだかるイヤな上司は、肉食獣ではなく草食獣のアフリカスイギュウだというところもポイントだ。草食獣の敵は別の草食獣。それを演じているのは、アフリカ系を両親に持つ黒人男性である。そして全ての事件の黒幕は、一見「弱者」なのかと思っていたヒツジ女性なわけで、彼女は「実は草食獣の方が強いのだ」という理屈を語る。「肉食獣が草食獣を支配している」という単純な発想に疑問を持たせるようになっているのは、この手の矛盾こそがこの映画の主題というか、前提になるからだ。

http://moviepilot.com/posts/3613061 より

http://moviepilot.com/posts/3613061 より

あと、あの主人公のウサギとキツネは惹かれ合う。しかし2人が子供を作れないのは確かだ。繁殖が同種同士でしか行われていないのは、ウサギの両親やイタチの夫婦で描かれている。ということは、ウサギとキツネのカップルはヘテロセクシュアルでありながら同性愛者のカップル、同性婚のアナロジーになっているわけよ。「彼らの関係は同性婚と同じでしょ、ヘテロだけど」という。どうだろう、こういう「矛盾」の埋め込み方の見事さ!! すっげー考え抜かれてるよね。

https://www.youtube.com/watch?v=IMueJrVnuEM より

ふんだんに散りばめられた矛盾から見えてくる「あなたの住んでいる社会が抱える問題に気づきましょう」というメッセージ、そして主人公がやっちまったように「あなた自身も問題の原因になり得るんです」という点、この映画はこの2つのメッセージを最前面に打ち出しているわけである。

この地球上のどこであっても、矛盾の無い社会制度などない。人種や宗教や性別や学歴や職業や年齢や、その他いろいろな属性がもたらす階層の違いという問題を抱えていない国もない。だから、この物語は世界的に「普遍性があるように見える」オハナシになっている。かくして、「自分は他人より頭が良い」と思っているスノッブどもは、入れ食いでこの作品を取り上げることになるわけである。「頭の良い私は社会の問題に気づいているぞ!」と一刻も早く喋りたくてたまらなくなるわけだね。

まあ、「こういう記事書いてるオマエも大概俗物だよな?」という批判は甘んじて受けることにしよう。

全然普遍的じゃない

さて、そんな感じで何らかの「普遍性」を意識している映画ではあると解釈されがちであるようだが、しかし、俺はこの作品に埋め込まれている、恐ろしいほどアメリカンで普遍性に欠けるというか、はっきりきっぱりアメリカという国の宣伝映画になってる「臭い」の方を圧倒的に強く感じてしまった。それは決して悪いことではない。むしろこの作品は、別に時や場所を超えた普遍性があるわけではなく、現在のアメリカ社会に縛られまくって作られた、紛れも無く2016年を象徴するアメリカの作品だということである。

以下、特にその「臭い」の強かった点を3つほど取り上げよう。1つ目は「社会の問題は、我々が挑戦すれば解決出来るのだ」という発想が強いこと。2つ目は、「この社会はある種の嘘だがそれを守ることが正しい」という点。そして3つ目は「この社会を作った主体については積極的には考えない」というところである。

まず1つ目。「挑戦は素晴らしい」というのは一見正しいテーゼなように思えるが、人間が何かに挑戦するためには、挑戦するべき課題が何なのかをクリアにしておかねばならない。でも『ズートピア』の世界ではその点を悩む必要がない。とにかく「挑戦しない」ことを選んだ主人公の両親はその姿勢をはっきり否定されているが、しかし「今の生活を保守する」というのも結構な「挑戦」ではないのだろうか? などということを考えてはイカンのである。ヒネくれて詐欺師をやっていたキツネは、警察官としての生き方を選ぶ。そして詐欺師が警察官になるという挑戦も社会は許すべきでなわけである。そして挑戦すれば解決する。ヒャッハー、Tryは最高だぜ! 「挑戦すれば『何でも』出来るべき社会が正しい」というのは、俺自身も確かにそう言われればもちろん同意せざるを得ないが、これは強力にアメリカンなイデオロギーだ。「ボクの選択肢は本当にこの挑戦で良いのだろうか」「この問題は本当にこの解決法で良いのだろうか」などとウジウジ悩む余地はない。

そして2点目。こここそが『ズートピア』のイデオロギーの本当にスゲーところだと思うんだが、この作品は、「もしかしたら正しさってのは嘘かもしれない」というくらいの発想は織り込み済みで、「嘘でも良いから俺達は正しいと決めたことに挑戦するんだ!」という発想になっているのだ。例えば、肉食獣がDNAに従って草食獣を襲うことは否定されている。その方が「正しい」社会だからだ。ズートピアは肉食獣と草食獣の共存を要求している。そしてこの「正しい」共存は、どうしてもある種の嘘を含んでいる。何もしなくても肉食獣と草食獣が共存できるなら、「昔は肉食獣が草食獣を襲っていたけど今は違うよ!」などという劇を学芸会でやる必要はない。「昔は草食獣が肉食獣をイジメていたけど今は違うよ」という逆の設定の劇が行われ得るか? ということを考えてみよう。放っておいた肉食獣は草食獣を襲い得るからこそ、嘘かもしれない「正しさ」を共有して、肉食獣が草食獣を襲わないことを求め続けているのだ。そして、あの社会の草食獣はある時点で強さを獲得していて、圧倒的な数の力を活かせば肉食獣を隔離するなり、ぶっ殺し尽くすなりという社会が作れるということに気づいてしまうのである。でもそんな社会は実現してはいけないのだ。「正しい」ものではないから。

http://www.vox.com/2016/3/2/11147378/zootopia-review-disney より

「挑戦すれば何でも出来る」と主張する一方で、動物たちの体の大きさによる区別は許容される。キツネがゾウになれないことはどうしようもない事実で、「なれるよ」なんて言っちゃうのははっきり「嘘」である。体の大きさや気候に合わせた社会の区分けは、どうしても生存に必要なのだ。シロクマは砂漠には住めない。言うまでもなく、主人公が期待していた警察はかなりウンコな組織である。

さらに言えば、大きな獣が小さな獣を意図せず踏み潰してしまうような事故はおきているだろう。肉食獣の子供が悪意なくじゃれついただけで草食獣を殺してしまうようなことも起き得るだろう。そんなことがあれば、「互いに別の社会で生きよう」という発想にかなりの正当性があるように見えるはずだ。動物ごとにバラバラの国にするべき理由が、毎日たくさん幾らでも生まれていなければおかしい社会になっている。

しかし、それでも動物たちは一つの国を作らねばならない。主人公が警察官をやるのは「正しい」し、仔狐に向かって「ゾウになれるよ」と励ますのも「正しい」ことなのだ。そして「矛盾を抱えた社会をより良くする正しさ」に皆が挑み続けて、一つの国にとどまらなければならない。なぜかって? そりゃあ、あれは2010年代のアメリカ合衆国だからさ! 果てさて「民族自決」が盛り上がった時代にはこの世界は成立するのだろうか、みたいな疑問はどうしても出てしまう。

近代国家「アメリカ合衆国」が主張する自由や民主主義に「嘘」があるかもしれないことくらい、彼らアメリカ人は気づいているのだよね。それでもその「嘘」を貫き続ける者だけがあの国にとどまれるのだ。「嘘」を綺麗な言葉で言うならば「理念」であり社会契約だ。有馬哲夫は、ディズニーがヨーロッパの民話を元ネタとしながら、新しい国家アメリカの「嘘」を支える物語を紡いでいったという史観を分かりやすく示している。ディズニーは、アメリカの民話をある意味で捏造し、未だに捏造に成功し続けている会社であるわけだ。アメリカのディズニーランドに大統領館があるのは伊達ではないのである。

3点目。さて、一体誰があのズートピアという高度な社会システムを作ったのだろうか。なぜあんなに科学技術が高いのか。あの社会を維持する食料生産インフラ(昆虫由来のタンパク質を食べているらしいが)は、膨大な人口をカバーするエネルギーは、巨大なアイスクリームを作るための電力は、その発電と送電のシステムはどっから湧いて来たのか。誰がその理論を考えだし、設計し大量生産し流通させたのか。っていうかなんで動物はあの形に進化したのか。うん、お気づきですね。あの社会には、(多分人の形をしている)「神様」の存在を想定できる余地が残されてるんだよね! ああん、もうシビレるくらいにアメリカンですね!

この世界は不自然かもしれないし、捏造された「嘘」かもしれないけど「正しい」のだ。だって神様が作ったんですもの! 世界を良くする挑戦は、常に「正しい」に決まってるじゃないですか! ハレルヤ! God loves you!

あ、後もうひとつとってもアメリカンなポイントあるな。「クスリで人間は変わってしまうが、そのクスリの効果はさらに別のクスリで完璧に治る」という機能主義的な、科学は万能だよねバンザイな発想。これって日本人では思いつかないんじゃないかなぁ。人間は体の仕組みを把握できるし適切に制御することも出来るという西洋の発想が前提だからね。アメリカでは処方箋薬の中毒患者が大量に作り出され続けていると主張するドキュメンタリー映画、“Prescription Thugs”を思い出したよ。

ディズニーと“USA! USA!”

つまるところは、『ズートピア』というのは、合理的な近代国家でありつつ実は神様も信じている世界(=アメリカ合衆国)をより良くするという挑戦を皆で続けていこうねという、恐ろしいほど上手く出来ているプロパガンダでありアジテーションなんである。それはウォルト・ディズニーの当初の意図であり、恐らくそれが内面化されているように見せつつ、全部ちゃんと自覚しているんであろうなということも伺わせる練り込みっぷりである。

ディズニーもユニバーサルも世界中から人材を集めているけれど、ここまでアメリカイズムを全開にさせつつ表面では取り繕うようなことが、例えば『ミニオンズ』のスタッフにできたのかなどと妄想を広げれば、まあ、ねぇ……。こんなこと出来るのはやはりディズニーだけだよな! さすがだぜディズニー。愛してるぜディズニー。

https://thewaltdisneycompany.com/about/ より

(23)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2016-05-28 18:53:11

情報社会のディストピアはどうすればいいのか - 『ディス魔トピア 1巻』レビュー

なんかAmazonにレビュー投稿したんですが、割りといつまでも公開されないので自分のところでも出しときます。

本作の冒頭から衝撃だったのは、情報社会化の進んだディストピアがどうなるかを描くという作者の覚悟が、はっきり示されているところだ。

それは、みんなが「悪」だとみなした存在を、みんなが自主的に、そして多分、嬉々としてリンチする社会だ。逃亡する女の子をSNSからのリアルタイム情報で時々刻々マッピングして現在地を割り出すシーンは、中々に恐ろしかった。そんなSNSの名前は「キズナトピア」というのだ。もちろん2011年の漢字とされた「絆」が元ネタだろう。

里好『ディス魔トピア 1巻』 (2012) P.10 より
図1. 里好『ディス魔トピア 1巻』 (2012) P.10 より

『1984』や『時計じかけのオレンジ』といった過去の著名なディストピア作品と違うのは、もはや我々とは遠く距離の離れてしまったソ連や共産主義の暗喩ではなく、現在のネット世界の皮膚感覚に圧倒的に近い表現になっているところだ。カバー裏面のあらすじにもあるように、それはそれは見事な「相互監視社会」なわけである。

そういう重苦しい社会を描いた本作だが、読後の我々にはある種の爽快感が残る(といってもまだまだ物語は序盤だが)。それは主役のかわいい女の子達の、他を圧倒する絶対的な暴力がもたらすキモチヨサの賜である。そして、どうもそれは「魔法」らしいのだ。

何ということだろう、この作品は、見事な二重構造になっているじゃないか。物語中で悪を打ち破ってくれるキモチイイ美少女達は、実世界には存在しないいわゆる「非実在青少年」なわけである。実世界に存在しないからこそ、この非実在の少女たちは「魔法」を担える存在であり「魔女(自称は「魔法少女」)」足り得るわけである。つまり、ディストピアを打ち破るこのキモチヨサ、この物語は詰まるところ全部「嘘」なのである。それを明示し強調するために、情報社会の現在が示す負の未来を組み込んで現実感を高めているわけ。そう、本作はちゃんと、『ビューティフル・ドリーマー』で押井守がオタクに売った喧嘩を内包しているのである。

みんなが嬉々としてリンチする相互監視社会は、幻想の中でしか壊れてくれないのだろうか。草薙素子が言うように、空想とともに「耳と目を閉じ口を噤んで孤独に暮らせ」なんだろうか。それとも何か道があるのだろうか。多分、里好さんはそこまで描いちゃうんじゃね?

蛇足で作画面についてですが、キャラクターの描写については『うぃずりず』からの優れた実績があるので何も追記することはありません。本作でのShade+ハッチングテクスチャという背景のテクニックはとても良く画面をシメており、十全な効果を上げています。

里好さん、これはすごいです。心から尊敬します。

(26)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2012-08-14 03:54:16

ポニョが「老人の妄想」である訳

ようやく現実逃避も兼ねて『崖の上のポニョ』を見た。鑑賞後30分くらい反芻していたら、押井 守があの作品を「老人の妄想」と批判した理由が分かった気がする。

ばっさりまとめてしまえば、ポニョという物語には、人間が成長するための課題や試練、イニシエーションやらが含まれていないからだろう。

一般的な物語では、主人公は何らかの試練を与えられ、それをクリアすることで観客と達成感をシェアする。難題をクリアして前に進む主人公というのは、ほとんどの物語に共通的に見られる普遍構造である。しかし、冷静に考えると、ポニョには一切それがないことが分かる。

以下ネタバレしまくりなので、観てない方はご注意下さい。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2008-09-14 13:39:32

『ジョン平とぼくと』と大西さん

佳作です。

作者の大西さんの雑文をはじめて読んでから、もう何年になるか、よく分からないくらい。当時私はまだダラダラと学部生をやっていたはずだ(しかし現在も大学に通っているというところが我ながらファンキーだ)。大西さんは90年代後半から雑文サイトを主催していて、安定した筆力のところどころからにじみ出る怜悧な知性や思考などから、サイトには独特のオーラがあった。俺は、不思議な人だなぁという印象を抱いた。時々繰り出す全然本気じゃなさそうな企画ネタ、バナナワニとか超光速流スピードマンといったセンスからも、ますます俺は「この人は変だ」(最上級褒め言葉)という確信を深めていった。その後雑文を読み進めていくうちに、某独立行政法人の研究者というプロフィールも見えてきて、ああなるほどねぇと一人で納得したりもしていた。

大西さんのサイトは、90年代の終わり頃にちょっとだけ流行った雑文サイトの中でも、異彩を放っていた。誤解しないでほしいのだが、雑文サイトというのは、侍魂などのテキストいじりサイトとは一線を画す。侍魂とかのサイトは、何か1つのトピックを過剰に修飾して面白おかしく語るもので、テレビのバラエティーに無理やり挿入されるテロップが連続しているようなものだ。一方の雑文サイトは、純粋にエッセイやショートショートなど、文章の面白さだけで読者を引っ張ることを目指す。写真も無い。イラストも無い。文章だけの勝負だ。だから、テキストサイトよりはハードルが比較的高く、流行ったとはいえそれほど大きなムーブメントではなかった。そして、その手のサイトで当時の最大手だった雑文館がドメインごと消滅し、「週刊元Cinderella Search」や「それだけは聞かんとってくれ」などの有名どころがほとんど更新を止めてしまったここ最近は、着想が面白く、文中の嘘や技術的な間違いがなく、しかも文芸的にも読ませる優れた雑文サイトというのは、大西さんのところしかなくなってしまった、と俺は認識している。だから俺は彼のサイトの大ファンなのである。

その大西さんが初めて書いたラノベが本作だ。緩い魔法の世界、とそのキャッチコピーは語っている。昔のショートショートの中で描かれていたのは、こういう世界だったのか、とドキドキしながら爽快でちょっと切ない読後感を堪能した。やっぱり大西さんは面白い作品を書いてくれました。猫耳付けた露出の多い女の子が呪文を唱えてチャンバラするような話でもないし(まあ俺はそういうのも好きだけどな)、すんごい巨悪を愛だか友情だかの力で打ち負かすような話でもない。地味といわれれば地味だと思う。いわゆる魔法の世界を描こうとしながらも、科学というものがしっかりあって、両者がバランスする世界を描き出そうとするところにかなりの紙幅を割いている。科学者らしい理屈っぽさがあちこちにあって、それは地味さにつながってるのかもしれないけど、でもそれが大西テイストであり、また、作者のSF魂を感じずには居られないポイントでもある。10代の理屈っぽい男の子の恋愛の描き方にも、ちょっとやられたな、と俺は感心したのでした。エロゲーじゃこういうのはなかなか描きにくいしね。そして、正直俺は大西さんの世界の絵が描いてみたくなったのだ。だから、後でこっそり描いてみよう。

責任の一端は是非大塚英志にも負わせるべきだと思うが、いわゆる普通のラノベは、ラノベというジャンルの再生産に入っているのだろう。90年代はエロゲーでこの10年はラノベの時代とか言ったヤツがいるらしいけど、ラノベをメディアとして続けていきたいのなら、ラノベの再生産をする人達じゃなくて、ラノベ以外の地平からの血を入れないとダメだということを、多分編集や経営の人たちも認識していて、そんな中で、筆の立つ科学者という大西さんに白羽の矢を当てたソフトバンクの誰かは、しみじみ慧眼だなぁと感心するのでしたよ。

(63)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-10-19 01:02:35

サイコ観劇

機会に恵まれたので、『多重人格探偵サイコ/新劇 雨宮和彦の消滅』を鑑賞。とてもメタメタした(メタレベルな)脚本。

ここのところ大塚は一貫して「物語る」という行為の意味を問うてきているが、それを「劇」という形へ昇華したのが本作と言えるだろうか。そもそも『サイコ』というマンガ作品が、口コミでのPRを意識した広報戦略をとってきた作品だったということを大塚は以前話していたが、物語が誰かの口の端に乗るという行為を問い直し、物語をつむぐという自らの作家としての立ち位置を、新劇という異なるメディアを通すことで問い直した作品であったようだ。

本劇の脚本の後書きで大塚は、ものすごい勢いで大衆へ流布していくオタク作品の性質を、過剰なまでの翻訳の容易さ、というように表現している。大衆消費芸術は時として、企業や国家による強力な広報活動を伴わなくとも、広く一般へ流布することがある。ただその条件は誰にも分からない。この新劇は、その不思議な境界線と長く戦い続けてきた大塚のひとつの解だろう。宮崎 勤事件など、彼のライフワークに絡むギャグもちょいといと挿入されていた。大塚英志の作品は多分、こういう屁理屈の塊のような脚本の方が面白い。のかも。新宿の紀伊国屋サザンシアターで、4月4日まで。

(43)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 22:22:31

無為無策

大江健三郎の息子は知的障害を負っている。そして現在は音楽家として活動している。だが。彼の音楽家としての能力は高いか? 曲は美麗か? 演奏は巧緻か? 残念ながら、否。幾つか聞いたが、正直どうでもいい作品ばかりだ。だから坂本龍一は浅田彰に言った。彼を持ち上げるのは、ポリティカルコレクトネスの行き過ぎだ、と。音楽家はその作品で評価されねばならない。作品の質では、取り上げるに足る存在ではない、と。

なぜそんな稚拙な作品が取り上げられるのか。「障害者なのに頑張っている」からである。ここには、ものすごい差別意識が潜んでいる。彼を過大に評価するということは、「障害者はどうせたいしたことは出来ないのに、まあまあ健常者並のモンができるなんてすごいね」と言っているに等しい。表現者という同じまな板の上で評価を下した坂本龍一の発言を差別だと断じる人間の方が、無自覚の差別主義者である可能性は高い。あるいは、「俺には音楽の良し悪しなんて全くわからないので、あの程度でも上手く聞こえます」と、自らの審美能力の欠如を表明しているという可能性もあるが。

もちろん、努力家ではあるだろう。彼も、彼の親も。でも、彼には努力家として地味に作品を聞かせる道もあった。また、一切金銭を気にせずに楽しく作品を書き続けるという、創作者として最高の人生をも選択することができた。にも関わらず、「障害者なのに頑張ってます」という看板を掲げて作品を売って(あるいは売らされて)しまった。大江健三郎ほどの大家が、様々な選択肢からその道を選んだのだ。その点は批判されてしかるべきではないか。俺はそういうえげつない意見の持ち主だ。

しかし、だ。「大江健三郎さんの息子さんがね、必死で頑張ってる姿を見てね、私も頑張らなきゃいけないって思ったの」。もしあなたの大事な知り合いがこういうナイーブなことをのたまい、なおかつその人自身が病気や障害と戦っていたとしたら、あなたはその時何が言える? 俺の口から出たのは、「そうですね」という何の役にも立たないカスのような音だけだった。

(後日談:この方は 2004 年 5 月に癌で亡くなられた。たとえ、障害を宣伝文句にした作品が音楽的にはクズであっても、余命 1 ヶ月程度と宣告された人を半年以上がんばらせた一助になっていたのなら、俺の糞の役にも立たない駄論なんかより、よほど価値がある。すごいじゃないか大江光。)

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-01-11 03:17:17

思い込み万歳

とあるところで、青木雄二が「小さいころから、絵を描いたら誰にも負けんかった」などと言っていることを知って、俺は少なからぬ衝撃を受けている。確かに、彼のマンガ『ナニワ金融道』はテレビドラマ化されるまでに至った大ヒット作品である。

だがしかし、彼の絵を 1 カットでも見りゃみんな分かることだからわざわざ言うまでもないのだが、正直言って彼の絵は 下手 と評価されるレベルであろう。小学校でも、彼より絵の上手い人はクラスに 1 人か 2 人いたはずである。中学以後で美術やマンガ関係のサークルに入ったとしたら、良くてもブービー賞を争うレベルであろうと思う。だが、本人は「誰にも負け」なかったと豪語している。これだね!

ビジネス的にはもう成功したわけだし、現在の作品には作画担当がいるわけだし、もはや彼自身が自分の絵をどう評価しようが大勢に影響はない。むしろ、「自分の絵は稚拙だが、様々な経験に基づいたリアリティや説得力のお陰で、広く読んでいただけてるのだろう」、などと語った方が、月並みだがはるかに良いビジネス戦略だろう。でも、彼は自分の絵が上手いと豪語してるのだ。絵については、黒山が 2 つ 3 つできるくらいの罵詈雑言を浴びてきただろうあの彼が! つまり彼は、今でも本気で自分の絵が上手いと思ってるんだ! ワォ! ブラーボ!

岡田斗司夫かいしかわじゅんも言っていたのだが、彼の描き込みには、確かに尋常じゃない偏執的なものを感じる。パースという概念すらない世界に異常な量の主線。ゲシュタルトは歪みきってます。しかし、その異常な描き込みの結果妙な迫力が出る。例が適切じゃないかもしれんが、ヘンリー・ダーガーなんかにも通ずる世界だ。一般的な上手い下手という評価は、超越しちゃってる。究極的に言えば、なんというかあの怨念のような細部へのこだわりや、無闇に強固な思い込み、自らを省みて悩むより先に行動を起こすというポジティブな姿勢が、彼の成功の鍵だったのだろうと思う。

もし誤解されたらイヤなので断っておきますが、決して貶してるわけじゃありません。むしろかなり褒めてます。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 00:11:59


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