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電車男の決定的なキモさ

電車男』って胡散臭いよね。書籍化の上に映画化ですかーご成功はお祈りしときますー。20台半ばの女性がピンクのスカートにツインテールというありえない格好をしてる不自然さみたいな、語りつくされている疑問点はおいといて、他人が指摘してないと思われるポイントを述べてみよう。今更な話題なのは、今更考えたからだ。そりゃー去年話題になった頃にまとめサイトには目を通したけど、キモかったからスルーしたんだよね。

まず気に入らないのは、オタクがちょっと努力して脱オタクして適宜ブランド物なども消費しつつ普通に恋愛する、という物語の骨子だ。オタク暦=年齢マイナス6年くらいのオタクたる俺としては、こういう展開は許し難い。あのさぁ、オマエラは彼女に縞パンはいて欲しかったりとかしないのか?(縞パンてのはこういうパンツだ、念のため) ああ、今なんかの間違いでここを読んでる人たちが音を立てて引いていったのは分かる。普通の人にはキモかろう。それくらいは分かる。だがそれでも妄想しちゃう業の深さがオタクだろう。こんなオタクの恋愛じゃ一般人には理解されない。だからって、背伸びしてエルメスを出したりあっさりオタク趣味を捨てたり。そういう、初っ端から最後まで、多勢に迎合する主体性のなさが俺には不快だ。

バブル期に大流行した『一杯のかけそば』は、貧乏を乗り越えて出世という幅広い世代に大うけの典型的な立身出世の文脈だった。21世紀の『電車男』は、オタクとヒキコモリを乗り越え“ネット”を捨て“普通”に女とセックス。これが、現在の主体性なきオタクどもの理想なのか? いや、そうじゃないな。これは、「主体性のない若いヒキコモリのオタクどもも“普通”になりがたっているんだ」と信じたい人たちの欲望なんだ。わかってねーな年寄りめ、オタクってのはやりたくてやってんだよ。で、そういうしょうもないのをどうやって一般社会と折り合いをつけていくかってところでオタクは悩んだり諦めたりしてるんだろーが。

話を一般化しよう。つまり、電車男の根底には、「オタクとかネットとかやってるキモいヤツらも、ちょっとがんばれば“普通”の恋愛ができるんだよ」という付和雷同で思考停止な大衆的傲慢さがある。そして、この傲慢さは、一部のウブな2ちゃんねらーや、糞ほどに生産されているオタクコンテンツを口開けて受け止め続けるだけの無為な消費者や、ホームページ=インターネットだと思っている人たちや、オタクとかネットとかが不気味で仕方が無い年寄り世代には、非常に受け入れやすい主張だった。そういうことだ。

切込隊長のブログのコメント欄に、社会へ戻りたがってるオタク達の理想像を描いたものだとヌかしていた馬鹿がいたが、あまりに一面的で掘り下げが足りません。こういうのにばかり好かれる山本センパイはほんとに大変だと思います、素で。

もう1つ、より客観的な電車男についての違和感も書いておこう。

あのまとめサイトがなんであんなに気持ち悪いのかといえば、そこには2ちゃんねるなら当然あるはずの、否定意見や煽りが全く存在しないからだ。全員が電車男を大マンセー。うわぁ、気持ち悪い。ここは隣国(しかも北の方)のサイトか? 煽りなどの否定的な文脈を全部捨ててしまい、自分にとって都合のいい部分だけを抜き出した、大勢が一人の弱者を導きその努力を称える成長物語。「大勢が一人を」ってところがとてつもなく気持ち悪い。2ちゃんねるってのは、自分の意見が如何に普遍的じゃないかを確認できる場所だろう? 自分の意見や経験をあっさり否定する人と簡単にコミュニケートできる。これこそが2ちゃんねるの最大の魅力だろうに。それを完全に消している。

さらに、このマンセーぶりから思いついたことがある。『電車男』って、全部自作自演なんじゃないかという意見はあちこちに見つけることができるが、俺もそう思う、と言ってみよう。だってさ、もしあの本の中身の全部が自作自演(か、まとめサイトの人間とその身内による壮大な釣り)なら、新潮社はまとめサイトの人と契約するだけで、なんらの訴訟リスクもなく、堂々と出版できるじゃない。現状は、「著作権法に違反してはいるけれど、書き込んだ人が訴えてこないので何とかなってます」だと一般には認識されてるけど、それって間違いなんじゃないの? 『電車男』というのは、大多数が書き込んでるようなフリをした新しい小説の表現形態なんじゃないのかな。そう考えれば、新潮社が堂々と出版したのも納得が出来る。現行の著作権法では収まりきらない新しい創作の事例として、著作権法のあり方を批判してきた俺たちとしては、事例として使えなくなってしまうけどな。あーあ。

トップ主導のくせにボトムアップであるかのように装って、メディア展開してコンテンツを売る世界って、俺としてはものすごく願い下げ。まして頭の中にあるのが金儲けのことだけときちゃ。あーあ。考えることや調べることをサボるとロクなことはない。というわけで当時ちゃんとしたリサーチと洞察をサボったことは、とても後悔している。

(85)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-10-30 18:04:09

サイコ観劇

機会に恵まれたので、『多重人格探偵サイコ/新劇 雨宮和彦の消滅』を鑑賞。とてもメタメタした(メタレベルな)脚本。

ここのところ大塚は一貫して「物語る」という行為の意味を問うてきているが、それを「劇」という形へ昇華したのが本作と言えるだろうか。そもそも『サイコ』というマンガ作品が、口コミでのPRを意識した広報戦略をとってきた作品だったということを大塚は以前話していたが、物語が誰かの口の端に乗るという行為を問い直し、物語をつむぐという自らの作家としての立ち位置を、新劇という異なるメディアを通すことで問い直した作品であったようだ。

本劇の脚本の後書きで大塚は、ものすごい勢いで大衆へ流布していくオタク作品の性質を、過剰なまでの翻訳の容易さ、というように表現している。大衆消費芸術は時として、企業や国家による強力な広報活動を伴わなくとも、広く一般へ流布することがある。ただその条件は誰にも分からない。この新劇は、その不思議な境界線と長く戦い続けてきた大塚のひとつの解だろう。宮崎 勤事件など、彼のライフワークに絡むギャグもちょいといと挿入されていた。大塚英志の作品は多分、こういう屁理屈の塊のような脚本の方が面白い。のかも。新宿の紀伊国屋サザンシアターで、4月4日まで。

(43)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 22:22:31

作り手は諦めない

この前大手ゲーム会社のN社の方とお話しする機会があった。俺は、ゲームっていうメディアがものすごい勢いでパチンコ化して、「どうやってバカを誑かしていかに金を巻き上げるかモード」になっていることを危惧していたりした。でも、それは杞憂だった。少なくともクリエイタたちは違った。俺は悪いプロデューサの形を見過ぎたのです。ごめんなさい。

ゲーム業界のクリエイタたちは、自分の表現というものを全然諦めてなかった。彼らにとっては、面白い何かを作り上げることが第一義であるようで、それはつまり、自分たちが面白い・楽しいと感じられた経験を抽象化・一般化して周りの人に伝達する方法を真剣に探した結果、ゲームというメディアを使っているに過ぎない、ということのようだった。熱かった。情熱があった。面白いものを作ってやろうという空気に満ち満ちていた。これは、最高の創造の空間ではないだろうか。仕事上で妥協させられることはあるにしろ、創造的な人々が作り出している熱気のようなものの漂う空間が維持されているということは、とてもすごいことだ。

クリエイタの創造への熱情を盛り上げ、なおかつ現実的な金銭の問題とを調整する役目がプロデューサには課せられていて、N社のプロデューサは皆、何よりもそれに重点を置かれていた。どこかで、プロデューサの仕事は、金、金、金で 3K だなどという冗談を聞いたことがあるが、そんなのはニヒリズムに酔っているだけの戯言のようである。つまり、何が言いたいかというと、とある独立行政法人の中の偉い人は、こういう意味でのコンテンツプロデューサの役目をどの程度理解されておられたのかと。

こっそり内部告発しよう。残念ながら、本郷三丁目にある組織のコンテンツ創造科学産学連携プログラムにおいて、そういった「場を作る能力」について問われることは、まずない。なぜなら、そんな能力を持った人間が教える側で常駐してはいないからだ。だからそういう能力の評価もできない。そもそも、そこまでの理解にたどり着いてる人がどれくらいいるやら。あのプログラムを存続させるには、誰か突発的な能力を持った受講生が出世して宣伝する以外にないのかしらねぇ。

(47)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2009-05-07 13:54:21

インフルエンザ日記

一昨日辺りから、ナウなヤングに大人気の今年のインフルエンザが発症しやがりまして、高熱を出しております。と久しぶりに普通の日記のようなことを書いてみる。さすがにisedは欠席するぜ畜生。毎年インフルエンザ拾ってるんだけど、どっかインフルエンザ皆勤賞とかくれないかしら。多分俺の血に抗体いっぱいあるよ。

発熱は体の防衛作用なので無理に解熱するなという主張をされる方が多くいらっしゃるが、そういった方は38度、39度を超えるような高熱の辛さを本当にご存じなのかと小一時間問い詰めたい。大体、成人男性には不能のリスクが付きまとうんだぞ。多少治癒までの時間が長引いても、耐え難い高熱は下げるべきではなかろうか。で、摂取の間隔を最低6時間以上あけるべきと思われる解熱剤を、効果が薄れてきたと感じたので、素人判断して勝手に 4 時間半くらいのインターバルで飲んだ。これが大失敗だった。

1時間くらい経って薬が効いてきた頃、急に寒気に襲われた。寒い。桁外れに寒い。体の芯がザラついたつららになったかのように寒い。小学生の頃、6月の曇天だというのに学校のプールへ飛び込んだ時も寒かったけど、ああいう外的なのとはちょっと違って、体の内部から来る感じだ。暖房の効いた部屋で布団に入っていて、さっきまで暖かかったにも関わらず、猛烈な寒気だ。

おそらく、解熱剤が効きすぎたのであろうと思われる。市販薬は、一ビン全部飲んでも死なないような分量で売られているという話を聞いたことがある。それくらい市販薬の効果は抑えられているし、フールプルーフも万全だ、と。本当かどうかは知らないが、納得はできる。しかし、そんな噂なんざ吹き飛ばすほど市販薬効きまくり。もし一ビン丸ごと飲んだりしたら、文字通り「死なない」だけで、地獄の苦しみが味わえそうだ。

ぬるま湯を飲んで薬の代謝を急がせながら厚着して震えていたところ、15分くらいで寒気は落ち着いてきたが、時間の経つのってこんなに遅いものか、俺の目を盗んで小人さんがこっそり時計の針戻してんじゃないかとか電波出せるくらいには辛かった。メンヘルの方はよくオーバードーズなんかできるもんだなぁと感心した次第です。さて、そろそろ薬が切れる頃なのでまた……。

(47)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:06

檻に入る幸せ

高校生くらいの頃、なぜ成年向けコンテンツのレーティング(分別)やゾーニング(販売などの制限)があるのか、全く分からなかった。10代後半は、人生でもっとも性欲が強い時期だと思う。多分、肉体的にはもっとも生殖に適している年代だからだろう。10代で子どもを作らないのは、動物としての側面のみで考えれば、致命的な間違いだ。なぜその性欲がもっとも強い10代からセックスを取り上げ、はけ口となりうる性的なコンテンツまでも取り上げるのか。本当に分からなかった。表現の自由を歌うなら、性表現を完全解放しろよ! 高校生当時の俺はこんなことを本当に考えていたんだよ、へっへっへ、エロかろう。まあ早い話が、俺は20代半ばにして高校生と間違われて身分証を求められたことがあったくらいで、ぶっちゃけエロマンガを買ったりするのにそれなりの困難が伴ったのであるよ。

若年でのセックスを批判する人達の典型的な論理として、10代ではセックスの責任を取れないというのがある。でも、その責任を取るための社会制度を失ってしまったのは、別にやりたい盛りの10代の責任ではない。「ガキのうちに教育を叩き込んで大人になってからは労働させる社会と、それを支える家族」という枠組みが定着したのは近代以後の話で、それまでの200万年間くらいは、人間は10代でセックスして子どもを作っていたわけだし、今のような家族という枠組みも不明瞭だったのだ。赤松啓介の奇書なんぞを色々読むに、昭和30年代くらいまでは多少なりともそういった性環境を許容する土地も日本にあったようである。だから、現在の性制度はかなりいびつなものなのだ。

でもね、もし俺が今ゾーニングやレーティングについての是非を問われれば、多分俺は賛成するよ。だってさ、俺描きたいもの。ほんわかした絵も、パンチラも、少女が強姦されてる絵も、俺は分けへだてなく描きたいんだよね。それと同時に、読みたいの。他人が描いたの見たいの。そういう俺たち変態の趣味嗜好を、理解できない有象無象の人達から守るための手段としては、ゾーニングやレーティングといった理論武装を使うしかないと思う。俺たちは檻の中に入りますから、勝手にやらせて下さい。それ以外の論理で、どうやって社会の大多数と戦える? 至るところにエロ画像あるのは困るのだ。

これは、社会倫理という点からだけで言うのではない。白田秀彰先生は猥褻表現規制の理由を、倫理などではなく、猥褻表現の放置が情報流通の帯域を食いつぶすという点に求めている。実に怜悧な指摘である。「あまりにも人々の興味を強くかきたてすぎる」ため、放置してしまうと情報伝達のリソースを食い過ぎるという。エロサイトやスパムメールなどの例を考えれば、理解は容易であろう。

といった辺りを根拠に、俺は、創作者の表現活動を活発にするための、自主規制を誘発しないような形でのゾーニングやレーティングについては、賛成しちゃうだろう。何を描いても安全な世界がやってくるとしたら。修正も要らない世界がやってくるとしたら。たとえそこが檻の中であったとしても、俺は飛び込むと思うね。その先に待っているのは、ハックスリーの『すばらしき新世界』で描かれるような、動物的な快楽をアホ面下げて享受するだけの腐ったユートピアなのかもしれないけどね。

すまんな、10代のときの俺。そいから今10代で、鬱々とした性欲を抱えているような若人。でもね、現代のように18歳まで性的な表現に一切触れさせないくせに、20歳過ぎの童貞をあざ笑う日本がいびつなのは間違いないから、上手くかいくぐって強く生きてくれ。そういうたくましさが、ハックスリー的な安定を打ち破る鍵なんだと思う。そこら辺に期待。

(51)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:07

2005年あけましておめでとうございます

2005年あけましておめでとうございます

そろそろ旧暦で2005年あけましておめでとうございます。

(50)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-05-22 03:09:22

ゲームはパチンコ化しちゃったわけだが

身近なヤバいネタ書こう。コンテンツ創造科学なんていうのがあるんだ、東京本郷辺りの某偉そうな国立の組織に。そこにいる人や、やってくる人を見て色々考えるわけだよ、所属する身として。しみじみ、将来の日本のコンテンツ産業のほとんどはパチンコ化するのだろうな、とね。半ば絶望的な確信を深めていく今日この頃だ。

俺はパチンコをやったことがないので印象論になることをあらかじめ詫びておくが、画期的なパチンコ台から新しい表現が生まれメディアが開拓されたというような話は、寡聞にして知らない。初めてパチンコが発明された時から基本的には変わっていないだろう。パチンコは、決して表現としての場などではなく、いかにユーザから金を巻き上げるかという技術のみを徹底的に追求してきた娯楽であるように思われる。そして、どのゲーム会社のプロデューサの話を聞いても、今後のゲームが目指す世界はパチンコと全く同じ世界のようである。どうやって射幸心を煽るか。いかに効率よくユーザから金を吸い取るか。さらには、いかにユーザに社会と適当な折り合いをつけ「させ」るかまで考えている。もう、手取り足取り面倒みてやるからさっさと金を出せ、てな状態ですな。

プロデューサはそれでいいのだという反論もあるだろう。人々を満足させるコンテンツが創られるためには、強い創造欲と、それを維持し続けるための環境、つまりは飯が食えるだけの金が必要だ。プロデューサは金を考えてればいいんだという意見は、まあ成り立つかもしれない。短期的にはすごく正しい。

でも、10年先、20年先という期間を考えた場合、そんな縮小再生産を繰り返すようになってしまった世界で、作り手側の強い創造へのモチベーションを維持することは可能だろうか。新しい作品もメディアも生まれることのない閉じた世界で、作り手の創造欲を飼い殺すような表現の場というのは、本当に日本のコンテンツ産業にとって長期的にプラスとなりえるのだろうか。意欲ある若い世代は、そんな閉鎖的な環境に未来を見い出さないだろう。ゲームというメディアが輝いていた時代を知っている世代として、そういう世界はあまり望ましくないと俺は思う。

もっと一歩引いた視点で、10年、20年先までを俯瞰している人達は、日本に大勢いるはずだ。上記のような構造くらい、切込隊長や山形浩生はよーく分かってるし、白田秀彰先生だって分かってる。だからさ、いい加減分かれよ。愚民を誑かしながら金を吸い上げることばかり夢見てたら、足元すくわれるぞ。そんなんでどうやって「コンテンツ立国」するんだ。

閉鎖的な状況を打破するには2つの選択肢があると思う。1つは、俯瞰して長期的な方策を考えること。白田先生たちが取り組んでいるのはこっちだ。もう1つは、今までの構造をぶち壊す斬新な技術や表現を開発すること。Winnyがやってしまったのはこれだ。新しいものが反社会的に見えるのは仕方が無い。だが、新しいものに何一つ注力せずアガリだけを欲しがる連中は唾棄すべき寄生虫であろう。反社会的で斬新な何かと社会との折り合いをつけるという調停の部分で暗躍することこそ、あの本郷や駒場の組織の文系の人間がもっとも得意とするところではなかったのか。だから文系はダメなんだ、と皆に揶揄されるのが悔しければ発奮しやがれ。

(51)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 01:32:46

他人の持ちネタを奪いながらterminologyの恐ろしさを考える

この前 ised@glocom へ行って来たわけだが、そこで白田先生がツカミに使われていたネタを紹介してみよう。いわく、「『法』と『法律』の違い、分かりますか?」

ワカラン。知りません。説明できません。でも会場はみな平然とした顔をしているぞ。うーん、みんなには既知の話なんだろうか、知らないのは俺だけかグワァー。以下、白田先生の説明に自分の理解が加わってるので、間違いは私の責任です。

で、「法」という言葉はラテン語の“ius”であって、この言葉を羅英辞典で引いてみると、“justice, right, law”などと出てくる。道徳を含んだ法・権利、正義などの概念で、意味としては「正」に近いのであろう。一方「法律」に当たるラテン語は“lex”で、これは英語の“code”や“statute”に相当しているという。どういうことかというと、「法」という体系に何らかの問題がおきたとき、それに対処するための仕組みが「法律」という位置づけになるようだ。白田先生は、「『法律』とは『法』のパッチである」とまとめられていた。

さて、今までの人生で、「法」と「法律」を正しく使い分けできていただろうか。思い返してみれば、「法制度」とは言うけれど、「法律制度」とは言わないような気がする。「法システム」はアリだけど、「法律システム」はだめぽな感じ。なるほど、落鱗です、白田先生。

まあ、isedの続きはそのうち本家でうpされるだろうから置いておくとして、「言葉なんて、相手に通じりゃいいじゃない」と考える人たちに、伝えたいのである。言葉が複数あるということは、複数に分かれるだけの理由があるということだ。それをぐっちゃぐちゃに混ぜて使うということは、「自分の脳ミソでは違いが分からない」と宣言しているのとなんら代わりがない。知らなかったときはしょうがない。一言しゃべっただけで無知がばれるけど、それは仕方が無い。でも、知っちゃったなら使い分けようよ。脱無知。

だから、「IPアドレス」を「IP」って略すな! いい加減めんどくさくなってきたけど、せめて「ホムペ」は止めてくれ! しかし、一般素人相手の時に、自ら「ホームページ」といえるくらいには、大人になった俺。大人になるって悲しい。

追記:平野敬さんから、ツッコミメールを頂戴しました。「法」と「法律」という言葉は、日本の国内法学者、法制史家、法哲学者などが三者三様の使い分けをしており、上記の理解は一面的なので誤解なきよう、ということです。以下、平野さんのメールから 3 つの類型を引用します。
> 1. 日本の国内法の世界においては
> 国家権力によって拘束力を担保された規範を「法」と呼び
> 国会において成立した法であって,
> 予算・議院規則・憲法および憲法改正を除くものを「法律」と呼びます。
> たとえば地方自治体の条例や国際条約は,法ではあるが法律ではありません。
> 難しく言うと,「法律」は法源(法の存在形式)のひとつです。
> 法律システム・法律制度と言わず,法システム・法制度と言うのは
> 法律はそれ自体で完結した規範体系を構築しないからです。
> 多くの法律は政令・省令・条例によって補完されることによって機能します。

> 2. 語源的に見ると,「律」は刑事法を意味する言葉です。
> (日本史の「律令政治」を思い出してください。ちなみに令は行政法です)
> 法制史の世界においては,「法律」あるいは「律法」と殊更に強調した場合
> 刑事的ニュアンスが強くなることでしょう。

> 3. 西欧語における ius / lex の二分論に対応させる形で
> 法 / 法律を使い分けようという思想は確かに存在します。
> 特に,法哲学の世界ではこうした使い分けが珍しくありません。
> ただ,「法は『正しさ』の概念を含みます」なんて言い出すと
> 「じゃあその『正しさ』の基準を決定するのは何だ」といった
> メタ法をめぐる泥沼論争に陥る危険性があるので,
> 敢えて無造作に使ったりすることもありますが。
当然白田先生は、こうした背景をご承知の上で、後に展開する持論のツカミとしてお話されたのですが、背景の理解がいい加減で、すぐ針小棒大にマンセーしちゃうのは私の浅薄さ故です。いただいたツッコミメールは精緻で大変勉強になりました。ありがとうございます。なお、平野さんのメールからの引用部分も CC ライセンスです。
(45)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:09

今年は士気が上がるといいね

遅ればせながら新年あけましておめでとうございます。

今現在、フリーターという存在は貶されがちだけど、1980年代に、株式会社リクルートが「フリーター」という言葉を作り出した時のことを考えてみよう。“free”という言葉のもつイメージがプラスなのかマイナスなのかを考えれば、これが当時プラスの概念だったことが容易に想像される。フルタイムの雇用者より多くの自由時間が得られる。「夢に向かってガンバレ」。そういう新しくてカッコイイ存在として、フリーターという言葉と概念が、株式会社リクルートという一企業によって作られ、ポジティブなイメージを与えられた。何しろやつら、『フリーター』という映画まで作ったしな。何のために? そりゃあ雇用情報の仲介をするリクルート社が、アルバイト市場を広げるためにですよ。リクルート社は、言葉を作り市場を作り、社会構造まで変えてしまったのだ。うーんさすがだね。企業戦略ってのはこういう規模でやるもんだね。(参考:http://www.works-i.com/article/db/aid279.html

さて、フリーター批判の大半は、「社会に参加していないから」というところへ尽きるだろう。税金や年金を払わない。隣近所の共同体に参加しない。家族を作ろうとしない。で、なんでそれが社会的な批判の対象になるかといえば、我々がそういう生き方を是としない社会の一員だからだろう。でも。「社会のためでだけはなく、自分のために自分らしく生きてもいいじゃないか。いやむしろそうするべきだ」っていう類のメッセージを、20年以上もの間ありとあらゆるメディアでフィクション・ノンフィクション問わず散々流しておいて、いまさら「そんな生き方はダメです」って否定しても、まあ手遅れだわな。

お金を稼ぐことは何のためですか。社会貢献のためではないよね。社会貢献のために日々仕事をしている人、今の日本にどれだけいますか。如何に楽に金を稼いで如何に楽な人生を過ごすか。メディアでそんなことしか流れないのだし、みんな大同小異そういう行動形態を取る。その行動取る人たちにフリーターとか風俗で働く人とか援助交際とか、そういう人たちを批判すべき倫理的な論拠なんて、どこにもないじゃない。

でも貨幣ってのはすげぇ公平なシステムだよな。他にこれほど一元的な価値を提供できるシステムがあるだろうか。貨幣経済を否定するなら、これ以外に皆が納得できる一元的な価値システムを作らねばなるまい。そいつは無理だ。そして皆そこで思考を止める。だから、フリーターが何故ダメなのかをちゃんと説明できる人はほとんどいない。「アンタが不利な立場になるよ」という個人的な損得に基づいた説得か、常識か特定の理念に基づいた非論理的な説教からか、経済学の穴だらけのモデルからの推論くらいでしか述べられない。結局、背後の説得力ある理由は金か。なら開き直って金が一番すばらしいんだ、金が全てだってプロパガンダ流せばいいのに、そんなことはできもしない日本のマスメディアの中途半端さよ。

結局もう経済システムに組み込まれてしまってたフリーターは減りようもない。今現在できるのは、フリーターのマイナスイメージを積極的に売り込むことであって、そしてそれは一応成功している。かのリクルート社も、今となってはフリーターに肯定的ではない。

でもマイナスイメージだけでは、貨幣経済にすっかり組み込まれてしまったフリーターという雇用形態の合理性に勝てないんじゃないか。5人に1人がフリーターの時代、マイナスイメージだけで推し進めたら、社会の士気が下がるじゃない。オルタナティブもないわけだし、少なくとも1/5の人間の士気は下がるわけよ。だからさ、なんかもうちょっと考えた方がええんでねーの。フリーターを非難するより、フリーターでも明るく生きられるための何かを考えたらいいんでねーの。非フリーターの士気を上げるためにフリーターを貶める社会なんて、まともじゃない。と俺は思うんだけどね。

(54)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:10

絵師なら全員やってるペイフォワード

11月24日の日記を、「初心者と有識者で思いつく言葉が違うせいで初心者は有識者の知識に辿り着けず有識者は初心者の現状に辿り着けないという問題」Piroさん が一言でまとめてくださった。的確な要約に感謝します。ということでその続きを電波に展開する。

ウェブは、簡単にハイパーリンクをたどって別のリソースを参照できることを最大の特徴としている。自分の趣味以外のことであっても容易に知的探求をすることができる世界であった。ハズだ。今や死語となった「ネットサーフィン」という言葉は、そういう行動パターンを示していた。そして死語となったということは、みんなあまりそういう行動パターンを取らなくなったということでもあろう。

でも、だ。もし今そういった行動パターンを取らないのだとしたら、つまり、みんな自分の興味のあるところだけをツマミ読みするというウェブとの付き合い方しかしてないのだとしたら、その違いは何がもたらしたんだろう?

ウェブが増えすぎてるとか、フラット性だとか、編集者の必要性とか、メタデータの普及とか、色々説明はできるとは思う。でも、だ。ここにこそ啓蒙の余地があるんだと俺は思う。啓蒙というほどえらそうなものではなくていい。つまりさ、誰にでも分かりやすい文章書こうよ。誰にでも分かりやすいサイト作ろうよ。自分の言いたいことを、誰にでも分かる言葉で、世界中の人に向けてプレゼンテーションしようよ。そうすれば、偶然あなたのサイトに漂いついただけの人も、あなたのサイトを読んでくれるかもしれない。もし自分が他人より少しでも優れている部分があるのならば、それを少しでも分かりやすく伝える努力をしようよ。

別に文章でなくていい。(・∀・)イイ!絵を描いてもいいし、(・∀・)イイ!音楽を作ってもいいと思う。それで萌えたり感動したり気持ちよくなってくれる人がいれば、ウェブは少しずついい世界になるだろう。

これなら、ウェブサイトを持つ人全員ができることだし、やってるハズのことだ。だから、皆が放り出さない限りウェブはどんどん良くなってきた。ハズ。いまいちそうなってないところもあるのは、ウェブがどんどん消えてるからなんだけど、それはまた別の話。

(48)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2008-08-30 04:28:31
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