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排除対象としてのオタクと婚姻の不自由

森永卓郎氏の「オタク恋愛コンサルタントは日本を救えるか」という記事を読んで、なんだかモヤモヤするけど上手く批判できないというお声を目にしたので、2つ問題点を挙げてみる。

森永氏の記事は、オタクは本心では恋愛・結婚したがっているので、それを助ける仕事が日本では必要だ、というのが趣旨だと思われる。

まず、オタクは恋愛をしたがっているのに出来ていない、「二次元」へ逃避しているという前提がどうにも妙だ。

アニメ・マンガ・フィギュア等の制作・消費を趣味とする人達は恋愛・結婚ができない、という単純化がなされているようだが、俺の周りには、そういう趣味であって恋愛・結婚している人はいっぱいいる。大塚英志や岡田斗司夫や東浩紀といったオタクのパイオニアも、みんな(実質的には)結婚しているじゃん。

だから、オタクは恋愛・結婚できないという主張は、そういう趣味を持つ人達の中から、恋愛・結婚できない人達という集合を特別に抜き出しているわけで、逆に考えると、恋愛・結婚できない人間でそういう趣味の人達を、オタクと名付けているようなもんだ。

つまり、オタクという言葉を、自分が否定したい人達のレッテルにしている。 今の日本で、アニメを見たことない・マンガも読んだことないなどという人はかなりレアだ。モテなさそうな人を捕まえて「マンガを読みますか?」と尋ね、Yesと応えたらオタク扱いしてしまう、なんていうようなイメージでオタクという集合を形作るとすれば、この定義の曖昧な概念は、適当に都合よく膨らませていくことができる。

そもそもオタク概念の始祖である中森明夫も、 自分達とは違う価値観の人々を排除するための言葉としてオタクという語を使い出した。それは、中森がこの語を初めて使ったエッセイで、コミケに集まる人達を揶揄しているところを読んでもよく分かる。

東京中から一万人以上もの少年少女が集まってくるんだけど、その彼らの異様さね。なんて言うんだろうねぇ、ほら、どこのクラスにもいるでしょ、運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じ込もって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴らが。モロあれなんだよね。

髪型は七三の長髪でボサボサか、キョーフの刈り上げ坊っちゃん刈り。イトーヨーカドーや西友でママに買ってきて貰った980円1980円均一のシャツやスラックスを小粋に着こなし、数年前はやったRのマークのリーガルのニセ物スニーカーはいて、ショルダーバッグをパンパンにふくらませてヨタヨタやってくるんだよ、これが。

それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタかてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね。普段はクラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴らが、どこからわいてきたんだろうって首をひねるぐらいにゾロゾロゾロゾロ一万人!

『おたく』の研究(1)(漫画ブリッコ 1983年6月号)より

森永卓郎氏も、結婚・恋愛していない人間を否定したいがために、「オタク」という語を当てはめているのではないか。この記事の違和感の1つはここにある。

もう1つの問題点は、恋愛・結婚できないヤツが劣っているという価値観だ。この価値観はさらに分解出来て、恋愛=結婚という等式の問題点と、もう1つは、それができないヤツが劣っているという価値観そのものだ。

この辺は、本田透が「恋愛資本主義」と命名して散々批判しているから充分な気がするけれど、まず、元々恋愛と結婚は別物だ。


例えば、平安時代の貴族は結構自由に恋愛していたようだが、結婚は一族が決めた相手と粛々と行って子孫を残す。また、赤松民俗学が描くように、夜這いやりまくりだが特定の相手と結婚する、というような世界も、恋愛と結婚が別物であると考えると理解出来る。日本で、恋愛=結婚という等式になったのは、せいぜい数十年だと考えられる。この辺は、デビッド・ノッターの『純潔の近代』などにも詳しい。


で、恋愛=結婚が自由な以上、恋愛=結婚しないことも自由なはずなのだが、それは劣っているとされ批判の対象となってしまう。そういう価値観は本田透を初めとして色々な人が批判するのだけれど、日本で恋愛や結婚をしないでいる若者に有形無形の圧力がかかるのならば、日本の恋愛や結婚は、実質的には自由ではないということだ。

この不自由さの根は深い。しかし森永卓郎氏の記事は、そういう不自由さや息苦しさを全て、「オタク」という便利な否定のための語に封じてしまっている。そこがこの記事のもう1つの問題点だ。

まとめよう。おそらく皆の不満点はこういう辺りだと思う。

  1. 「オタク」を排除の言葉として使っていること
  2. 恋愛や結婚にまつわる閉塞感をオタクという語に押し付けていること

(188)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-02-28 03:27:41

児童ポルノ法の議論がかみ合わない訳

児童ポルノ法の改正、いや改悪案が進行中だ。これは正直いってものすごくヤバい。というわけで、『 児童ポルノ法改正案という本末転倒 』 という記事をライブドアに書いたけど、この一般向けの記事では書ききれなかったことを書いておきたい。

今回の児童ポルノ法の規制肯定派の人達の立脚点はこんな感じだ。

子供を裸にひん剥いて写真を撮ったり、セックスしてビデオに収めたりすることのみならず、そういう絵を描くこと、考えること自体も、子供の人権を侵害する行為だ。そうした作品が商業ラインに乗っていることも度し難い。子供達の人権を保護し、こうした行為が行われないようにしよう。

このロジックにはケチがつけられないように見えるかもしれない。でも、ライブドアの記事にも書いたとおり、こういう肯定派・推進派のロジックには詐術が入っている。記事では、自己目的化しているんじゃないか、という指摘に留めているが、せっかくだから、より厳密な表現を試みてみよう。

何が詐術なのかとというと、この法律が、2つの異なる目的の達成を強引に1つにまとめ上げているところだ。そもそも児童ポルノ法の正式名称は『児童買春、児童ポルノに係る行為等の処罰及び児童の保護等に関する法律』という。名前から分かるとおり、この法律には2つの目的がある。

  1. 売買春や人身売買・ポルノの被写体となる子供の人権を守ること
  2. 「児童ポルノ」などの蔓延を防いで健全な社会風俗を守ること

前者は、法律が規制を行うことで個人の権利を守ろうとするものだ。このように、ある法律が個人のためにもたらそうとする利益のことを、「個人的法益」と呼ぶ。一方、後者は、「社会的法益」と呼ばれるもので、ある法律によって守られる社会全体の利益のことである。

前者が重要視されているのならば、この法律は実在の「子供の人権」を守るためにあるのだから、子供の絵や「18歳未満を演じる大人」などはどうでも良いことになる。一方、後者を重要視しようということならば、「子供の絵を描くこと」や「18歳未満を演じる大人」を禁じることだって、「社会全体に利益」をもたらすということで、法律の目的にしていると考えられなくもない。

つまり、この2つの目的は元々、守ろうとする対象が違う。これを、同一だと錯覚させているところに詐術性がある。詐術より穏便な言い方をすれば、児童ポルノ法の論理のトリックであり、それ故に議論がし辛い部分である。

前者については、個人の権利を守るため売買春や人身売買や望まない性行為を社会全体で禁止するということならば、辻褄は合っているし、論理に問題もない。個人的法益を守るという部分については、問題ないだろう。

しかし、表現を規制して社会的法益を守るという方はどうだろうか。「ポルノ」や猥褻表現を規制する理由は、社会風俗が乱れないよう維持するという社会的法益をその理由と解釈するのが一般的だが、何故「児童」の人権という個人的法益を、その理由として設定し得るのだろうか。これは、「児童」が「児童ポルノ」の被写体となることは人権の侵害であり、「児童」の人権侵害は善良な風俗などの社会的利益に反する、という理由に基づいている。今回の規制も、この発想の延長線上にある。

一見納得してしまいがちだが、ここには論理の飛躍がある。簡単に言えば、特定の個人(=「児童」)の利益とされるものを、極限まで増大させることが、社会の利益そのものである、という論理を立てているところだ。このロジックをそのまま突き詰めていけば、一部の個人の利益と社会全体の利益とが等しいことになってしまう。

これは原理的にありえないことだ。利益が無尽蔵でない限り、一部の個人の利益ばかりを増大させれば、社会全体の利益は減じてしまう。だから憲法には「公共の福祉」という概念があるわけだが、規制派はそこを無視しているどころか、個人の権利、しかも、存在しているのかどうかも良く分からない個人の権利を増大させることが公共の福祉であるというフィクションを立ててしまっている。規制派の論理は、そもそもの保護法益という、法律の根本のところから、矛盾を抱えている。

例えば、「自分の子供時代の写真を大人になってから自分の意思で公表することもできなくなる」あるいは、「芸術であれ、医療写真であれ、『児童』の裸ならアウトっぽい」というような規制が、本当に社会全体の利益になっているのかどうかは、疑わしい。児童ポルノ法の半分は、現行のものですら、このよく分からない論理を土台にしている。そして今回の改正は、この良く分からない論理をさらに推し進めようとしている。これが大変よろしくない。

ここまで原理的に考えないとしても、この規制派のロジックには、大きく分けて3つの問題がある。

  1. 定義の曖昧さの問題
    • 児童ポルノ法における「児童ポルノ」の定義が不明瞭。「児童ポルノ」には何が含まれ、何が含まれないのか。「性欲を刺激」するものでは曖昧過ぎる。
  2. 表現規制の問題
    • 「準児童ポルノ」として広く表現を規制する根拠は何か。30年前に比べて幼児への性的犯罪は劇的に減少しているのに「児童ポルノ」が犯罪を誘発しているというのは事実に反する。
  3. 健全育成の問題
    • 児童ポルノ法における「児童」を「守る」ことは本当に社会的利益なのか。少年法が見直されて刑法適用年齢を引き下げている一方で、18歳未満全てを、性的主体ではなく未成熟な「児童」と見ることには矛盾が無いか。

児童ポルノ法の改悪に反対する議論は概ねこの3つの分類とその組み合わせに分類することができる。

一方、規制の合理的に見える根拠は、「児童ポルノ」は人権の侵害であるという論理的飛躍と、それを正しいとする信念に存在することになる。だが先に見たように、これは合理的とは言えない。それ以外の根拠も、合理性ではなく倫理や信念の部類であろう。よく挙げられる根拠は、例えば以下のようなものだ。

  1. 現行法で対応可能なもの
    • 秋葉原の景観がひどい
      • 既存の猥褻物陳列罪や景観条例、風営法などで対応可能。さっさと取り締まれば?
    • U-15アイドル写真集などがひどい
      • 性欲を刺激するものだというのなら、現行の児童ポルノ法で対応可能。さっさと取り締まれば?
    • アニメ・マンガなどでの性的表現がひどい
      • そもそも青少年保護条例があり「児童」には一切売られていない。猥褻だと言うのならば刑法175条で対応可能。松文館裁判など実例もある。さっさと取り締まれば?
    • ネットのせいで猥褻な情報を入手できる
      • 猥褻なら既存の刑法でも対応可能。さっさと取り締まれば?
  2. デマ
    • 児童への犯罪が増えている
    • 内閣府の調査では国民の大半が賛成している
      • 統計の嘘。そもそも個別面接調査で性というタブーを扱う調査手法や、サンプリングにも問題がある。
  3. 感情
    • 有害情報は規制されるべき
      • 放送メディアなら恣意的な「有害」基準でも運用可能だが、個々人の表現まで一律に規制すると全体主義国家になる。受け手側で対応するのが本筋。
    • やっぱり倫理上許されない
      • 倫理と法律は別だよね。
    • 気持ち悪い
      • それは主観。主観を法律に仮託しないで。

以上を鑑みるに、この規制派と反規制派との議論は、そもそもの前提をちゃんと議論しなければ、全く噛み合いようがない。規制派は「『児童』を守れ」という信念を示し、反規制派は、「それは『児童』を守っていない」という反証を挙げる作業の繰り返しで、極めて不毛である。今何より必要なのは、規制派が議論の場に出てきて、先に挙げた規制派の問題点、A,B,C について応えることだ。もし合理的な根拠があるならば、規制は積極的に行うべきであろう。しかし合理的な根拠が無いのなら、この改悪案は無用であろう。

というわけで、MIAUでもこうした議論の場を設けたいと思う。乞うご期待! あと、登壇してみたいというエラい方も実はこっそり募集中!

(1780)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2008-03-24 22:17:07

携帯小説から見える未来

俺が携帯小説の本文やそれを揶揄している2ちゃんねるのスレッドとか、さらにその辺りをまとめているサイトなどを眺めていると、「エロゲー読んで泣いてる奴も携帯小説読んで泣いてる奴もレベルは一緒だ」っていう書き込みが幾つか目に付いた。「現実感」とか「リアル」ってのがキーワードになって論争しているらしい。これは根本的に勘違いだと思う。携帯小説を読んだ時に感じる違和感ってのは、リアリティの問題じゃない。ついでに、リンク先の記事とかを読んでいたら、個人的な知り合いが何人か出てきたので、せっかくだから反応してみよう。

何が問題なのかを考えるために、既に散々語られている感があるけど、『Kanon』やら『AIR』やら『CLANNAD』やらのKey周辺のエロゲーについて、もう一度考えてみることにしよう。

まず、名作とされている美少女ゲームの物語構造を、ものすごーく単純化して俯瞰してみると、古典的な物語作成の技法にも合致する一般的な構造の脚本であることが分かる。何かをきっかけとして“異界”への扉が開き(異界というのは、剣と魔法のファンタジーの世界というような意味ではなく、単身どこか知らない街へ引っ越すとか、周りの人が少しだけ妙な反応をしていることに気づくとか、そういう「普通の毎日ではないこと」を指す)、主人公はその異界を彷徨い、何らかの形で問題をクリアして、読み手は一定のカタルシスと共に通常の世界へ戻る。その際には、ちゃんと「どんでん返し」が仕込まれている。これは、アリストテレスが『詩学』でミュートスだ何だと言っている時から求められる構造と別に変わらない、普遍的な物語の構造だ。

もう1つ重要な点として、『One』や『Kanon』の脚本は、「こういうことがありました」、「次にこういうことがありました」、「最後にこうなりました」というようなエピソードの数珠繋ぎにはなっていない。主人公や周囲の人物は、ある時点ではどういう感情を抱いていて、何らかの事件によってそれがどう変化したか、その感情の変化を追いかけることができるように、文章が書かれている。かわいい女の子がタイヤキを盗むのも妙な口癖を持っているのも、それは読み手に、何らかの感情を想起させるための仕掛けである。俺も初めて「うぐぅ」のくだりを読んだ時は、ぶん殴りたくなったが、それは脚本家の仕掛けの成功なのである。ポジティブであれネガティブであれ、読み手の感情が動かされたということは、物語に引き込めている証拠なのだから。脚本が失敗し、物語に引き込めていない時の読み手の反応は、登場人物への「反発」ではない。「無関心」だ。アナタと無関係の赤の他人がこういう事件に見舞われました、では誰も感動しない。映画なら途中で寝てるだろうし、ゲームならAlt-F4が押されるか右上の×ボタンがクリックされる。物語の最後にカタルシスを与えるためには、物語中の人物が、アナタの感情を何らかの形で動かしていなければならない。だから脚本家は、様々な仕掛けを用いて読み手の感情をコントロールし、途中でゲームを止めさせないために様々なスパイスを撒いている。ボケ漫才もその手段の1つである。Keyのゲームは、そういった仕掛けが、既存のよくある物語とちょっと違っただけだと俺は理解している。彼らの志向はあくまでも王道だし、脚本の手法もやっぱり王道なんだよね。表出されたものは王道に見えないかもしれないけどさ。

一方、携帯小説である。携帯小説は、「彼氏に振られた!」、「レイプされた!」、「ドラッグを打たれた!」、「妊娠した!」、「自殺未遂した!」、「彼氏が死んだ!」、そういうショッキングな事象が延々と連発される。これは何でなんだろうか。こういう事象が「リアル」なんだって書いている人がいるけど、そうじゃない。それは勘違いだ。「異性に振られた」とか「妊娠した」はともかくも、ドラッグや集団レイプがそうそうあるわけはない。むしろ、リアルじゃないからこういう物語が作られているのだし、そもそも、「リアル」かどうかってのはどうでもいい話なんだ。

携帯小説も、日常から非日常へ行き、また日常へ戻ってくるという、基本的な物語の構造を持っている。ほとんどの女の子は輪姦されないし、彼氏も不治の病にならないし、自殺未遂もしない。これらの要素は、リアルじゃないから、物語の「非日常」として成り立つのだ。作者だってそれを明確に意識している。そうでなければ、最後に「から揚げ」などという「日常」を持ってきたりはしない。携帯小説は、物語であろうという志向は持っているし、ものすごくプリミティブな意味では、物語の構造を持っている。ここは間違えないで欲しい。携帯小説も、根本的には物語であろうとはしている。問題は、もう1つの方、感情を揺り動かすための仕掛けの部分だ。

携帯小説も、読み手の感情を何らかの形で揺り動かそうとしているのは伝わってくる。でも、その手段がものすごく乏しい。ビジュアルを伝えられないので人物の外見で引きずり込むことは出来ないし、誰もが興味を催すような舞台をひねり出すのはとても難しいし、文字だけで魅力のあるキャラクターを創造するのもとても骨が折れる作業だ。そういう作業については、一切放棄している。だとしたら、誰もが恐れ嫌がるに決まっている単純な不幸を連発して、不幸の持つインパクトで読み手を呼び寄せるしかない。この、読み手の感情を揺り動かすという部分について、携帯小説の作家達には、全く技量が無いのだ。

携帯小説の作者は、別に不可思議なことは何一つやっていない。読み手の感情を動かしてカタルシスを与えようという志向は持っている。彼らが物語を作ろうとする時の志向も、王道である。でも、俺などのように、物語を山のように読んできた人間の感情を動かすことは、できない。腐るほど物語を読んでいるオタク共には、不幸を連発して読み手を引き付けるという手法は「邪道」だし、「下手糞」以外の何物でもない。今までの物語作者が散々頭を悩ませてきた「読み手を引き付けるための工夫」を完全に放棄しているように見えるからだ。

社会学者達が考えるべきなのは、エロゲーの脚本家達は叙述の力によって読み手の感情をコントロールできる技術を身につけられたのに、なぜ10年世代のズレた携帯小説の作家達にはそれが出来なくなっているのか、というところだ。その答えの1つはコレなのだと思う。

909 名前: 大道芸人(長崎県)[] 投稿日:2008/01/17(木) 10:32:31.74 ID:i1xWOipi0
まあ、いいんじゃないか、
人それぞれ、そういう時代だろ。

こういう、履き違えた個人主義のような発想が、間違いの元だと俺は考える。確かに、個人の好き嫌いってのは別に「人それぞれ」でいいと思う。でも、ある技術や技法(例えば文章技術)の巧拙、上手・下手ってのは「人それぞれ」で認めてよいものじゃあないんだな。技術や技法ってのは客観的に評価できるものだし、教育によって伝達することもできるものだ。「下手な技術で作られたアウトプットを喜んで受け入れる自由はあるじゃないか」、って主張する人もいると思う。確かに受け入れるのはその人の自由だ。俺も、超絶技巧なコンテンツばかりを愛好しているわけじゃない。どうしようもないモノを山ほど愛しているし、自分が創ったり描いたりしてるのも超絶技巧とは縁遠い。でも、だ。

アナタが技術者、表現者、創作者、芸術家を志向しているのならば、「別に下手でもいいじゃん」という考え方を受け入れることは許されない。何で許されないのかっていえば、それを許しちゃうと、次世代の技術者が育たないからだ。もちろん自分自身も成長しないしね。下手な技術者が存在することは許される。初学者は全員下手だ。成長の歩みが遅いことも状況次第で許される。でも下手な技術者が「俺様は下手なままでいい」と開き直ることは許されない。技術者なら、常に鍛錬しないといけない。そして、その鍛錬を楽める人が技術者であるべきだ。技術者達がこういう価値観を共有していなければ、社会全体の技術は向上しないのだ。だから、これはmustなんだ。

つまり携帯小説をバカにする多くの人達がムカついているのは、その致命的な低レベルさと作者の技術的な向上心の無さ、そしてそれをそのまんま受け入れている人たちのゆるーいメンタリティなんだ。これは、リアリティなどとは全然関係が無いんだよ。「文章下手な癖に自分に酔っているからムカツク」で合ってるし、その要約が正しい。濱野さんや東さん、ised の時に面と向かって何度か言ったけど、技術者やクリエイタとしての経験がないと、こういう時に議論の踏み込みが甘くなるんですよ。何でも相対化したりメタ化すりゃいいってもんじゃねーんだよ。どこかで一線を引いて、そのラインを守るために戦わなきゃならんのだ。それが意見を主張するってことだし、学者としての責任なんだと俺は思うよ。大塚が言ってて伝わらなかったのはそういうことなんだよね。

でも逆に、そういうゆるーい姿勢をバッシングする人達がいる限り、日本人の向上心ってのは大丈夫なんじゃないかと俺は思ってる。皆が向上心を持ち続けている限り新しい技術・技法は開けるだろう。そこには未来があるはずだ。俺はそこのところを信じているな。

(549)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2008-01-18 23:33:02

合理性はどこへ行った?

何だか、「UFOを信じる」とか発言した政府要職の人間がいるらしい。ここで、「UFO」を定義どおりに、「未確認飛行物体」のことだと考えると、「未確認な飛行物体の存在を信じる」ということになって全然意味を成さない。ということは彼の言いたいことは恐らく、「地球外の知的生命体による飛行物体が日々地球周辺をウロウロ飛んでいると信じている」ということなのだろう。バカも休み休み言って欲しいものだ。

このようにUFOをはじめとするオカルティズムを一刀両断に切って捨てると、その手の人たちからは、科学や論理を無批判に信奉している、と批判されるのだろう。だが俺は科学を信奉しているわけではない。科学の基本姿勢は、「疑う」だ。科学者は、既存の枠組みを疑い続け間違いを探し修正し続けるものだ。だから俺は、既存の学問を色々と疑っている。UFOをマンセーする人たちを俺が「バ~カ」と謗りたくなるのは、彼らの基本姿勢が「信じる」であるからだ。

宇宙人が存在しUFOが飛来していても、俺は一向に構わないし、むしろ世の科学者はそっちの方を期待していると思う。論理的な思考を常とする科学者という存在を、普通の人はUFO否定派の集まりだとみなしているのかもしれないが、それは勘違いだ。宇宙人を解剖したりUFOを分解したがるサイエンティストの方が圧倒的に多い。っていうかだな、むしろ全員そうかもしれん。

だが、UFOなり宇宙人なりというものの存在を科学的に認めるためには、あやふやな記憶や写真などの、判断材料とも言えない中途半端な記録をいくら積み重ねてもダメである。前提を疑い、論理展開を疑い、結論を疑いながら、疑問の余地がなくなるまで徹底的に調べ尽くせる存在を用意する必要がある。科学とは、そういう手続きを経ているものだからだ。「論理は本当に論理的なのか」というようなところまで疑ってきた科学者達は、「ある程度普遍的に通用する形で一定の見解を提示する手法」について磨きをかけ続けてきた。だから、多くの科学者があっさりUFOや宇宙人を認められるようそれらの存在を提示する方法は、ちゃんと用意されている。しかしながら、UFOを信じる人たちは、いつまでたってもその手続きが踏めない。

UFOマンセーな人たちが提示する「これは宇宙人の写真です」とか「UFOが着陸した跡です」とかいう怪しげな証拠には、山ほどの合理的な疑義が差し挟めてしまう。っていうかだな、存在するっていうならナマモノを持ってくりゃいいのだが、政府やらフリーメーソンやらの陰謀で毎度阻まれているのか、未だにナマモノは何も存在していない。であるからして、UFOという疑いの余地がでかすぎる存在を仮定しない方が、世界はスムーズに動く。

にも拘らず、こういうアホな事柄についてまじめに国会で問い合わせたり、あまつさえそれに答える人間が議員だったりするというのは、とてもおっそろしい。どう考えてもUFOより隣国のミサイルの方が怖いよ。合理的な脳味噌はどこにおいてきたのだろうか。

だがまあ、こういう合理的な思考が出来なそうな人たちも、国民が選んだ人である。人間は、常に合理的な思考を行うわけではない。ハイになってりゃ変な判断もするでしょう。ということは、合理的じゃない人も代表に(議員に)はなりえるだろう。だからまあ、こういう人が議員やっているってのは、良い現象だとは言わないけど、仕方が無い範囲だと思うんだよ。そういう人を減らしたいとは思うけどね。

それよりも俺の脳を悩ますのは、東京大学という日本で一番合理的な人達を集めて養成するはずの組織から、さらに合理的な人達だけが選りすぐられているハズの官庁という場所において、合理的な判断を下すための手続きが、全く行われていないことだ。まあ何のことかと言うと、これのことだ。

ダウンロード違法化は「やむを得ない」、文化庁著作権課が見解示す

川瀬氏は「客観的に見ても、違法着うたサイトやファイル交換ソフトで、適法配信を凌駕するような複製が行なわれていることは事実」と指摘。これらの複製行為がなければ、ユーザーの購買につながるかどうかは定かではないとしながらも、権利者に対価を支払わない“フリーライド”の典型であると述べ、「総合的に判断すれば、30条改正はやむを得ない」との考えを示した

「適法配信を凌駕するような複製」というのが、どこで、どれくらいの数、どれくらいの期間に渡って、どれくらいの質で、行われているのかとか、ツッコミたいところは他にもあるが、何よりも度し難いのは、「これらの複製行為がなければ、ユーザーの購買につながるかどうかは定かではない」にも拘らず、「やむを得ない」という結論に飛びついているところだ。これは全く科学的でない。合理的でない。

「やむを得ない」、つまり、ダウンロード違法化が適切だと根拠付ける定量的な調査・研究はあるのか? 「違法流通被害額」というのは、把握された流通数に単純に価格をかけただけのものだから、ユーザの購買ということを考えたら、数字としては無意味だ。以前、「のまネコ問題で考える二次創作の創造性」という記事を書いた時にも述べたけれど、適法かどうか怪しいコピーによってパブリシティが上がり、クリエイターもウホウホになるというケースは、『日本ブレイク工業』や、『涼宮ハルヒの憂鬱』など色々な例がある通り、決して特異点ではないのである。また、違法化することによって、5年先・10年先のコンテンツ市場がどう変わっていくのか、という視点もない。例えば、情報通信産業が萎縮することによるマイナス面を計量するためのモデル化も行われていない。

つまり、この文化庁の主張は、合理的に主張を展開する時の手続き、科学の手続きというものを全く踏んでいない、一方的で身勝手な暴論なのである。こういう非合理的な主張を、一般人の代表として選ばれる政治家ではなく、選りすぐりのエリートであるはずの官僚が行ってしまうということは、心底恐ろしい。だから文化庁の判断は、そういう意味でも批判しておかねばならない。直接面識がある人を名指しでここまで悪く言うのも初めてだが、まあ仕方ないよね川瀬さん。

って思ったんだが、例の「UFO信じます」発言の官房長官も通産省の出自じゃないか。オイ、日本の官僚しっかりしろ。

(63)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2007-12-20 03:43:19

オーマイニュースで分かったこと

オーマイニュースの鳥越氏にインタビューしている元旦のJ-CASTの記事を堪能させてもらった。

ネットユーザーはいろいろ情報発信を始めたわけだよね。で、メディア批判も盛んになって(笑い)、僕はね、ネットユーザーがメディア批判だけではなくて、一市民として持っている情報をね、有効に働かせることができないかと前から思っていたんですよ

以前にも彼は、「人間の負の部分のはけ口だから、ゴミためとしてあっても仕方ない」と2ちゃんねるを評したり、ブログについては、「内容は他愛もないことが多く、社会が変わるような発言は少ない」などと述べるなど、ITmediaのインタビューで祭のネタを提供している。

どうも、散々叩かれたにもかかわらず、未だにオーマイニュースの人間は、自社のウェブサイト(自称“市民メディア”とやら)を、2ちゃんねるやブログなどの代替手段であるかのように捉えているらしい。恐ろしい勘違いだ。治せるものなら、早くその「死に至る病」は治したほうが良いだろう。もし意図的にやっているのなら、詭弁も甚だしい。

まず、全てのコンテンツは、必ず何らかの意図を持って編集され、受け手に届けられてている、ということを確認しなければならない。泣ける映画は観客を泣かせるために作られているし、エロマンガはオナニーさせるために作られている。単純な事実や感情を伝達する普段の会話だって、話者の意図によって表現は大きく変わるのだ。

例えば、とある有名ラーメン店へ行った友人に「あのラーメン屋の味はどうだった?」と尋ねた時のことを想像してみよう。「まあおいしいけど、店がすげー汚かった」という答えが返ってきた場合と、「店は綺麗じゃないけど、結構おいしかった」と返ってきた場合とを、比較してみて欲しい。同じ事実を描写しているはずなのに、受ける印象は全く違うだろう。前者では「じゃあ俺も行こう」とは言い辛いが、後者なら「じゃあ今度また行こう」と言いたくなる。これは、いわば“言霊”の力だ。

オーマイニュース内部の佐々木氏だって、同様の指摘をしている

客観報道の体裁を一見とりながらも、首相の靖国参拝に好意的な言葉を語る市民に対しては、「持論を展開し始めた」「ニヤリと笑う」「まくし立てた」という表現を使い、一方で批判的な市民については「静かに語る」「静かにそう語った」「言葉を継ぐ」といった言葉遣いをしている。
前半に参拝賛同意見を載せ、後半で反対意見を畳みかけるようにつなぐその原稿構成を見れば、中台記者がどのような立ち位置で記事を書いているのかは明確だ。

完璧に中立の記事などというものは、存在しえない。これは、極左としても有名な本多勝一氏の持論でもある。そして周知の事実だが、オーマイニュースは、左寄りとされる視点を持っていると思われる。

何らかの意図を伝達しようとするメディア、すなわちオーマイニュースの「成功」とは、どういう状態を意味するのだろうか。意図を伝達しようとするメディアの目的は、当然、その意図の伝播以外には、あり得ない。それはつまり、プロパガンダの成功と同義であり、すなわち、何らかの意図を持つ集団の発言力が大きくなることを意味している。これは2ちゃんねらーが看破する通りだ。

そうしたメディアが、韓国で成功できたのは、政府や財閥の息がかかったマスメディア以外が存在せず、それらに対抗し得るメディア、カウンターメディアが存在しなかったからだろう。オーマイニュースのポジションは、既存のマスメディアに対して、カウンターパンチを当てるためのメディアであったと考えられる。

別の見方をすれば、既存のマスメディアに大きな影響力があり、そしてカウンターメディアが存在しない場合においてのみ、インターネット上でのカウンターメディア、プロパガンダたるメディアの価値は高まるのである。だから、韓国でオーマイニュースは大事な存在なのであろう。それはそれで良いことだ。

日本の事情を考えてみよう。

まず、2ちゃんねらーにとって、マスメディアの言論の価値などとっくに地に落ちている。日本のマスメディアの価値は、既に完璧に解体されている。マスメディアが、何らかの意思を国民全体へ浸透させようとするパイプであることくらい、とっくに看破されている。だから2ちゃんねらーはマスメディアから、自分達にとっての適切な言論、すなわち、適当な祭のネタを選び取るだけだ。2ちゃんねらーにとって、ある意見を通そうとするメディアを叩くための別のメディアという存在には、失言を探すためのネタとなる以外に存在の価値が、ない。

そして、日本の書籍や雑誌の出版点数はべらぼうであるし、自費出版なりウェブなり同人誌なり、個人でも言論を発表する場は多数存在するし、そうした言論の自由については、憲法で明確に保証され、(重要なことだが)実際にそのとおり運用されている。中小のメディアは十分発達しており、カウンターパンチを当てるメディアなら、十分に存在するといえる。

今更、新聞・テレビといったマスメディアに対抗するプロパガンダを唱える別種のマスメディアは、特に存在する必要が無いと考えられる。

オーマイニュースがあるプロパガンダへのカウンターパンチであるのならば、それは所詮、何らかの価値観を周知するために企業がインターネットを利用するというタイプの行動パターンであり、つまり、古いメディアが新しい衣をまとおうとしているだけだ。だから、2ちゃんねらーには、ゴミ以外の何物にも見えない。

2ちゃんねるとは、どんなむちゃくちゃな言論でも拒まず公開し続けるというだけの、ツールの集合体だ。一方のオーマイニュースは、編集というフィルタを通した言説のみを公開する。両者はそもそも、同列に対照しえる概念ではない。一方はアーキテクチャであり、一方はコンテンツだ。

2ちゃんねるとmixiなら、同列に対照し得る。実名に近い(ということになっている)アカウントで、ある程度狭い範囲の人間にのみ意見を公開するツールと、ほぼ匿名(ということになっている)状態で、全世界に向けて何でも言えてしまうツールとの対立、すなわち、仕組みの違い、アーキテクチャの違い、設計の違い、デザインの違い、だ。

同様に、例えばオーマイニュースと産経新聞なら、対照できるだろう。この対立とはつまり、編集者の価値観によってくみ上げられる言説同士、コンテンツ同士の戦いなのだから、つまりは政治姿勢の戦いである。

2ちゃんねるやmixiが提案しているのは一種のインフラでありアーキテクチャである。しかし、オーマイニュースや朝日や産経が提供しているのは、コンテンツであり価値観である。2ちゃんねるとオーマイニュースでは、全くレイヤーが違う。ブログだって、2ちゃんねるやmixi同様、基本的にはアーキテクチャだ。ブログという仕組みでどういう意見が出てくるのか、それが「市民」とやらにとって都合がいいのか悪いのかについて、ブログという“仕組みそのもの”は、一切斟酌しない。

2ちゃんねるやブログには、ある一定の政治姿勢や価値観を出し続けるような仕組みは(商業上の理由によってある程度コントロールされ得るが、一応)ない。右翼的言説が多いのは、そういう発言を多くするためのツールがあるわけでも、編集者が記事を選んでいるわけでもない。そう発言する人が純粋に多いというだけだ。知識人がやるべきことは、「最近は右翼的な若者が多いですね、わはー」と知的障害を起こすことじゃなく、「モダンな価値観が揺らぐとされる現代においても、何故右翼的な言説は人を魅惑するのか」といった視座から熟慮することだ。

一方のオーマイニュースで左翼的な言説が多かったり、産経新聞が右翼的であったりするのは、純粋にそういう記事を書いたり選んだりするからだ。そういうものしか載らない仕組みになっている。

2ちゃんねるとオーマイニュースの違いとは、本質的にはレイヤの違いである。片方は「プロパガンダをも生成できる自由なシステム」であり、片方は「プロパガンダそのもの」だ。俺は2ちゃんねるを全面肯定するつもりはないが、2ちゃんねるを否定する人達は、こういうレイヤの違いを、「匿名性」などといった言葉で歪曲化し、自らのプロパガンダのために、匿名記事が問題であるかのように話をすり替える。そういうのは大変よろしくない。そして、こういうレイヤ(階層)という発想は、情報通信技術の理解を前提とするから、鳥越氏などは、おそらく自分たちの論理の歪曲化自体に、そもそも気づいていないだろう。そういう、知識人を気取って自らの怠惰を誤魔化そうとする姿勢が、俺は嫌いだ。

(125)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2007-01-05 19:06:56

他人の持ちネタを奪いながらterminologyの恐ろしさを考える

この前 ised@glocom へ行って来たわけだが、そこで白田先生がツカミに使われていたネタを紹介してみよう。いわく、「『法』と『法律』の違い、分かりますか?」

ワカラン。知りません。説明できません。でも会場はみな平然とした顔をしているぞ。うーん、みんなには既知の話なんだろうか、知らないのは俺だけかグワァー。以下、白田先生の説明に自分の理解が加わってるので、間違いは私の責任です。

で、「法」という言葉はラテン語の“ius”であって、この言葉を羅英辞典で引いてみると、“justice, right, law”などと出てくる。道徳を含んだ法・権利、正義などの概念で、意味としては「正」に近いのであろう。一方「法律」に当たるラテン語は“lex”で、これは英語の“code”や“statute”に相当しているという。どういうことかというと、「法」という体系に何らかの問題がおきたとき、それに対処するための仕組みが「法律」という位置づけになるようだ。白田先生は、「『法律』とは『法』のパッチである」とまとめられていた。

さて、今までの人生で、「法」と「法律」を正しく使い分けできていただろうか。思い返してみれば、「法制度」とは言うけれど、「法律制度」とは言わないような気がする。「法システム」はアリだけど、「法律システム」はだめぽな感じ。なるほど、落鱗です、白田先生。

まあ、isedの続きはそのうち本家でうpされるだろうから置いておくとして、「言葉なんて、相手に通じりゃいいじゃない」と考える人たちに、伝えたいのである。言葉が複数あるということは、複数に分かれるだけの理由があるということだ。それをぐっちゃぐちゃに混ぜて使うということは、「自分の脳ミソでは違いが分からない」と宣言しているのとなんら代わりがない。知らなかったときはしょうがない。一言しゃべっただけで無知がばれるけど、それは仕方が無い。でも、知っちゃったなら使い分けようよ。脱無知。

だから、「IPアドレス」を「IP」って略すな! いい加減めんどくさくなってきたけど、せめて「ホムペ」は止めてくれ! しかし、一般素人相手の時に、自ら「ホームページ」といえるくらいには、大人になった俺。大人になるって悲しい。

追記:平野敬さんから、ツッコミメールを頂戴しました。「法」と「法律」という言葉は、日本の国内法学者、法制史家、法哲学者などが三者三様の使い分けをしており、上記の理解は一面的なので誤解なきよう、ということです。以下、平野さんのメールから 3 つの類型を引用します。
> 1. 日本の国内法の世界においては
> 国家権力によって拘束力を担保された規範を「法」と呼び
> 国会において成立した法であって,
> 予算・議院規則・憲法および憲法改正を除くものを「法律」と呼びます。
> たとえば地方自治体の条例や国際条約は,法ではあるが法律ではありません。
> 難しく言うと,「法律」は法源(法の存在形式)のひとつです。
> 法律システム・法律制度と言わず,法システム・法制度と言うのは
> 法律はそれ自体で完結した規範体系を構築しないからです。
> 多くの法律は政令・省令・条例によって補完されることによって機能します。

> 2. 語源的に見ると,「律」は刑事法を意味する言葉です。
> (日本史の「律令政治」を思い出してください。ちなみに令は行政法です)
> 法制史の世界においては,「法律」あるいは「律法」と殊更に強調した場合
> 刑事的ニュアンスが強くなることでしょう。

> 3. 西欧語における ius / lex の二分論に対応させる形で
> 法 / 法律を使い分けようという思想は確かに存在します。
> 特に,法哲学の世界ではこうした使い分けが珍しくありません。
> ただ,「法は『正しさ』の概念を含みます」なんて言い出すと
> 「じゃあその『正しさ』の基準を決定するのは何だ」といった
> メタ法をめぐる泥沼論争に陥る危険性があるので,
> 敢えて無造作に使ったりすることもありますが。
当然白田先生は、こうした背景をご承知の上で、後に展開する持論のツカミとしてお話されたのですが、背景の理解がいい加減で、すぐ針小棒大にマンセーしちゃうのは私の浅薄さ故です。いただいたツッコミメールは精緻で大変勉強になりました。ありがとうございます。なお、平野さんのメールからの引用部分も CC ライセンスです。
(45)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:09

今年は士気が上がるといいね

遅ればせながら新年あけましておめでとうございます。

今現在、フリーターという存在は貶されがちだけど、1980年代に、株式会社リクルートが「フリーター」という言葉を作り出した時のことを考えてみよう。“free”という言葉のもつイメージがプラスなのかマイナスなのかを考えれば、これが当時プラスの概念だったことが容易に想像される。フルタイムの雇用者より多くの自由時間が得られる。「夢に向かってガンバレ」。そういう新しくてカッコイイ存在として、フリーターという言葉と概念が、株式会社リクルートという一企業によって作られ、ポジティブなイメージを与えられた。何しろやつら、『フリーター』という映画まで作ったしな。何のために? そりゃあ雇用情報の仲介をするリクルート社が、アルバイト市場を広げるためにですよ。リクルート社は、言葉を作り市場を作り、社会構造まで変えてしまったのだ。うーんさすがだね。企業戦略ってのはこういう規模でやるもんだね。(参考:http://www.works-i.com/article/db/aid279.html

さて、フリーター批判の大半は、「社会に参加していないから」というところへ尽きるだろう。税金や年金を払わない。隣近所の共同体に参加しない。家族を作ろうとしない。で、なんでそれが社会的な批判の対象になるかといえば、我々がそういう生き方を是としない社会の一員だからだろう。でも。「社会のためでだけはなく、自分のために自分らしく生きてもいいじゃないか。いやむしろそうするべきだ」っていう類のメッセージを、20年以上もの間ありとあらゆるメディアでフィクション・ノンフィクション問わず散々流しておいて、いまさら「そんな生き方はダメです」って否定しても、まあ手遅れだわな。

お金を稼ぐことは何のためですか。社会貢献のためではないよね。社会貢献のために日々仕事をしている人、今の日本にどれだけいますか。如何に楽に金を稼いで如何に楽な人生を過ごすか。メディアでそんなことしか流れないのだし、みんな大同小異そういう行動形態を取る。その行動取る人たちにフリーターとか風俗で働く人とか援助交際とか、そういう人たちを批判すべき倫理的な論拠なんて、どこにもないじゃない。

でも貨幣ってのはすげぇ公平なシステムだよな。他にこれほど一元的な価値を提供できるシステムがあるだろうか。貨幣経済を否定するなら、これ以外に皆が納得できる一元的な価値システムを作らねばなるまい。そいつは無理だ。そして皆そこで思考を止める。だから、フリーターが何故ダメなのかをちゃんと説明できる人はほとんどいない。「アンタが不利な立場になるよ」という個人的な損得に基づいた説得か、常識か特定の理念に基づいた非論理的な説教からか、経済学の穴だらけのモデルからの推論くらいでしか述べられない。結局、背後の説得力ある理由は金か。なら開き直って金が一番すばらしいんだ、金が全てだってプロパガンダ流せばいいのに、そんなことはできもしない日本のマスメディアの中途半端さよ。

結局もう経済システムに組み込まれてしまってたフリーターは減りようもない。今現在できるのは、フリーターのマイナスイメージを積極的に売り込むことであって、そしてそれは一応成功している。かのリクルート社も、今となってはフリーターに肯定的ではない。

でもマイナスイメージだけでは、貨幣経済にすっかり組み込まれてしまったフリーターという雇用形態の合理性に勝てないんじゃないか。5人に1人がフリーターの時代、マイナスイメージだけで推し進めたら、社会の士気が下がるじゃない。オルタナティブもないわけだし、少なくとも1/5の人間の士気は下がるわけよ。だからさ、なんかもうちょっと考えた方がええんでねーの。フリーターを非難するより、フリーターでも明るく生きられるための何かを考えたらいいんでねーの。非フリーターの士気を上げるためにフリーターを貶める社会なんて、まともじゃない。と俺は思うんだけどね。

(54)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:10

さらなる負け犬が遠吠えをしてみる

「負け犬」って言葉があるじゃないですか。酒井順子という人が、『負け犬の遠吠え』という本で煽っているのだが、「30 代以上で、未婚で、子ナシ」の女性のことをそう呼ぶんだそうだ。このエッセイ本についてはすでにいろんな人がいろいろ言及してるから、いまさらどうでもいいと思うが、ロリとして自分の立場を正当化する方向から強引に電波を飛ばしてみよう。そんなこと言うヤツはあまりいないだろうからな。

率直なところ、30 歳以上で未婚で子ナシの女性を無価値だとしてくれて、しかも女性にまでその価値観を明示してくれるなんて、ありがたい限りである。だって、そういう女性のことを男性は考慮する必要がない、つか、そんな女には何の魅力もない、っていう価値観を、社会の大部分に広めてくれてるわけじゃない。それはつまりさ、多くの男性が恋愛対象としては、…いや、はっきり言おう、多くの結婚を決意する男性が性の対象とする( = 自らが扶養する価値があると考える)のは、20 代から下の女性であるっていうのを、間接的に認めてくれてることになる。

では、20 代から下はどこからどこまでが認められるのか。16 歳で結婚できるとして、16 歳から 29 歳までしか性的な価値がないのだろうか。そんなわけはない。15 歳 364 日の女の子と 16 歳とで何が違うのかっていうと、もちろん何かが明確に違うわけじゃない。ただそう決めてあるだけだ。15 歳の女の子くらいだったら、オッケーというヌルいロリな人、いっぱいいるよね? その手の人たちは喜んでくれ。少なくともその価値観は、酒井順子にも認められ多くの女性にも共感されてるようなものだ。

少年少女を性的に搾取しないというのは社会的なルールであるが、法としてのルールと倫理としてのルールとを明確に分けておかないと、そろそろ破綻が起きるんじゃないかね。つまり、逸脱が許されないルール(法)と、逸脱が許されるルール(倫理)を明確にしろ、ってことね。幼女をニヤニヤ眺めてるデブヲタなんてのは確かにキモい。でも、傷害や拉致に走るのでもない限り、その程度の逸脱は、倫理でジャッジすべき範囲(つまりは許される範囲)である。こういったデブヲタを取り締まる根拠としてよく挙げられるのが割れ窓理論だが、こいつの最大の欠点は、倫理を法で縛ろうとするところ、である。一切逸脱が許されないルール(法)で趣味・嗜好の類を縛っちゃうと、いつの日か、間欠泉のような形で破綻を招くことが危惧される。破綻というと、ロリな人は政府による一層強烈な締め付け、なんてのを考えるだろうけど、必ずしもそればかりじゃない。逆に、日本の成人女性が男性からまったく相手にされなくなる、なんていう破綻もありえるかもよ? だって成人女性って賞味期限切れてるわけじゃない? そしてその価値観を、成人女性自らが認めてるんだもん。すごい話だね。

階層化して結婚や育児に異様なコストのかかる社会でも、エリートはおそらく結婚して育児を続けると思う。そうすることがエリートの証だから。逆に言えば、そうすることが責務であるという信念を持てるのがエリートだ。で、それ以外はどうすればいいのかな。ジワジワと広がっていくカースト制みたいな階層感。

(47)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:18

エロ同人屋に読んで欲しい著作権の話

まあ実際のところ今の俺は、トップページに載っけるような絵を 1 枚描くのに、密度にもよるが大体半日から 1 日かかる。人物のカット(いわゆる立ち絵)をゼロからエロゲ / ギャルゲ塗りで仕上げるなら、せいぜい 1 日 5 枚くらいだろうか。ちなみにこここでいう「1 日」とは、8 時間労働の範囲ではなく、文字通りの「1 日」から生命維持に必要な食事や睡眠などを引いた時間と思っていただきたい。さて、1 日にいくらもらえれば嬉しい & 食っていけるだろうか。

正直なところ 1 万円くらいはお願いしたいわけである。時給で換算するとコンビニバイトにも劣るが、まあそれは俺の手が遅いししょっちゅう集中が切れるというのもあるからいいや。商業誌の原稿料もカラーでほどほどちゃんと描きこんであれば最低それくらいは出たし、同人の方も、ひっかき集めてショップに回したりすれば、なんとか採算ラインのボーダに乗ってる。だから続けられる。

なぜ著作権という仕組みがあるの? という疑問に対するものすごく単純で具体的でショボい回答例は、上記のようなものだ。自分の作ったものが金銭的にむくわれてやる気が出るから。勝手にコピーされると俺のところへ金が入らないから。こういうのを、著作権のインセンティブ論(やる気を起こすための仕組み)、と呼ぶ。そして、同人屋にしても漫画家にしてもエロゲンガーにしてもだ、一般的な作り手たちにとってこれは都合の悪い仕組みじゃないから、大体この辺で思考するのを止める。俺も止めていた。だって、そのままぼけっと描いてても食えないんだもん。描くために食うか、食うために描くかって、そりゃ食うためですよ。著作権? 便利な仕組みだよね。

でも、だ。あえて「でも」だ。日々食うために描くとしてもだよ、絵を描いたり何かを作ったりするそもそもの動機(インセンティブ)って、食うためではなかったんじゃないかね。あ、「理想論マズー」とか言って引くのは早いよ。そらね、お金は欲しいぞ。資本主義社会だもの、そら欲しいぞ。それに、有名になりたいとか上手くなりたいとかいう野望があって、そのために努力するというのもあると思う。でも、そういうのは別。そういうのはおいといて、だ。もっと単純な創作欲というのがあるでしょ。

急に何か言葉をつむいだり、絵を描いたり、歌を口ずさんだりしたくなること、あるでしょ。その動機というのは、金が欲しいとか、たまには卵かけご飯以外のも食いたいぞ、とかじゃなくて、もっと単純なものではなかっただろうか? 小学生の時、お金のために絵を描きたがった人なんているか? 描けるのが嬉しかっただけだろう? 初めて PC で絵を描いた時、純粋に嬉しかっただろう? でさ、その時の喜びや楽しさがなきゃ、絵、描き続けてなかったでしょ? こういう単純な「言いたい」、「作りたい」、「伝えたい」っていう気持ちは、単純で自然な表出欲というか創造欲というか、なんというか……そうそう、好きな人に好きだと伝えたくなる時の気持ちと同じなんだ。表現というアウトプットは、複雑なフィードバック機構を持つ人間の、本能の結実なんだ。

もっと分かりやすい例を出せば、コミケがあるから原稿を描くってのは事実だけど、もしコミケがなくなっても絵を止めたりはしないだろう? つまり、著作権の仕組みやお金は、根本的にはモチベートしてくれないんだよ。著作権の仕組み自体は、直接的には創作欲を守らない。今の著作権の仕組みが一義的に守っているのは、自分の作品を売る「作り手」と、他人の作品を買う「受け手」という、交換の枠組み だ。だからさ、著作権のシステムがインセンティブの付与のためにあるだなんて言わないでおくれ。現行の著作権は、価値の交換のために仕方なく取り入れられた一実装なんだから。あ、もちろん自然権(プロパティ理論)でもねーよ。強いて権利として考えるのなら創作権とでもいうようなもんで、それはつまり表現の自由だ。根本的に創作欲をモチベートする法的な仕組みというのは、表現の自由しかないんだ。

だから、特定少数の著作権がその他大勢の表現の自由をさまたげるようになっちゃつまらない。でも、それがもっとも特定少数が儲かるシステムだとしたら……どうする? そりゃあ、もう少しまともな実装に組み替えないとね。という辺りが『Free Culture』のスタート地点なんじゃないのかな、と。どうですかね、白田先生

(52)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:19

負担は誰のためか

国立大学の授業料は安い。現在、年間でたった 50 万円ほど(それでも欧米に比べればむちゃくちゃ高いのだが)。私立の平均が 80 万、慶應なら 70 万~ 100 万といったところであろう(医学部は除く)。恐ろしいことに、偏差値と授業料には反比例の傾向がある。これは、文科省も大まかに認めていると言っていい。そしてあまり知られてないが、専門学校の学費は実はもっと高い。年間 150 万円クラスはざらである。

国立大学は、学生から頂戴する年間 50 万円の授業料では成り立たない。足りない分は、当然税金をたっぷり使う。東大や京大は、優秀な学生を集めて国のお金でさらに優秀にし、いい職に付けさせてがっぽり金を稼がせてやることになる。こういう書き方をすると非常に不公平感がつのる。

なぜもともとそれなりに優秀な人間をさらに国民の税金をかけて学ばせるのかと言えば、優秀な国民には、将来国家を支えるため、先頭に立って働いてもらわねばならないからだ。国立大学とは本来、日本国を支えられるだけの優秀な人間を養成するための機関だ。国立大学出の人間に、いい職や給与などといったそれなりの報酬が与えられていた理由はそこにある。たとえば東京帝国大学は 1878 年に法、文、理、医の 4 学部でスタートしたが、これは、西欧の法システムを学び(法学部)、西欧の文献を翻訳し(文学部)、西欧の科学技術を取り込み(理学部)、西欧の医療を導入する(医学部)ため社会に奉仕してくれる人材が、必要とされていたからである。

現在、この構図はほとんど崩れている。国立大学の学生の大半に、将来日本を支えていくのだという自覚はほとんどないし、教員(教官)にもそれほど強い意識はない。さすがに明治の時代とは社会が求める人材も変わっていて、今となっては文学部なんて金食い虫以外の何ものでもありゃしない。それでも、税金は使われる。そういう矛盾を受け、実態はともあれ独立行政法人という形で国立大学を切り離したのは、1 つの手としてアリだとは思う。でもそれは、国立大学に所属する人間に、自分たちが将来背負うはずである、社会で果たすべき責任を放棄させる方向へ向かいかねないのではないだろうか。

国家という社会的単位を健全に維持し発展させていくためには、(知的、経済的に)富める民は、貧しき民に奉仕する義務がある。エリートが偉そうな顔をしてるのは、奉仕の義務があるからだ(現在の官僚全員にこの自覚があるかどうかは疑問だけど)。たとえば、所得税という仕組みはそういう発想で作られているといっていい。しかし、所得税という仕組みに限界が見えてきて、消費税というマタイ効果(富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる状態)を絶大に発揮しかねない制度を中心にすえていかねばならぬ社会へ移行していくのだとしたら、国立大学は何を目指せばいいのだろう。バカをたぶらかして金をかき集め勝ち逃げできる人材の育成だろうか?

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:22
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