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金言娘

本日のお言葉をお告げ下さる金言娘

WebAPIはこんな感じ

  • "apho.php"を引数無しで呼んだ場合は、適当なメッセージの画像をランダムで出します
  • "apho.php?seed=数字"では、数字が同じ場合は常に同一メッセージの画像を出します
  • "apho.php?mode=text"で、テキストモードになり文字だけが出ます。seedのデバグ等に使えます。
(45)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-10-13 21:50:08

まえばり夏場モード

まえばりローレグサマー

サマーまえばりとサマーローレグ。 同人で作った2005年版のosakanaカレンダー画像より。

(62)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-05-22 03:09:22

立場表明

情報通信技術が提供できるもの、それは人間の頭の中にしか存在できなかった論理的な構造を仮想的に具現化したものであると考えられる。

別に小難しいことではない。たとえば、画像ファイルをウェブに載せるということを考えてみようよ。自分の描いた絵を常に世界へ向けて公開しておけるって、ものすごいことじゃないですか。ウェブを作ったティム・リーだって、他人の論文がいつでも読みたかったから、そのためのシステムを作ったというだけだ。この欲望は、なかなかリアルワールドで実現させることは難しい。24時間開いている美術館。いつでも専門書が探せる図書館。しかも自宅から徒歩 0 分。そんなものは物理的には存在できない。仮想だから、実体が伴わないから、実現できた欲望だ。

情報通信技術が、なぜ素人に小難しく見えるのかといえば、それは全てが仮想的で論理的な概念の積み上げによって構成されているからだ。マウスのクリックやキーの入力といった人間の物理的な動作が、どのような「イベント」となるか、それは、OS やアプリケーションが勝手に決めることだ。同じ場所でマウスをクリックしても、それはファイルの選択であるかもしれないし、ハイパーリンクをたどるのかもしれないし、画面上に点を描くのかもしれないし、ウインドウを閉じるのかもしれない。そういった取り決めごとは、PC の操作に慣れてくると何も意識しなくなる。でも我々は、ものすごく多数の、誰かが作った論理的な概念に従い、その操作の約束事に基づいて、行動している。すごく便利でありながら、誰かの設計思想に規制されている。

そう、これがローレンス・レッシグのいう、「アーキテクチャ」というヤツだ。「アーキテクチャ」というのは、ひとたび気づいてしまうと、なんだかあまり気持ちのいい存在ではない。自分の自由行動であるかのように思えていた行動も、実は「何か」によってさり気なく行動の限界が設定されていたことを気づいてしまうからだ。

でも、「アーキテクチャ」をいきなり捨てたり変えたりするのは無茶なんだ。キーボードを捨てられますか? 俺はもう紙に鉛筆と消しゴムで文章を書くなんて想像もしたくない。あまり洗練されてるとも思わないけど、いまさら http を捨てるなんて論外だ。Windowsは捨てようと思えば捨てられるかもしれないが、俺はきっとウインドウマネージャに KDE を選んじまうだろうな。「アーキテクチャ」は強く個人の行動を支配する。

しかし、別の考え方もできる。紙とペンという「アーキテクチャ」に対し、キーボードという提案がなされ、俺はそれを歓迎し受け入れた。キーボードという「アーキテクチャ」は、紙の上では可能だった俺の行動の自由や表現力をそれなりに奪っているけれど、しかしその代わりに色々な機能や利便性を提案してくれているし、またこれを利用して、今まで絶対にできなかったことができるじゃないか。キーボードを使わなきゃ、締切4時間前から1万字近い文章を綺麗な字ででっち上げるなんて不可能だ。

重要なのは、ある「アーキテクチャ」での行動の自由度はどれくらいあって、また、その「アーキテクチャ」をどこまで改変していくことが可能なのか、というところだろう。お仕着せのモノが持つ気持ち悪さを抱えながら、でも己の良心に従って、ちょいとばかしの抵抗をしながら生きていくのが、情報通信技術産業に携わる者の生き様というやつなのではないかなぁ、とか思うのだ。

最近困ったなぁと感じてるのは、この程度のことを口頭で説明しても、なかなか理解してもらえないという事実。何が分かりにくいのかワカラン! と切れたいとこだが、ああなんてこったい、SFC でも、WORD の使い方とか教えるんですかぁ。それじゃ情報技術の分かる管理職の育成とかじゃなくて、ただの消費者じゃないですか。参ったなぁ。どうすれば少しマシになるのか、そんなことを考えている人間は、技術者の中には大勢いるのだけれど、文章としてまとめる気のある人はあまりいないんだ。そして、世にはびこる情報社会論は、文系の学者の視点、つまりは情報技術を利用する人間のものばっかりになる。これがさらに絶望感を煽る。

お仕着せのアーキテクチャが気持ち悪くても、それは技術者ならある程度打破していける。例えば、キーボードの配列が気持ち悪ければ、物理的 or 論理的にマッピング変えちまえばいい。携帯電話のように10キーで全てのアルファベットが入力したいなら、そういうアプリケーションを組んでもいい。そういったことを考えるのも、実際に組むのも、(ヒマがあればだが)楽しい。でも文系の学者には、そういったことはまず理解できない。一方の技術者は、文系の学者と議論して説き伏せるほどの、文章構成力が無い。そして、大半の人間には、何が問題なのかも分からない。というわけで、情報社会に関する「学際的」な議論は、全然かみ合わずに空転するか、枝葉末節に終止しがちなんだ。

がんばろーっと。

(50)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 01:30:17

電車男の決定的なキモさ

電車男』って胡散臭いよね。書籍化の上に映画化ですかーご成功はお祈りしときますー。20台半ばの女性がピンクのスカートにツインテールというありえない格好をしてる不自然さみたいな、語りつくされている疑問点はおいといて、他人が指摘してないと思われるポイントを述べてみよう。今更な話題なのは、今更考えたからだ。そりゃー去年話題になった頃にまとめサイトには目を通したけど、キモかったからスルーしたんだよね。

まず気に入らないのは、オタクがちょっと努力して脱オタクして適宜ブランド物なども消費しつつ普通に恋愛する、という物語の骨子だ。オタク暦=年齢マイナス6年くらいのオタクたる俺としては、こういう展開は許し難い。あのさぁ、オマエラは彼女に縞パンはいて欲しかったりとかしないのか?(縞パンてのはこういうパンツだ、念のため) ああ、今なんかの間違いでここを読んでる人たちが音を立てて引いていったのは分かる。普通の人にはキモかろう。それくらいは分かる。だがそれでも妄想しちゃう業の深さがオタクだろう。こんなオタクの恋愛じゃ一般人には理解されない。だからって、背伸びしてエルメスを出したりあっさりオタク趣味を捨てたり。そういう、初っ端から最後まで、多勢に迎合する主体性のなさが俺には不快だ。

バブル期に大流行した『一杯のかけそば』は、貧乏を乗り越えて出世という幅広い世代に大うけの典型的な立身出世の文脈だった。21世紀の『電車男』は、オタクとヒキコモリを乗り越え“ネット”を捨て“普通”に女とセックス。これが、現在の主体性なきオタクどもの理想なのか? いや、そうじゃないな。これは、「主体性のない若いヒキコモリのオタクどもも“普通”になりがたっているんだ」と信じたい人たちの欲望なんだ。わかってねーな年寄りめ、オタクってのはやりたくてやってんだよ。で、そういうしょうもないのをどうやって一般社会と折り合いをつけていくかってところでオタクは悩んだり諦めたりしてるんだろーが。

話を一般化しよう。つまり、電車男の根底には、「オタクとかネットとかやってるキモいヤツらも、ちょっとがんばれば“普通”の恋愛ができるんだよ」という付和雷同で思考停止な大衆的傲慢さがある。そして、この傲慢さは、一部のウブな2ちゃんねらーや、糞ほどに生産されているオタクコンテンツを口開けて受け止め続けるだけの無為な消費者や、ホームページ=インターネットだと思っている人たちや、オタクとかネットとかが不気味で仕方が無い年寄り世代には、非常に受け入れやすい主張だった。そういうことだ。

切込隊長のブログのコメント欄に、社会へ戻りたがってるオタク達の理想像を描いたものだとヌかしていた馬鹿がいたが、あまりに一面的で掘り下げが足りません。こういうのにばかり好かれる山本センパイはほんとに大変だと思います、素で。

もう1つ、より客観的な電車男についての違和感も書いておこう。

あのまとめサイトがなんであんなに気持ち悪いのかといえば、そこには2ちゃんねるなら当然あるはずの、否定意見や煽りが全く存在しないからだ。全員が電車男を大マンセー。うわぁ、気持ち悪い。ここは隣国(しかも北の方)のサイトか? 煽りなどの否定的な文脈を全部捨ててしまい、自分にとって都合のいい部分だけを抜き出した、大勢が一人の弱者を導きその努力を称える成長物語。「大勢が一人を」ってところがとてつもなく気持ち悪い。2ちゃんねるってのは、自分の意見が如何に普遍的じゃないかを確認できる場所だろう? 自分の意見や経験をあっさり否定する人と簡単にコミュニケートできる。これこそが2ちゃんねるの最大の魅力だろうに。それを完全に消している。

さらに、このマンセーぶりから思いついたことがある。『電車男』って、全部自作自演なんじゃないかという意見はあちこちに見つけることができるが、俺もそう思う、と言ってみよう。だってさ、もしあの本の中身の全部が自作自演(か、まとめサイトの人間とその身内による壮大な釣り)なら、新潮社はまとめサイトの人と契約するだけで、なんらの訴訟リスクもなく、堂々と出版できるじゃない。現状は、「著作権法に違反してはいるけれど、書き込んだ人が訴えてこないので何とかなってます」だと一般には認識されてるけど、それって間違いなんじゃないの? 『電車男』というのは、大多数が書き込んでるようなフリをした新しい小説の表現形態なんじゃないのかな。そう考えれば、新潮社が堂々と出版したのも納得が出来る。現行の著作権法では収まりきらない新しい創作の事例として、著作権法のあり方を批判してきた俺たちとしては、事例として使えなくなってしまうけどな。あーあ。

トップ主導のくせにボトムアップであるかのように装って、メディア展開してコンテンツを売る世界って、俺としてはものすごく願い下げ。まして頭の中にあるのが金儲けのことだけときちゃ。あーあ。考えることや調べることをサボるとロクなことはない。というわけで当時ちゃんとしたリサーチと洞察をサボったことは、とても後悔している。

(74)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-10-30 18:04:09

サイコ観劇

機会に恵まれたので、『多重人格探偵サイコ/新劇 雨宮和彦の消滅』を鑑賞。とてもメタメタした(メタレベルな)脚本。

ここのところ大塚は一貫して「物語る」という行為の意味を問うてきているが、それを「劇」という形へ昇華したのが本作と言えるだろうか。そもそも『サイコ』というマンガ作品が、口コミでのPRを意識した広報戦略をとってきた作品だったということを大塚は以前話していたが、物語が誰かの口の端に乗るという行為を問い直し、物語をつむぐという自らの作家としての立ち位置を、新劇という異なるメディアを通すことで問い直した作品であったようだ。

本劇の脚本の後書きで大塚は、ものすごい勢いで大衆へ流布していくオタク作品の性質を、過剰なまでの翻訳の容易さ、というように表現している。大衆消費芸術は時として、企業や国家による強力な広報活動を伴わなくとも、広く一般へ流布することがある。ただその条件は誰にも分からない。この新劇は、その不思議な境界線と長く戦い続けてきた大塚のひとつの解だろう。宮崎 勤事件など、彼のライフワークに絡むギャグもちょいといと挿入されていた。大塚英志の作品は多分、こういう屁理屈の塊のような脚本の方が面白い。のかも。新宿の紀伊国屋サザンシアターで、4月4日まで。

(42)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 22:22:31

作り手は諦めない

この前大手ゲーム会社のN社の方とお話しする機会があった。俺は、ゲームっていうメディアがものすごい勢いでパチンコ化して、「どうやってバカを誑かしていかに金を巻き上げるかモード」になっていることを危惧していたりした。でも、それは杞憂だった。少なくともクリエイタたちは違った。俺は悪いプロデューサの形を見過ぎたのです。ごめんなさい。

ゲーム業界のクリエイタたちは、自分の表現というものを全然諦めてなかった。彼らにとっては、面白い何かを作り上げることが第一義であるようで、それはつまり、自分たちが面白い・楽しいと感じられた経験を抽象化・一般化して周りの人に伝達する方法を真剣に探した結果、ゲームというメディアを使っているに過ぎない、ということのようだった。熱かった。情熱があった。面白いものを作ってやろうという空気に満ち満ちていた。これは、最高の創造の空間ではないだろうか。仕事上で妥協させられることはあるにしろ、創造的な人々が作り出している熱気のようなものの漂う空間が維持されているということは、とてもすごいことだ。

クリエイタの創造への熱情を盛り上げ、なおかつ現実的な金銭の問題とを調整する役目がプロデューサには課せられていて、N社のプロデューサは皆、何よりもそれに重点を置かれていた。どこかで、プロデューサの仕事は、金、金、金で 3K だなどという冗談を聞いたことがあるが、そんなのはニヒリズムに酔っているだけの戯言のようである。つまり、何が言いたいかというと、とある独立行政法人の中の偉い人は、こういう意味でのコンテンツプロデューサの役目をどの程度理解されておられたのかと。

こっそり内部告発しよう。残念ながら、本郷三丁目にある組織のコンテンツ創造科学産学連携プログラムにおいて、そういった「場を作る能力」について問われることは、まずない。なぜなら、そんな能力を持った人間が教える側で常駐してはいないからだ。だからそういう能力の評価もできない。そもそも、そこまでの理解にたどり着いてる人がどれくらいいるやら。あのプログラムを存続させるには、誰か突発的な能力を持った受講生が出世して宣伝する以外にないのかしらねぇ。

(46)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2009-05-07 13:54:21

インフルエンザ日記

一昨日辺りから、ナウなヤングに大人気の今年のインフルエンザが発症しやがりまして、高熱を出しております。と久しぶりに普通の日記のようなことを書いてみる。さすがにisedは欠席するぜ畜生。毎年インフルエンザ拾ってるんだけど、どっかインフルエンザ皆勤賞とかくれないかしら。多分俺の血に抗体いっぱいあるよ。

発熱は体の防衛作用なので無理に解熱するなという主張をされる方が多くいらっしゃるが、そういった方は38度、39度を超えるような高熱の辛さを本当にご存じなのかと小一時間問い詰めたい。大体、成人男性には不能のリスクが付きまとうんだぞ。多少治癒までの時間が長引いても、耐え難い高熱は下げるべきではなかろうか。で、摂取の間隔を最低6時間以上あけるべきと思われる解熱剤を、効果が薄れてきたと感じたので、素人判断して勝手に 4 時間半くらいのインターバルで飲んだ。これが大失敗だった。

1時間くらい経って薬が効いてきた頃、急に寒気に襲われた。寒い。桁外れに寒い。体の芯がザラついたつららになったかのように寒い。小学生の頃、6月の曇天だというのに学校のプールへ飛び込んだ時も寒かったけど、ああいう外的なのとはちょっと違って、体の内部から来る感じだ。暖房の効いた部屋で布団に入っていて、さっきまで暖かかったにも関わらず、猛烈な寒気だ。

おそらく、解熱剤が効きすぎたのであろうと思われる。市販薬は、一ビン全部飲んでも死なないような分量で売られているという話を聞いたことがある。それくらい市販薬の効果は抑えられているし、フールプルーフも万全だ、と。本当かどうかは知らないが、納得はできる。しかし、そんな噂なんざ吹き飛ばすほど市販薬効きまくり。もし一ビン丸ごと飲んだりしたら、文字通り「死なない」だけで、地獄の苦しみが味わえそうだ。

ぬるま湯を飲んで薬の代謝を急がせながら厚着して震えていたところ、15分くらいで寒気は落ち着いてきたが、時間の経つのってこんなに遅いものか、俺の目を盗んで小人さんがこっそり時計の針戻してんじゃないかとか電波出せるくらいには辛かった。メンヘルの方はよくオーバードーズなんかできるもんだなぁと感心した次第です。さて、そろそろ薬が切れる頃なのでまた……。

(46)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:06

檻に入る幸せ

高校生くらいの頃、なぜ成年向けコンテンツのレーティング(分別)やゾーニング(販売などの制限)があるのか、全く分からなかった。10代後半は、人生でもっとも性欲が強い時期だと思う。多分、肉体的にはもっとも生殖に適している年代だからだろう。10代で子どもを作らないのは、動物としての側面のみで考えれば、致命的な間違いだ。なぜその性欲がもっとも強い10代からセックスを取り上げ、はけ口となりうる性的なコンテンツまでも取り上げるのか。本当に分からなかった。表現の自由を歌うなら、性表現を完全解放しろよ! 高校生当時の俺はこんなことを本当に考えていたんだよ、へっへっへ、エロかろう。まあ早い話が、俺は20代半ばにして高校生と間違われて身分証を求められたことがあったくらいで、ぶっちゃけエロマンガを買ったりするのにそれなりの困難が伴ったのであるよ。

若年でのセックスを批判する人達の典型的な論理として、10代ではセックスの責任を取れないというのがある。でも、その責任を取るための社会制度を失ってしまったのは、別にやりたい盛りの10代の責任ではない。「ガキのうちに教育を叩き込んで大人になってからは労働させる社会と、それを支える家族」という枠組みが定着したのは近代以後の話で、それまでの200万年間くらいは、人間は10代でセックスして子どもを作っていたわけだし、今のような家族という枠組みも不明瞭だったのだ。赤松啓介の奇書なんぞを色々読むに、昭和30年代くらいまでは多少なりともそういった性環境を許容する土地も日本にあったようである。だから、現在の性制度はかなりいびつなものなのだ。

でもね、もし俺が今ゾーニングやレーティングについての是非を問われれば、多分俺は賛成するよ。だってさ、俺描きたいもの。ほんわかした絵も、パンチラも、少女が強姦されてる絵も、俺は分けへだてなく描きたいんだよね。それと同時に、読みたいの。他人が描いたの見たいの。そういう俺たち変態の趣味嗜好を、理解できない有象無象の人達から守るための手段としては、ゾーニングやレーティングといった理論武装を使うしかないと思う。俺たちは檻の中に入りますから、勝手にやらせて下さい。それ以外の論理で、どうやって社会の大多数と戦える? 至るところにエロ画像あるのは困るのだ。

これは、社会倫理という点からだけで言うのではない。白田秀彰先生は猥褻表現規制の理由を、倫理などではなく、猥褻表現の放置が情報流通の帯域を食いつぶすという点に求めている。実に怜悧な指摘である。「あまりにも人々の興味を強くかきたてすぎる」ため、放置してしまうと情報伝達のリソースを食い過ぎるという。エロサイトやスパムメールなどの例を考えれば、理解は容易であろう。

といった辺りを根拠に、俺は、創作者の表現活動を活発にするための、自主規制を誘発しないような形でのゾーニングやレーティングについては、賛成しちゃうだろう。何を描いても安全な世界がやってくるとしたら。修正も要らない世界がやってくるとしたら。たとえそこが檻の中であったとしても、俺は飛び込むと思うね。その先に待っているのは、ハックスリーの『すばらしき新世界』で描かれるような、動物的な快楽をアホ面下げて享受するだけの腐ったユートピアなのかもしれないけどね。

すまんな、10代のときの俺。そいから今10代で、鬱々とした性欲を抱えているような若人。でもね、現代のように18歳まで性的な表現に一切触れさせないくせに、20歳過ぎの童貞をあざ笑う日本がいびつなのは間違いないから、上手くかいくぐって強く生きてくれ。そういうたくましさが、ハックスリー的な安定を打ち破る鍵なんだと思う。そこら辺に期待。

(50)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:07

2005年あけましておめでとうございます

2005年あけましておめでとうございます

そろそろ旧暦で2005年あけましておめでとうございます。

(47)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-05-22 03:09:22

ゲームはパチンコ化しちゃったわけだが

身近なヤバいネタ書こう。コンテンツ創造科学なんていうのがあるんだ、東京本郷辺りの某偉そうな国立の組織に。そこにいる人や、やってくる人を見て色々考えるわけだよ、所属する身として。しみじみ、将来の日本のコンテンツ産業のほとんどはパチンコ化するのだろうな、とね。半ば絶望的な確信を深めていく今日この頃だ。

俺はパチンコをやったことがないので印象論になることをあらかじめ詫びておくが、画期的なパチンコ台から新しい表現が生まれメディアが開拓されたというような話は、寡聞にして知らない。初めてパチンコが発明された時から基本的には変わっていないだろう。パチンコは、決して表現としての場などではなく、いかにユーザから金を巻き上げるかという技術のみを徹底的に追求してきた娯楽であるように思われる。そして、どのゲーム会社のプロデューサの話を聞いても、今後のゲームが目指す世界はパチンコと全く同じ世界のようである。どうやって射幸心を煽るか。いかに効率よくユーザから金を吸い取るか。さらには、いかにユーザに社会と適当な折り合いをつけ「させ」るかまで考えている。もう、手取り足取り面倒みてやるからさっさと金を出せ、てな状態ですな。

プロデューサはそれでいいのだという反論もあるだろう。人々を満足させるコンテンツが創られるためには、強い創造欲と、それを維持し続けるための環境、つまりは飯が食えるだけの金が必要だ。プロデューサは金を考えてればいいんだという意見は、まあ成り立つかもしれない。短期的にはすごく正しい。

でも、10年先、20年先という期間を考えた場合、そんな縮小再生産を繰り返すようになってしまった世界で、作り手側の強い創造へのモチベーションを維持することは可能だろうか。新しい作品もメディアも生まれることのない閉じた世界で、作り手の創造欲を飼い殺すような表現の場というのは、本当に日本のコンテンツ産業にとって長期的にプラスとなりえるのだろうか。意欲ある若い世代は、そんな閉鎖的な環境に未来を見い出さないだろう。ゲームというメディアが輝いていた時代を知っている世代として、そういう世界はあまり望ましくないと俺は思う。

もっと一歩引いた視点で、10年、20年先までを俯瞰している人達は、日本に大勢いるはずだ。上記のような構造くらい、切込隊長や山形浩生はよーく分かってるし、白田秀彰先生だって分かってる。だからさ、いい加減分かれよ。愚民を誑かしながら金を吸い上げることばかり夢見てたら、足元すくわれるぞ。そんなんでどうやって「コンテンツ立国」するんだ。

閉鎖的な状況を打破するには2つの選択肢があると思う。1つは、俯瞰して長期的な方策を考えること。白田先生たちが取り組んでいるのはこっちだ。もう1つは、今までの構造をぶち壊す斬新な技術や表現を開発すること。Winnyがやってしまったのはこれだ。新しいものが反社会的に見えるのは仕方が無い。だが、新しいものに何一つ注力せずアガリだけを欲しがる連中は唾棄すべき寄生虫であろう。反社会的で斬新な何かと社会との折り合いをつけるという調停の部分で暗躍することこそ、あの本郷や駒場の組織の文系の人間がもっとも得意とするところではなかったのか。だから文系はダメなんだ、と皆に揶揄されるのが悔しければ発奮しやがれ。

(50)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 01:32:46
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