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他人の持ちネタを奪いながらterminologyの恐ろしさを考える

この前 ised@glocom へ行って来たわけだが、そこで白田先生がツカミに使われていたネタを紹介してみよう。いわく、「『法』と『法律』の違い、分かりますか?」

ワカラン。知りません。説明できません。でも会場はみな平然とした顔をしているぞ。うーん、みんなには既知の話なんだろうか、知らないのは俺だけかグワァー。以下、白田先生の説明に自分の理解が加わってるので、間違いは私の責任です。

で、「法」という言葉はラテン語の“ius”であって、この言葉を羅英辞典で引いてみると、“justice, right, law”などと出てくる。道徳を含んだ法・権利、正義などの概念で、意味としては「正」に近いのであろう。一方「法律」に当たるラテン語は“lex”で、これは英語の“code”や“statute”に相当しているという。どういうことかというと、「法」という体系に何らかの問題がおきたとき、それに対処するための仕組みが「法律」という位置づけになるようだ。白田先生は、「『法律』とは『法』のパッチである」とまとめられていた。

さて、今までの人生で、「法」と「法律」を正しく使い分けできていただろうか。思い返してみれば、「法制度」とは言うけれど、「法律制度」とは言わないような気がする。「法システム」はアリだけど、「法律システム」はだめぽな感じ。なるほど、落鱗です、白田先生。

まあ、isedの続きはそのうち本家でうpされるだろうから置いておくとして、「言葉なんて、相手に通じりゃいいじゃない」と考える人たちに、伝えたいのである。言葉が複数あるということは、複数に分かれるだけの理由があるということだ。それをぐっちゃぐちゃに混ぜて使うということは、「自分の脳ミソでは違いが分からない」と宣言しているのとなんら代わりがない。知らなかったときはしょうがない。一言しゃべっただけで無知がばれるけど、それは仕方が無い。でも、知っちゃったなら使い分けようよ。脱無知。

だから、「IPアドレス」を「IP」って略すな! いい加減めんどくさくなってきたけど、せめて「ホムペ」は止めてくれ! しかし、一般素人相手の時に、自ら「ホームページ」といえるくらいには、大人になった俺。大人になるって悲しい。

追記:平野敬さんから、ツッコミメールを頂戴しました。「法」と「法律」という言葉は、日本の国内法学者、法制史家、法哲学者などが三者三様の使い分けをしており、上記の理解は一面的なので誤解なきよう、ということです。以下、平野さんのメールから 3 つの類型を引用します。
> 1. 日本の国内法の世界においては
> 国家権力によって拘束力を担保された規範を「法」と呼び
> 国会において成立した法であって,
> 予算・議院規則・憲法および憲法改正を除くものを「法律」と呼びます。
> たとえば地方自治体の条例や国際条約は,法ではあるが法律ではありません。
> 難しく言うと,「法律」は法源(法の存在形式)のひとつです。
> 法律システム・法律制度と言わず,法システム・法制度と言うのは
> 法律はそれ自体で完結した規範体系を構築しないからです。
> 多くの法律は政令・省令・条例によって補完されることによって機能します。

> 2. 語源的に見ると,「律」は刑事法を意味する言葉です。
> (日本史の「律令政治」を思い出してください。ちなみに令は行政法です)
> 法制史の世界においては,「法律」あるいは「律法」と殊更に強調した場合
> 刑事的ニュアンスが強くなることでしょう。

> 3. 西欧語における ius / lex の二分論に対応させる形で
> 法 / 法律を使い分けようという思想は確かに存在します。
> 特に,法哲学の世界ではこうした使い分けが珍しくありません。
> ただ,「法は『正しさ』の概念を含みます」なんて言い出すと
> 「じゃあその『正しさ』の基準を決定するのは何だ」といった
> メタ法をめぐる泥沼論争に陥る危険性があるので,
> 敢えて無造作に使ったりすることもありますが。
当然白田先生は、こうした背景をご承知の上で、後に展開する持論のツカミとしてお話されたのですが、背景の理解がいい加減で、すぐ針小棒大にマンセーしちゃうのは私の浅薄さ故です。いただいたツッコミメールは精緻で大変勉強になりました。ありがとうございます。なお、平野さんのメールからの引用部分も CC ライセンスです。
(43)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:09

今年は士気が上がるといいね

遅ればせながら新年あけましておめでとうございます。

今現在、フリーターという存在は貶されがちだけど、1980年代に、株式会社リクルートが「フリーター」という言葉を作り出した時のことを考えてみよう。“free”という言葉のもつイメージがプラスなのかマイナスなのかを考えれば、これが当時プラスの概念だったことが容易に想像される。フルタイムの雇用者より多くの自由時間が得られる。「夢に向かってガンバレ」。そういう新しくてカッコイイ存在として、フリーターという言葉と概念が、株式会社リクルートという一企業によって作られ、ポジティブなイメージを与えられた。何しろやつら、『フリーター』という映画まで作ったしな。何のために? そりゃあ雇用情報の仲介をするリクルート社が、アルバイト市場を広げるためにですよ。リクルート社は、言葉を作り市場を作り、社会構造まで変えてしまったのだ。うーんさすがだね。企業戦略ってのはこういう規模でやるもんだね。(参考:http://www.works-i.com/article/db/aid279.html

さて、フリーター批判の大半は、「社会に参加していないから」というところへ尽きるだろう。税金や年金を払わない。隣近所の共同体に参加しない。家族を作ろうとしない。で、なんでそれが社会的な批判の対象になるかといえば、我々がそういう生き方を是としない社会の一員だからだろう。でも。「社会のためでだけはなく、自分のために自分らしく生きてもいいじゃないか。いやむしろそうするべきだ」っていう類のメッセージを、20年以上もの間ありとあらゆるメディアでフィクション・ノンフィクション問わず散々流しておいて、いまさら「そんな生き方はダメです」って否定しても、まあ手遅れだわな。

お金を稼ぐことは何のためですか。社会貢献のためではないよね。社会貢献のために日々仕事をしている人、今の日本にどれだけいますか。如何に楽に金を稼いで如何に楽な人生を過ごすか。メディアでそんなことしか流れないのだし、みんな大同小異そういう行動形態を取る。その行動取る人たちにフリーターとか風俗で働く人とか援助交際とか、そういう人たちを批判すべき倫理的な論拠なんて、どこにもないじゃない。

でも貨幣ってのはすげぇ公平なシステムだよな。他にこれほど一元的な価値を提供できるシステムがあるだろうか。貨幣経済を否定するなら、これ以外に皆が納得できる一元的な価値システムを作らねばなるまい。そいつは無理だ。そして皆そこで思考を止める。だから、フリーターが何故ダメなのかをちゃんと説明できる人はほとんどいない。「アンタが不利な立場になるよ」という個人的な損得に基づいた説得か、常識か特定の理念に基づいた非論理的な説教からか、経済学の穴だらけのモデルからの推論くらいでしか述べられない。結局、背後の説得力ある理由は金か。なら開き直って金が一番すばらしいんだ、金が全てだってプロパガンダ流せばいいのに、そんなことはできもしない日本のマスメディアの中途半端さよ。

結局もう経済システムに組み込まれてしまってたフリーターは減りようもない。今現在できるのは、フリーターのマイナスイメージを積極的に売り込むことであって、そしてそれは一応成功している。かのリクルート社も、今となってはフリーターに肯定的ではない。

でもマイナスイメージだけでは、貨幣経済にすっかり組み込まれてしまったフリーターという雇用形態の合理性に勝てないんじゃないか。5人に1人がフリーターの時代、マイナスイメージだけで推し進めたら、社会の士気が下がるじゃない。オルタナティブもないわけだし、少なくとも1/5の人間の士気は下がるわけよ。だからさ、なんかもうちょっと考えた方がええんでねーの。フリーターを非難するより、フリーターでも明るく生きられるための何かを考えたらいいんでねーの。非フリーターの士気を上げるためにフリーターを貶める社会なんて、まともじゃない。と俺は思うんだけどね。

(53)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:10

絵師なら全員やってるペイフォワード

11月24日の日記を、「初心者と有識者で思いつく言葉が違うせいで初心者は有識者の知識に辿り着けず有識者は初心者の現状に辿り着けないという問題」Piroさん が一言でまとめてくださった。的確な要約に感謝します。ということでその続きを電波に展開する。

ウェブは、簡単にハイパーリンクをたどって別のリソースを参照できることを最大の特徴としている。自分の趣味以外のことであっても容易に知的探求をすることができる世界であった。ハズだ。今や死語となった「ネットサーフィン」という言葉は、そういう行動パターンを示していた。そして死語となったということは、みんなあまりそういう行動パターンを取らなくなったということでもあろう。

でも、だ。もし今そういった行動パターンを取らないのだとしたら、つまり、みんな自分の興味のあるところだけをツマミ読みするというウェブとの付き合い方しかしてないのだとしたら、その違いは何がもたらしたんだろう?

ウェブが増えすぎてるとか、フラット性だとか、編集者の必要性とか、メタデータの普及とか、色々説明はできるとは思う。でも、だ。ここにこそ啓蒙の余地があるんだと俺は思う。啓蒙というほどえらそうなものではなくていい。つまりさ、誰にでも分かりやすい文章書こうよ。誰にでも分かりやすいサイト作ろうよ。自分の言いたいことを、誰にでも分かる言葉で、世界中の人に向けてプレゼンテーションしようよ。そうすれば、偶然あなたのサイトに漂いついただけの人も、あなたのサイトを読んでくれるかもしれない。もし自分が他人より少しでも優れている部分があるのならば、それを少しでも分かりやすく伝える努力をしようよ。

別に文章でなくていい。(・∀・)イイ!絵を描いてもいいし、(・∀・)イイ!音楽を作ってもいいと思う。それで萌えたり感動したり気持ちよくなってくれる人がいれば、ウェブは少しずついい世界になるだろう。

これなら、ウェブサイトを持つ人全員ができることだし、やってるハズのことだ。だから、皆が放り出さない限りウェブはどんどん良くなってきた。ハズ。いまいちそうなってないところもあるのは、ウェブがどんどん消えてるからなんだけど、それはまた別の話。

(47)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2008-08-30 04:28:31

通学路と怖い猫

通学路と怖い猫

この猫のモデルはパックマンです。季節感ならありませんよ。

(48)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-05-22 03:09:23

交わらせろ

例えば、『ウェブページの BGM としてガンガン MIDI ファイルを鳴らしたい』という超糞な欲望を持ったが、具体的にどう xhtml でマークアップすればよいか分からない 、という問題があったとする。一般向けに翻訳すると、「ホームページに音楽付けるにはどうすればいいの」だろうか。

もし私が調べるのならば、例えば「xhtml midi マークアップ」とかでぐぐるが、普通は「ホームページ 音楽を付けたい」辺りになる(ここでビビってはいけない、普通の人の検索語はこんなもんだ)。「俺様はパソコンとか詳しいんだぜ」なんていうちょっとイタい厨房は、「タグ 書き方 音楽ファイル」辺りでぐぐるだろう。それぞれのキーワードで表示されるサイトを見比べて欲しい。おっそろしいレベルの違いがある。

俺の検索語では、DTDの解説サイトがトップに出る。俺はこれを望んでいるだろう。「ホームページ 音楽を付けたい」では、Microsoft Word での具体的な操作方法が出てくる。まあこれはコメントする気も萎える。「タグ 書き方 音楽ファイル」では、なにやら「タグ」とやらを誤解した解説したページが出てくる。

ただ、どの言葉で検索しても、一応の目先の問題に対する回答は得られそうである。俺が考えたいのは、専門的な言葉や概念を知らない素人は、そこから先どれほどの深い理解にまでたどり着けるか、というところだ。

はっきりいって、「xhtml midi マークアップ」といったキーワードで検索して出てきたウェブページを見る人と、「タグ 書き方 音楽ファイル」で出てきたページを見る人とは、一生交わらない可能性がある。ハイパーリンクをたどって知的探訪を行う場である、というのが初期のウェブが持っていた幻想であるわけだが、今現在「ホームページ 音楽を付けたい」といったキーワードで検索する人は、多分「マークアップ」という用語までたどり着くことはないと思う。そして、マークアップというキーワードを理解しない限り、xhtml 近辺のことは何も分からない。

この違いは、何も別に高尚なわけではなくて、普通の人が単に技術的に適切な言葉や概念を知らないだけというところにある。たったそれだけのことで、専門家とそれ以外とがものすごく乖離してしまうという、よくある問題でもある。だけど、ウェブのおかげで、普通の人が専門家に近づくべきチャンスとでもいうようなものが、逆説的に減ってきてしまってるかもしれない。

今の多くのウェブサイトには、「できない人を導いて、全体の質をより高める」とでもいうような、理想があるだろうか。まあ、あんまないだろーな。専門家は、専門家やその周辺に向けて自らの作業をまとめたり提案してればよく、そこには普通の人が入る余地はない。結局普通の人も含めて、近しい人同士のコミュニケーションのためにウェブを使っているんだ。別になにかを向上させる必要は無く、既存のツールを使ってコミュニケーションできていればそれでいい。「タコ」と呼ばれるような自助努力で頑張る健気な初心者は、ビットの彼方へ行ってしまったのだ。

専門家は象牙の塔的にゴニョゴニョ集まり、一般大衆は適当にみんなでガーッと集まって騒ぐっていうような二分化したあり方を批判するのはとても簡単なのよ。啓蒙が大事よとか言うのも簡単なのよ。後は、やろうとしてる人がどれだけいるかってことで、何をどれだけやれるかってことだ。押し寄せる虚無感と戦いながらそれでも毎日睡眠時間を削ってがんばっている友人を見て、そう思った。

(47)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:12

社会を斜めに斬ることまで斬りますから

社会や世相をばっさり斬った意見は、キモチイイ。「ヒキコモリが愛国者やっても、あなたたち国から嫌われてますから! 残念っ!」とか。「税金払ってないやつが国家とか言ってるぞ、気をつけろ!」なんてーの。こういう、ちょっとひねった視点に似せた悪口や揶揄を子気味よく感じてしまうのは、なかなか悪趣味だと思う。悪趣味自体は別に悪いことだとは思わんけど。でもこういう文脈の消費が好きな人は、どこかに頼りない優越感を持っていて、それをせっせと補強して欲しがっているとは思う。

まともな人によるまともな社会学は、別に優越感を煽るためのツールではなく、これといって面白くもないことをコツコツ調べることが大半で、現在がどんなにポストモダンの世界だなんだといっても、やっぱりその学問の究極的な目的は、快楽原則ではないとてもモダーンなところにある。つまり、「社会全体の幸せ」というような辺り。「より良くしていこう」っていう意識を常に持っているまともな人たちが読者の危機感や優越感を煽ったりするのは、あくまで、これといって面白くもない自分の調査や目的を、資本主義社会での「商品」として売るための手段だ。別に優越感のためにやってるわけではない。だから、普通の人に名が知られてて評価もそれなりの社会学者は、大体そういう売り方が上手くて、なおかつ背景の調査に手を抜かなかった人。普通の人に名が知られてて評価が DQN なのは、煽るだけの人ということになるね。

何らかの問題に対して「より良くしていこう」といったモダンな背景を抜きにした単なる毒舌は、ニヒリズムや優越感の補強をしてくれるだけの、悪趣味で品のない消費物だと思う。切腹!!

(46)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 19:45:51

表現というアーキテクチャ

絵画とは、受け手の視線の動きをコントロールし、何らかの感情や思想を想起させるための表現だ。「視線 誘導」などでググってもらうと幾つかそういうページが見つかると思うが、構図というのは、鑑賞する人間の視線を特定の要素へ誘導するための技法 のことなのだ。絵を描いたり写真を撮ったりする人間は、どう要素を配置すれば受け手に「見てもらうか」というのをずっと考えている。あえて嫌な言い方をすれば、どう配置すれば受け手の行動(視線)をコントロールできるか考えてる、といっても間違いではない。

マンガの場合を考えるともっと分かりやすい。マンガでは、絵の他に言葉も利用して、受け手の行動や思考や感情をコントロールしている。マンガを読んで喜んだり泣いたりするということは、受け手に感情をコントロールされていることに他ならない。さらに、アニメや映画などの映像作品は、音声と映像と時間を利用して同じことをやる。ゲームはユーザからのフィードバックが入るが、やっていることは一緒だ。

つまり表現された作品というものは、一種の「アーキテクチャ」なのだ(ここでいう「アーキテクチャ」とは、「枠組み」とか「仕組み」とか「行動を制限をする構造」といった意味です。)。表現は、受容者に感情や思念などの新たな何かを想起させているが、それは受け手の行動や感情を制御することによって実現されている。

もちろん、作家は読者の全てをコントロールしうる神などというわけではない。その作品が提供するアーキテクチャを気に入らなければ、絵なら見るのを止めればいいし、音楽なら聞かなきゃいい。それに、作り手の想定していない作品の受け取り方というものは多数存在していて、たとえば俺の作った もじうめ は、絵師などが画像を整理するために、と思って作ったんだけど、実は携帯電話向けコンテンツ用の画像処理に使われているケースの方が多いらしいし(俺はプログラムを表現だと考えています)、絵についてだって、予想もしない受け取り方をされることは多い。構図的に寂しいので穴埋めのつもりで描いただけの小動物が意外にウケたりする。すなわち、ある表現には、受け取り方の幅というものが存在する。その幅はかなり大きく、しかも人や時代によって変遷していく。だから、評論という表現活動も成立するし、過去の作品を現在の文脈で読み直すといったことも可能になる。

例えば SQUARE の大作 RPG なんかは、あまりに一本道なもので、“アーキテクチャに縛られる”という感覚が体感できてしまう。より普通の言葉でいえば「やらされてる感が強い」。これは上記の、受け取り方の幅というものが、意図的にかなり狭められているからだと思われる。色々な受け取り方を許容する作品であるならば、(面白いかどうかはともかくとしても)やり込めるゲームと言えるだろう。

アーキテクチャによる自由の制限は随所で行われている。そしてそれらはとても意識しにくい。今後は、単純なメディア・リテラシのみならず、アーキテクチャ・リテラシみたいなのが大事になってくるのかも。

(45)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:16

無関心でいるために関心をもつ

俺は政治的な活動ってのはでぇっ嫌いだ。自分に好意を持っているかどうかもわからない上に理解力の足りない人に自分の意思を的確に伝えてなんらかの行動を起こしてもらうなんて全然好きじゃない。まあオタクだしそんなもんだろ。しかし世の中は広い。そういうのが好きな人もいるらしい。一種の征服欲が満たされる喜びを求めてるのかもしれないし、信念が達成される満足感なのかもしれない。いずれにしろよく分からない。

そんな俺でも、政治的な部分に無関心でい続けるのは難しい。青少年健全育成基本法で表現規制とか児童ポルノ法での絵の規制とかさ、ああいうオタクの首を絞めたがるのって、行政側が何らかの悪意を持ってしかけてくるように見えるじゃない、ヲタの身としては。でも最近、そういう行政とかの意思決定できるようになる人たちとかをわりと近くで見てると、思うんだ。こいつら、悪意なんて別にないんだろうなぁ、って。

なんでって、オタクじゃない人はオタクを全然知らないから。考えてみてくれよ、非オタクたちは、あの東浩紀の『動物化するポストモダン』を読むくらいしか、オタクやその行動様式を知る術がないんだぜ (それ以前は大塚英志の『物語消費論』だよ。自分の作品の売り込みのために考えたことを取りまとめたあの本)。ああいうのを読んだら、いまのオタク達が目指すべき目標や価値観というようなものを失っていて、即物的に楽しんでいるだけっていう風に解釈されるだろうし、さらにタチの悪いことにそれはオタクの一面の分析としては極めて分かりやすい形で現状を説明している……いや、もってまわった言い方を止めれば、正しい分析だと思う(細かい間違いは多いけどな)。明確な目標を持って生きていくことが当たり前のエリートたちやハイソサイエティにとって、そういう生き方ってどう映ると思う?

「社会のためになる正しい道を与えてやる」になるか、「バカは遊ばせておいてガンガンむしりとってやる」の二択になると思わん? だからさ、むしろ青少年健全育成なんてのを目指してる方はまだオタクにとってマシなのかもしれないよ? 彼らの多くは、純粋に善意でオタクを更正させようとしてくれてるのではないかと思う。そして、それがいかに勘違いであるかを指摘してくれる人は誰も周囲にいない。オタクで大きな声を上げてるのは、政治闘争そのものが大好きで日々「粉砕」とか「勝利」とかしてそうな左翼系で、ちょっとヘンで、関わりたくもない人たちばっかりだったりするし。

「社会のためになる正しい道を与えてやる」ってのは、テレビとか映画とかの比較的メジャーなメディアで目指されていると思われる。この手のメディア戦略が有効なのはいまさらいうまでもなかろう。たとえば、NHKスペシャル の『映像の世紀』には、第一次大戦時に戦時国債売り込みをやっているチャップリンが映っているし、エイゼンシュタインリーフェンシュタール 辺りは有名どころだから、傍証は十分だ。今だってマスメディアはやってんだろうけど、最近はちょっと視聴者も知恵つけちゃってるんだよね。

一方「バカは遊ばせておいてむしりとる」ってのは主に商売人の発想だから、国策としては取りにくかったと思う。でもさ、国もいわゆるポストモダン状態だったら、国としての理念なんてものを重要視するより、商売人の発想を優先することもありえるよね。そもそも、産業を維持するってのは国のためになるわけだし。そして最近、行政がオタク関係の生産側の方へ色々と首を突っ込もうとしてる。色々なことを知らないままに。大体、東の本なんかに目を通してるのはまだ勉強している方で、大体は日経とかが宮崎や押井煽ったのを真に受けてるだけだろう。

まぁ、山形浩生が危惧していたようなことが現実に起こらんようできるだけくちばしをつっこむってのが、せいいっぱいの俺の良心だろうな。

(46)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:17

さらなる負け犬が遠吠えをしてみる

「負け犬」って言葉があるじゃないですか。酒井順子という人が、『負け犬の遠吠え』という本で煽っているのだが、「30 代以上で、未婚で、子ナシ」の女性のことをそう呼ぶんだそうだ。このエッセイ本についてはすでにいろんな人がいろいろ言及してるから、いまさらどうでもいいと思うが、ロリとして自分の立場を正当化する方向から強引に電波を飛ばしてみよう。そんなこと言うヤツはあまりいないだろうからな。

率直なところ、30 歳以上で未婚で子ナシの女性を無価値だとしてくれて、しかも女性にまでその価値観を明示してくれるなんて、ありがたい限りである。だって、そういう女性のことを男性は考慮する必要がない、つか、そんな女には何の魅力もない、っていう価値観を、社会の大部分に広めてくれてるわけじゃない。それはつまりさ、多くの男性が恋愛対象としては、…いや、はっきり言おう、多くの結婚を決意する男性が性の対象とする( = 自らが扶養する価値があると考える)のは、20 代から下の女性であるっていうのを、間接的に認めてくれてることになる。

では、20 代から下はどこからどこまでが認められるのか。16 歳で結婚できるとして、16 歳から 29 歳までしか性的な価値がないのだろうか。そんなわけはない。15 歳 364 日の女の子と 16 歳とで何が違うのかっていうと、もちろん何かが明確に違うわけじゃない。ただそう決めてあるだけだ。15 歳の女の子くらいだったら、オッケーというヌルいロリな人、いっぱいいるよね? その手の人たちは喜んでくれ。少なくともその価値観は、酒井順子にも認められ多くの女性にも共感されてるようなものだ。

少年少女を性的に搾取しないというのは社会的なルールであるが、法としてのルールと倫理としてのルールとを明確に分けておかないと、そろそろ破綻が起きるんじゃないかね。つまり、逸脱が許されないルール(法)と、逸脱が許されるルール(倫理)を明確にしろ、ってことね。幼女をニヤニヤ眺めてるデブヲタなんてのは確かにキモい。でも、傷害や拉致に走るのでもない限り、その程度の逸脱は、倫理でジャッジすべき範囲(つまりは許される範囲)である。こういったデブヲタを取り締まる根拠としてよく挙げられるのが割れ窓理論だが、こいつの最大の欠点は、倫理を法で縛ろうとするところ、である。一切逸脱が許されないルール(法)で趣味・嗜好の類を縛っちゃうと、いつの日か、間欠泉のような形で破綻を招くことが危惧される。破綻というと、ロリな人は政府による一層強烈な締め付け、なんてのを考えるだろうけど、必ずしもそればかりじゃない。逆に、日本の成人女性が男性からまったく相手にされなくなる、なんていう破綻もありえるかもよ? だって成人女性って賞味期限切れてるわけじゃない? そしてその価値観を、成人女性自らが認めてるんだもん。すごい話だね。

階層化して結婚や育児に異様なコストのかかる社会でも、エリートはおそらく結婚して育児を続けると思う。そうすることがエリートの証だから。逆に言えば、そうすることが責務であるという信念を持てるのがエリートだ。で、それ以外はどうすればいいのかな。ジワジワと広がっていくカースト制みたいな階層感。

(46)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:18

パンツが好き

パンツが好き

パンツスキー博士!! 左側のウサギ耳の子、多分パンツはいてないです!!

『やっぱりパンツが好き』の表紙・ジャケット。オリジナルの縦横比は 4 : 3 ではなく、37 : 25 だったので適宜引き延ばし。今更ながら、マンホールの存在が謎です。多分、描けて嬉しかったのかと。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-05-22 03:09:23
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