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のまネコ問題で考える二次創作の創造性

先日、2ちゃんねらーの立場から「のまネコ」問題について経済産業省でプレゼンするという暴挙をやった。というわけで、そん時のプレゼンを、他のサイトで散々取り上げられているようなことはばっさり省いて、文章にまとめてみた(もちろんこんな口語体バリバリでプレゼンやっちゃおらんぜよ)。まずは、のまネコ問題に至るまでの経過から振り返ってみよう。

Dragostea Din Tei ジャケット画像 ( This image is copyrighted. )2003年、モルドバ出身のO-Zoneは、シングル『Dragostea Din Tei』をリリースした。しかし、まず欧州各国でヒットしたのはこの曲ではなく、Haiducii版PVより ( This image is copyrighted. )Haiducii という女性シンガーを用いた無許諾カバー版であった。無許諾のカバー版がイタリアで大ヒットしたことをきっかけにして、O-Zoneのオリジナル版も知られるところとなり、フランスやドイツで、オリジナル版、カバー版共にヒットを記録する。O-Zone と Haiducii 双方は、お互いをパクリだと非難しあったが、O-Zone のリリースの方が早いためオリジナルは彼らであろうと思われる。

ちんこ踏みパロディPVより ( This image is copyrighted. )その後、男性器丸出しの下ネタパロディPVや、踊り狂うイカれた外人など、この楽曲を用いた怪しい動画がインターネット上に多数出回った。もちろんこういった作品を作った彼らは、O-Zoneの楽曲の使用許諾など取ってはいない。しかし、こうして欧州で発生した無許諾の二次創作を2chやブログが面白がって取り上げたことが、日本上陸のきっかけとなった。何しろ、ちんこ丸出しパロディPVが、オフィシャルなものだと誤解されていたくらいである。わた氏がこういった作品に影響を受けたのは間違いない。

わた氏作のFlashより ( This image is copyrighted. )2004年10月頃、わた氏のFlashが大ブレイクする。モナーやモララー、おにぎりなどのAAキャラが多数出演するこのFlash動画は、オリジナルの歌詞に強引に日本語をあてはめてストーリーを作り上げた空耳歌詞で、もちろんこの楽曲の使用許諾は取っていない。こういう作品は「黒フラ」と呼ばれる。しかし、この著作権的に黒に近いグレーな動画作品によって、O-Zoneの曲は2chで広く話題になる。

踊り狂う Gary Brolsma 氏 ( This image is copyrighted. )一方アメリカでも、この曲に合わせて踊っている自らの動画を公開した“numanuma dance”で大ブレイクした。もちろんこれも勝手にやっているわけである。踊っているGary Brolsma氏はさまざまなメディアから取材を受け、アニメ版のパロディFlashが作られるほどの大人気人物となってしまった。

2005年、O-Zoneの楽曲の日本での販売を考えていたAVEX社は、わた氏のこの動画作品がプロモーションに使えると考え、CDへの収録を打診した。そして収録の際に、「モナー」や「モララー」の口を描き変えたり、「おにぎり」たちを白いネコに置き換えたりといった、微妙な修正がなされた。

このわずかな修正をもってして、「モナー」ではなく「のまネコ」の作品であるとオリジナリティを主張し、AVEX社及びその関連会社が著作権者表示を行ったり、商標出願を行うなどしたことが2chで大問題となったわけだ。しかし、楽曲自体は「のまネコ」を用いたプロモーションのお陰か、70万枚以上を売り上げる大ヒットとなった。

以上をまとめると、のまネコ問題を考える上での面白いポイントは、大体こんな感じになる。

  1. 著作権法上は違法っぽいカバー作品が、イタリアを皮切りとする欧州ヒットのきっかけだった
  2. 著作権法上は違法っぽい海外の二次創作作品の流入によって、楽曲が日本へ紹介された
  3. 著作権者に無許諾の音楽と、著作権を主張できそうにないキャラクターを用いた動画が日本でのヒットのきっかけだった
  4. 無許諾で音楽を使用していた作品を、著作権ビジネスをやっている音楽会社ですら面白がった
  5. AVEXのDQNぶりはとても一部上場企業とは思えない
  6. ひろゆきのガキっぽい嫌がらせ最高

すなわち、既存の著作権法を厳密に適応するとしたら叩き潰すしかない範囲での創作活動が、十分に人を惹きつける作品になり得るということを、図らずもこの事件は証明してしまったのである。著作権の厳密な適用は、創造的な作品が生まれそれを周知していく過程において、必ずしも有用ではない可能性が高いわけだ。そして、著作権法上の権利を侵害されたからといって、必ずしも作品が売れなくなるわけでもない、ということも示している。

でも、こののまネコ問題が長引くことによって、2ch住人などで行われている著作権的にグレーな二次創作を、企業側が嫌がってしまう可能性は、残念ながら高まったと思う。どんなに良い二次創作活動を発表しても、企業側がその作家達を商業レベルに引き上げるといったことを、やらなくなるかもしれない。なぜなら企業は、二次創作物やそれに関連する人間を商業ラインに乗せたことによって2chに叩かれる可能性を危惧するからだ。企業側には、何が2chに叩かれるものであるかを認識できるだけの、リテラシーが全くないんだ。

松浦氏のmixi撤退時の文章を拝読するに、今回の事件でのAVEX側の認識は恐らく、「俺様達がオマエラの便所の落書きの中から面白いもん見つけて広めてやったのに、一体何で怒ってんの?」である。AVEX側の対応が遅れた理由は、当初2ch側の主張を全く理解出来なかったからだと思う。それほどに、2ch側の倫理と、商業中心に考えている人たちのそれとは、すれ違っている。となると今後企業側は「めんどくせぇなー、ウゼェから黒フラとか二次創作してるやつらなんか潰してしまえ」となるかもしれない。俺はそれが怖い。

また、現在のところキャラクターに著作権はないにも関わらず、この問題を論じるほとんどの人間がキャラクターの著作権を前提に話を進めているというのも、俺の気になったところだ。キャラクターというのは「アイディア」であり、創作的に表現した作品ではないため、厳密には現行の著作権法で保護される対象ではない。しかし多くの人間が、キャラクターの著作権を前提に議論を進めていることは、のまネコ問題を取り扱うサイトや2chなどを見れば分かる。でもね、下手にキャラクターに著作権を認めてしまうのは危険だぞ? ちょっとでも似てたらぶっ潰せるのだからね。その辺の危険性まではあまり踏み込まず声高に著作権を騒ぐのは、ちょっと避けといた方がいいと思う。そもそも、著作権法が厳密に適用されてしまう世界だったら、この曲は恐らくヒットしなかったのだからね。

だからまあ、AVEXについては、法律がどうのこうのというより、創造性への意識や企業倫理がかなりズレていたという点で、批判すべきだと考えるわけだ。確かに、ちんこPV作った人やわた氏は無許諾で楽曲を使ったけど、法的にはほぼ真っ黒だと知ってたし、面白いモノを見て欲しい一心だったから、「人のものは俺のもの」精神はなかった。一方AVEXは、モナーを「インスパイヤ」しちゃったけど、違法とも言えなそうなのでジャイアニズム発揮しちゃった。今叩かれているのはこのジャイアニズム精神なわけです。

こういう話を聞いて納得してくれる霞ヶ関のエラい人も、いるようですよ。

蛇足:「みなさかなー」には、一瞬自分の名前呼ばれたのかとびっくりしますた。

※ 本記事はCCライセンスで公開されていますが、引用されている画像の著作権はそれぞれの著作権者に帰属し、CCは適用されません。ご注意ください。

(63)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-10-05 22:38:30

夏のセーラー

夏場はノースリーブセーラー服

同人作品集『ns for real』に収録したカットを組み合わせて、下半身とか描き足して背景をつけたリミックス作品。

この服は、K-STADIUM というレースチームのレースクイーンが着ているらしいノースリーブセーラー服。エロいなぁ。ワキ見せるための服だよね。デザインした人は多分俺と同じ趣味だ。お子様用のロリサイズはないと思うけど。

手前の女の子はえむ子たん。

(48)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-05-22 03:09:22

春の通学

女子高生とタチコマタンク付きヴェスパ,ニーソ

2005年春の扉絵。ヴェスパで通学する女子高生。多分そんな女の子はいないだろうけどなぁ。背後の黒猫様の影が薄い気がします。この絵のノースリーブセーラー服版は『ns for real』に収録。

(45)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2011-02-21 21:22:52

ボールはトモダチ!

ボールはトモダチ!

1年前に公開した縞パン猫耳のトップ絵。体のパースとか間違ってたので色々修正。猫耳少女がボールを蹴りながら通学したりしてたら……じゃれ続けて学校には着かない。

以前 OS たん関係か制服系の板を巡回していたら、この絵をいじくってMeたんにしてうpた人がいたのはビックリしたなぁ。他人にいじくられるのも面白いと思いますた。Meたんの服がノースリーブセーラー限定でいいなら俺も描くが。

(57)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-05-22 03:09:22

魔法兎

魔法兎

2002年というものすごく古い縞パンウサギ耳のトップ絵を少し描き換え。当時は普通のエロゲ塗りを心がけていた気がする。

記憶をたぐってみるに、あまりウサギ耳に見えないウサギ耳娘が握っている謎コネクタ付きのケーブルは、多分 3COM の LAN ケーブルがモデルだと思う。わりと PS/2 に見えるが。背後の生物も、2002年当時はギコ顔だったのだが、この顔に描き換えたところ、ものすごく怖いともっぱらの評判です。

(47)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-05-22 03:09:22

アートとコンテンツの違い

アートって何だろう。村上 隆がオタク作品をアートだと主張する時の違和感は何だろう。半年くらい前に俺の絵をイギリス人のインテリに見せたら、「アートだ!」とか騒いでくれたが、それは大きな勘違いというものだ。アート(芸術作品)とコンテンツ(商業作品)とは何が違うんだろう。

アート作品とは、複製が困難でこの世にその1点きりしか存在しない作品のことを指す。この世に1つしか存在しないのだから、その作品を市場で取引する場合は、大変な高値で行われることになる。一方、コンテンツは、そもそも全く同一の作品が多数存在しえるよう、複製が容易な表現形態でのみ、製作が行われる。その作品の完全に同一なコピーが多数存在するのだから、当然市場では安価に取引される。アートとコンテンツの本来的な違いは、この1点のみだ。

オタクコンテンツが時々アートだと叫ばれてしまう理由は簡単で、それはアート作品に芸術家が挑む時と同様、オタクコンテンツの作家も命を削って作品を作っているからである。しかしながら、どんなに命を削ろうが、その作品はコピーされることが前提なので、決して高価にはなりようがないのだ(命の削りっぷりや作品の輝きっぷりを評価する概念として、ベンヤミンの「アウラ」という言葉があったりするが、一部の文系の人にしか通じない狭くて誰も読まない話になるし俺もよく知らないので止めておきたい)

とはいっても、オタクコンテンツを高価なアート作品にしてしまう方法は簡単である。複製しなけりゃいいのだ。「これはアートなので1点モノです、複製しません!」と宣言すればいい。村上 隆もそうやっている。しかし、コピーできる媒体の作品(印刷とかフィギュアとか)でそんなことを叫んでも、そりゃあ違和感があるだろう。同じようなことをやっているのが、“エウリアン”と揶揄される、天野喜孝の水彩画やラッセンのシルクスクリーンのコピーを押し売りする版画販売業者だ。

一方、アート作品をコンテンツにしてしまう方法も、まあ簡単である。コンテンツと同じように、複製が容易な媒体に向けて作品を作ればいいのだ。例えば写真とかNTSCで再現できる映像作品とかさ。それでどうなるかというと、作品がさっぱり売れないだけだ。かくして、「芸術なんてゴミ」だとかいわれてしまう。

だって、芸術というのは、すげぇニッチな層へ向けるものだ。そもそも1点しか作らないものなのだから、受け手が大勢いたら困るんです。なので、極々少数の受け手へ向けた文法で作品を作るわけだ。そんな作品を、多くの人に楽しんでもらえる文法で作られたコンテンツと同じ媒体に乗せたって、そりゃぁ勝負にはならんわけですよ。写真などの複製できるメディアで芸術だといわれる作品が存在し得るのは、デジタル技術が普及する以前の時代には、写真の複製に物理的な手間がかかり、なおかつ美術館での展示や高級な書籍として媒介させる以外販路がなかったからだ。

さて、ここで視点を変えて、情報通信技術がアートやコンテンツに与えた影響を考えてみよう。

まずコンテンツについて。情報通信技術の発展によって、情報の共有、すなわち情報のコピーは行いやすくなった。だから、コンテンツの流通コストは下がる。コンテンツの製作も容易になった。ということは、流通するコンテンツの総量は増えるわけで、経済の基本原理に従った結果どうなるかといえば、人々がコンテンツを今以上に消費していくか、あるいはコンテンツの創り手の淘汰が行われない限り、コンテンツ1つあたりの値段はグッと下がるということを意味する。日本のオタク市場はほぼ飽和している。となればコンテンツの世界でいわゆる「勝ち組」になるには、外人とかに売りつけながら、創り手同士の生存競争に勝つくらいしかない。でも、逆に考えれば、創作や発表のコストが下がって低リスクになるのだから、細く長くゆっくり自分の主義主張の下で活動することも、可能になったという見方も出来る。どっちを選ぶかはその人次第やね。

一方、アートの方だが、先ほど述べたように、芸術作品は皆に広める必要など全くないのだ。啓蒙主義的な作品だって、どうせエリートにしか届かない。本当の大衆はアートなど必要とはしない。芸術の本質は、唯一性だ。だから、本来的には、情報通信技術はアートに何の影響も与えないはずだ。でも、写真や映画など、複製できるメディアのアートが持っていた「芸術性」などといわれる芸術の文脈は、よりいっそう奪われていって、コンテンツと同じ土俵でアートが勝つチャンスは、決定的にゼロになるだろう。芸術性とやらを発揮したければ、複製できるメディアでコピーできないふりをするか、そもそも複製できないメディアを使うか、しかないんだ。

繰り返しになるが、普通の人が芸術を理解しない理由は簡単だ。そもそも創り手に相手にされてないからだ。芸術というものは、創造性に理解があり、作家の背景を想像し解釈し講釈できる人たち、そしてその解釈を理解できる人たち、すなわち教養あるエリートの間だけに共有される。一方コンテンツは、一人でも多くの人が理解できるように、作られる。ハリウッドの映画からふたばの二次裏に貼られる絵まで、全てがそうだ。商業用途に用いられない個人的な作品であっても、多くの人への訴求力を持つよう商業的にくみ上げられた作品の影響下で作られている。だから、分かりやすくキャッチーに作るという文法から逃れることはできない。

で、コンテンツ畑の俺が今なんとなく考えてるのは、コンテンツについての文法、言い換えると、コンテンツの技術的なクライテリアをもっと共有したいなーって辺りだ。評論という形でのコンテンツの文脈付けは既にかなり行われているけれど、技術を知らないために頓珍漢なのも少なくない。特に商業音楽は酷いと思う。芸術の技術的なクライテリアはそれについて教えてくれる学校もちゃんと存在するのに、コンテンツについての技術的なクライテリアは、映画や写真などの古いメディアの以外全然固まってない。まあ、すぐ廃れてしまうのでまとめるのが難しいというのはあるかもしれないが、夏目房之介とか竹熊健太郎より新しい世代で、萌え絵とかをまとめていかないといかんのかなあ、と思わなくもない昨今である。とかいってるが、実はこれ書いているうちに思いついただけだ。

(52)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 01:29:06

キャンギャルノースリセーラー服 with ヴェスパ様

キャンギャルノースリセーラー服 with ヴェスパ様

某レースクイーンのノースリセーラー服 + ヴェスパ様 + 黒猫様 on タチコマタンク

そしてこの携帯電話は東芝だ!tu-kaだ!

(45)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-05-22 03:09:22

金言娘

本日のお言葉をお告げ下さる金言娘

WebAPIはこんな感じ

  • "apho.php"を引数無しで呼んだ場合は、適当なメッセージの画像をランダムで出します
  • "apho.php?seed=数字"では、数字が同じ場合は常に同一メッセージの画像を出します
  • "apho.php?mode=text"で、テキストモードになり文字だけが出ます。seedのデバグ等に使えます。
(48)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-10-13 21:50:08

まえばり夏場モード

まえばりローレグサマー

サマーまえばりとサマーローレグ。 同人で作った2005年版のosakanaカレンダー画像より。

(64)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-05-22 03:09:22

立場表明

情報通信技術が提供できるもの、それは人間の頭の中にしか存在できなかった論理的な構造を仮想的に具現化したものであると考えられる。

別に小難しいことではない。たとえば、画像ファイルをウェブに載せるということを考えてみようよ。自分の描いた絵を常に世界へ向けて公開しておけるって、ものすごいことじゃないですか。ウェブを作ったティム・リーだって、他人の論文がいつでも読みたかったから、そのためのシステムを作ったというだけだ。この欲望は、なかなかリアルワールドで実現させることは難しい。24時間開いている美術館。いつでも専門書が探せる図書館。しかも自宅から徒歩 0 分。そんなものは物理的には存在できない。仮想だから、実体が伴わないから、実現できた欲望だ。

情報通信技術が、なぜ素人に小難しく見えるのかといえば、それは全てが仮想的で論理的な概念の積み上げによって構成されているからだ。マウスのクリックやキーの入力といった人間の物理的な動作が、どのような「イベント」となるか、それは、OS やアプリケーションが勝手に決めることだ。同じ場所でマウスをクリックしても、それはファイルの選択であるかもしれないし、ハイパーリンクをたどるのかもしれないし、画面上に点を描くのかもしれないし、ウインドウを閉じるのかもしれない。そういった取り決めごとは、PC の操作に慣れてくると何も意識しなくなる。でも我々は、ものすごく多数の、誰かが作った論理的な概念に従い、その操作の約束事に基づいて、行動している。すごく便利でありながら、誰かの設計思想に規制されている。

そう、これがローレンス・レッシグのいう、「アーキテクチャ」というヤツだ。「アーキテクチャ」というのは、ひとたび気づいてしまうと、なんだかあまり気持ちのいい存在ではない。自分の自由行動であるかのように思えていた行動も、実は「何か」によってさり気なく行動の限界が設定されていたことを気づいてしまうからだ。

でも、「アーキテクチャ」をいきなり捨てたり変えたりするのは無茶なんだ。キーボードを捨てられますか? 俺はもう紙に鉛筆と消しゴムで文章を書くなんて想像もしたくない。あまり洗練されてるとも思わないけど、いまさら http を捨てるなんて論外だ。Windowsは捨てようと思えば捨てられるかもしれないが、俺はきっとウインドウマネージャに KDE を選んじまうだろうな。「アーキテクチャ」は強く個人の行動を支配する。

しかし、別の考え方もできる。紙とペンという「アーキテクチャ」に対し、キーボードという提案がなされ、俺はそれを歓迎し受け入れた。キーボードという「アーキテクチャ」は、紙の上では可能だった俺の行動の自由や表現力をそれなりに奪っているけれど、しかしその代わりに色々な機能や利便性を提案してくれているし、またこれを利用して、今まで絶対にできなかったことができるじゃないか。キーボードを使わなきゃ、締切4時間前から1万字近い文章を綺麗な字ででっち上げるなんて不可能だ。

重要なのは、ある「アーキテクチャ」での行動の自由度はどれくらいあって、また、その「アーキテクチャ」をどこまで改変していくことが可能なのか、というところだろう。お仕着せのモノが持つ気持ち悪さを抱えながら、でも己の良心に従って、ちょいとばかしの抵抗をしながら生きていくのが、情報通信技術産業に携わる者の生き様というやつなのではないかなぁ、とか思うのだ。

最近困ったなぁと感じてるのは、この程度のことを口頭で説明しても、なかなか理解してもらえないという事実。何が分かりにくいのかワカラン! と切れたいとこだが、ああなんてこったい、SFC でも、WORD の使い方とか教えるんですかぁ。それじゃ情報技術の分かる管理職の育成とかじゃなくて、ただの消費者じゃないですか。参ったなぁ。どうすれば少しマシになるのか、そんなことを考えている人間は、技術者の中には大勢いるのだけれど、文章としてまとめる気のある人はあまりいないんだ。そして、世にはびこる情報社会論は、文系の学者の視点、つまりは情報技術を利用する人間のものばっかりになる。これがさらに絶望感を煽る。

お仕着せのアーキテクチャが気持ち悪くても、それは技術者ならある程度打破していける。例えば、キーボードの配列が気持ち悪ければ、物理的 or 論理的にマッピング変えちまえばいい。携帯電話のように10キーで全てのアルファベットが入力したいなら、そういうアプリケーションを組んでもいい。そういったことを考えるのも、実際に組むのも、(ヒマがあればだが)楽しい。でも文系の学者には、そういったことはまず理解できない。一方の技術者は、文系の学者と議論して説き伏せるほどの、文章構成力が無い。そして、大半の人間には、何が問題なのかも分からない。というわけで、情報社会に関する「学際的」な議論は、全然かみ合わずに空転するか、枝葉末節に終止しがちなんだ。

がんばろーっと。

(52)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 01:30:17
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