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音楽教育

俺の母親は音大出だったりする。という話を他人すると、じゃあさぞかしたんまり CD を持ってるんだろう、などと思われることも多いのだが、なーんとほとんど持ってない。というか、アナログレコードも含めて、母親が所有している音源というのは限りなくゼロに近い。じゃあ聞きたい音楽ってのがあったらどうするのかというと、「君をのせて」から「悲愴」まで、楽譜を買ってきて自分で弾いたり歌ったりしてるのだ。だから俺は、音楽ってのはそういうもんなんだと子どもの頃は思っていた。まあ無理矢理喩えれば、気にいったアニメの設定資料集だけ買ってきていきなり同人誌描いてるような、そういう状態だ。もちろんこれは、音大出の人間としてもかなり異様な嗜好であることは一応申し添えておく。

さて、音楽を楽しむ方法ってのに実はあまりバリエーションは無くて、個人や団体でβエンドルフィンとかアドレナリン出して多少なりともトリップするか、そいつをネタに知ったかぶってブチブチ自慢気に語るくらいしかない。クラシックを静かに堪能するのも、クラブで踊り狂って脳味噌をシェイクするのも、ピアノの弾き語りをするのも、結局は脳内で多かれ少なかれ快楽物質を出して堪能していることに替わりは無い。これはこれで人間の本能っぽいから、多いに分泌してトリップしよう。

問題があるとすれば、音以外の要素で逝っちゃうところだろう。世の少なからぬ厨房は、バンド活動だなんだと「音楽をやっている」というポーズをするが、実は彼らは、音楽を演奏したり作ったりするのが好きなんじゃなくて、「音楽を演奏しているカッコイイ自分を周囲がちやほやしてくれる」ってのが好きなだけだったりする。例えば、「ビジュアル系」というイタい用語が、この構図を象徴している。だって、音楽なのに「ビジュアル」系っていうことは、重要なのが「見かけ」であって、音そのものじゃぁないってことだよね。ヤレヤレ。なんでこんなんなってるのかというと、世の音楽産業がそういう売り方をしちゃったからである。音楽を売るのではなく、音楽を消費するスタイルを売っちゃったのだ。だから、少なからぬ自称音楽好きな人たちは、音楽が好きなのではなく、音楽を消費するスタイル、すなわち流行が好きなだけだ。

その点、今のヲタ同人業界が面白いのは、「同人やってる俺様」ってのは全然かっこよくなくて、周囲も(絵描きにあこがれてる人が想像するのとは違い)全然ちやほやしてくれなくて、それどころかむしろ積極的に周囲から叩かれかねない状況であるにも関わらず、それでも描いちゃういい年をした大人たちが、それはもう大勢いるというところだ。つまり、みんなエロい絵描いたり本創ったりりすること自体が好きなんだね。

まあ、音楽ってのは「時間芸術」であるから、記憶力を用いて「今何が起こってるのか」を順次整理していかなければならない。だから、複雑な作品を鑑賞するにはかなりのトレーニングがいる。ヲタ絵も、鑑賞には結構トレーニングが必要だと思うのだが、なんと言ってもビジュアルは性欲に直結できる。この刺激の差が、人を惹きつける力の差になってるのは確かだ。こんなことは当然音楽業界の人たちも分かっているから、どうやって人を惹きつける視覚的刺激を用意するか考えた。確かピーター・バラカンがどっかで紹介してた逸話にも、「プレスリー程度に歌って踊れる黒人なんかゾロゾロいたけど、売れるためのかっこいい白人がずっと求められてた」、というのがあったように思う。そして、視覚的刺激やタレント的なかっこよさというものは、音楽の「つかみ」であったはずなのに、いつの間にかその主従は逆転してしまった。

結局ですね、今音楽業界がスゲェ勢いで衰退してるのって、そういう背景もあると思うわけですよ。鑑賞に必要なトレーニングを受け手に一切積ませないまま、トレーニングをあまり必要としない「見た目の刺激の付属品」として音楽を売ってしまった。まぁつまり、無茶苦茶にマス化し過ぎてるってことだな。

(45)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:48

無意味の痛み

心理学には、強制承諾という、面白い考え方がある。認知的不協和理論という理論の一部なのだが、はしょって説明すると、辛い経験をした人に「自分の経験は全然辛いものではなかった、いやむしろ楽しかったよ」と嘘を吐かせると、本当に楽しかったと信じるようになる、というものだ。

これは有名な実験だから聞いたことのある人も多いと思うが、あるつまらない単純作業をさせられた被験者に「この実験は楽しかったと他人に言え!」と金で強要する。この時、1ドルで強要された被験者と、20ドルを渡された被験者とでは、どちらがより「あの単純作業は楽しかった」と思うようになるだろうか。

答えは、1ドルを渡された被験者である。

20ドルもらった被験者は、つまらない作業をさせられてしかもそれが面白かったと他人に嘘を吐いたけど、まぁ20ドルもらえたからいいか、と自分を納得させることができる。でも、1ドルを渡された被験者は、つまらない作業をさせられ、しか嘘を吐かされたのに報酬はほとんどゼロである。とても理不尽だ。

だから、1ドル組は「あの実験は無意味じゃなかった! 楽しかったんだ!」と自分の認識を変えてしまうことで鬱屈する不満を解消しようとする。さらにとてつもなく厄介なことに、自分が認識をゆがめてしまったことに全くの無自覚である。人間て、自然に「ポジティブシンキング」やるんですよ。

例えば、レベル積み立て型のネトゲは、プレイヤーの爆発的な労力を必要とする。だから、ひとたびその労力をかけてしまった人間は、そのゲームがどんなに糞であってもなかなか否定することができず、楽しい楽しいと繰り返し周囲に主張することになったりして、そのうち本当にそう信じられるようになったりする。

さて。「野球部の練習は大変だったけど、今となってはあれだけしごかれたのもいい思い出だ」、「あのプログラムの仕事は大変だったけど、今となってはあれだけ残業させられたのもいい思い出だ」、「アニメーターの仕事は大変だったけど、今となってはあれだけ低賃金<以下略>」、「ベトナム戦争は大変だったけど、今となっては<略>」、「太平洋戦争<略>」。過去の辛い経験を美化しだしたヤツの言うことには要注意である。

このレオン・フェスティンガーの理論を自分に当てはめるのはムチャクチャにイタいので、丁寧に考えていくと鬱になる。

あなたの辛い経験は、全くの無意味かもしれない。人間は、無意味という痛みに耐えられない。そして、信じたいものを信じる。もしその時信じたいものがなければ、自分で作ってしまう。現状を変えるより、その方がずっと楽だからだ。

(63)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:50

エトナたんマンセー

わーい、ちょっと今さらだけどエトナたんゲットー。ほんとだパンツ履いてなーい。(ぇ

(54)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 22:21:45

バカと小利口

情報処理界の非常に根深い問題として、エンドユーザの技術レベルや情報リテラシが向上するというドリームの実現については全く期待ができない、という点がある。というか 1mm たりとも期待してはいけない。アラン・ケイやテッド・ネルソンは夢を見られたかもしれないが、まだ夢みてる人は正直あんまいないと思う。だから、最もバカで DQN で救い難いほど愚かなエンドユーザに合わせて、システム全体をきつめに制限する仕組みを、技術的な部分のみならず社会的にも作ろうとすることになる。例えば、法とか倫理とかライセンスだね。

でも、技術に明るい小利口な人間は、こっそりそのシステムの制限をすり抜ける技術をみつけたり作ったりして、こっそり利用する。クラッキングってのはね、クラックしてることがバレたら、誰がクラックしてるのかはバレなくても、もう終わりなんだよ。誰にも気付かれずにリソースを使い続けるってのがクラッカーの究極の目的だからだ。で、小利口な人間はこっそり利用しながらこっそり技術を磨き、こっそり情報を蓄積し続ける。インフォリッチとインフォプアの差は一層拡がっていくわけだ。そうすると、ますますシステム全体をきつく縛る技術的・社会的枠組みが作られる。しかし、小利口な人間はその枠組みを迂回するズル賢い方法を必ず見つけ出す。だって小利口なんだもん。

そうして、ネットワークは徐々にバカ向けと小利口向けに二分化していく。インターネットって、そういう弱肉強食な世界を目指していたんだっけ?

村井先生、俺は、既存の IPv4 と互換性のない IPv6 の導入が、そういうニ分化に一役買いそうな悪寒がするんですけど。そこら辺も、是非上手く政治的にグルグル手を回してください。おながいします。

どうでもいいけど Cliff Martinez 萌えー。って彼の作品に萌えられるのは、相当なミニマリストかアンビエントテクノ愛好家のみですのでご注意を。

(45)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:53

分類学

2ch を含め世間一般では、小熊英二氏を左翼だと思っているらしく、またもう1人の俺的恩師、福田和也氏はギンギンの右翼だと思われているらしいし、さらに、俺的チョーおっかない人である大塚英志氏も左翼っぽいと思われてるらしいのだが、はっきり言ってそんな分類は巨大な勘違いである。

大塚先生や福田先生は個人主義というか自由主義なお方である。これを 2ch 風に分かりやすく言うと、「DQN は DQN で勝手に生きてろ。でも俺様チョー優しいから時々は生暖かく見つめてやるぜ」となる。

一方、小熊先生は民主主義の理想を根っこに持っているお方であって、これも 2ch 風に分かりやすく言うと、「モマエラ、頭が良いなら DQN を DQN のまま放っておくのイクナイ。まあ面倒は見切れんけどナー」となる。

日本には両者の考え方を折衷した自由民主党という素晴らしくわけの分からない政党が頑張ってるお陰か、自由主義と民主主義がごっちゃになっている高校生なんかもいるかもしれませんが、そういう時はこの例を思い出して乗り切ろう。

……えーっとお三方はこれくらいの戯言で怒られる方ではないと思うが、これらはあくまでも冗談であることを一応申し添えておく。小熊先生、大佛次郎論壇賞ゲットおめ。なんで授賞式はスーツじゃなかったんでつか。

(44)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:54

仕様と呼ばれるもの

なんか今更な発見なんですが、SUSIE って、プラグイン一切無しの素のままで PNM 読めるんですね。正確には、binary(raw)モードの PPM(フルカラー) と PGM(グレースケール) に対応してやがります。バイナリモードの PPM や PGM は、BMP(DIB)とほとんど変わらないとは言え、イメージの縦・横サイズとビット深度は、アスキーな PPM ヘッダを読み取らないと分からんわけですから、明らかに意識して対応してやがるのに、何故かこの件については一切 たけちん さんから情報が公表されてないという不思議。せっかくだから、Google でひっかかるようにここで発表しておこう。ついでに、PBM は非対応でした。もしかしたら開発環境のなんかのライブラリが PPM と PGM だけ扱えるようになってるんだろうか。

ちなみに、古い OPTPiX 1.2 で試したら、PPM と PGM は、それぞれ RGB、グレースケールの RAW のベタ画像と判断して、横幅 640 ピクセル固定で読み込むようです。OPTPiX も PNM 対応についての公式アナウンスは一切ないんですが、VGA サイズの画像は扱えるってことになります。ウェブ用途というより、ゲームなどの減色をターゲットにしてる OPTPiX らしい割り切りかもしれない。しかし、PPM と PGM の区別が付くってことは、P? のマジックナンバーだけは拾うのに後は読み捨ててるってことだろうか。おもしれー判断するなぁ。

こういうブラックボックス状態で処理結果だけ眺めてても、コードを書いた人に共感したり首をかしげたり推理をめぐらしたりする瞬間というのがあるわけで、プログラムの「思想又は感情を創作的に表現したもの」としての側面を感じます。何気なく「仕様」と呼び捨てられてしまうものにも、何らかの考えがあるはずだと推測するところが面白い。

(51)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 23:14:06

宿業

あまぞんでウロウロしてたら、こういう 8 歳の女の子の水着写真集なんぞをお勧めされてしまった。お勧めされただけならまだいい。それは既に持っている。なんて業が深いんだ。

芸能人というのが何故比較的高額の報酬を得られるのか、考えてない人が多いように思う。彼らは、勝手に晒し者にされない権利、すなわちプライバシーを売り飛ばして金に替えているんである。ここでいうプライバシーとは、お昼に何を食べたとか昨日何時に寝たとかそういうことのみならず、「見ず知らずの他人が自分に対して何らかの感情を想起しない権利」、とでもいうようなものだ。

例えばキムタクを見た人全員に、カッコイイとかクールだとかのプラスの感情ばかりが起こるわけではない。芸能人にあこがれる多くのワナビー達は、自分の周りを好意的な感情を持った人間が取り囲んでちやほやしてくれるものだと信じ込んでいるみたいだが、とんでもない誤解だ。人の目に晒されるということは、整形だとかチビだとか体臭そうとか顔だけだとか頭悪そうとか傲慢だとか性格最低とか DQN だとか、そういった批判や悪口や嫉妬を投げつけられるということでもある。たとえ面と向かって悪く言われなくても、他人が心の中で自分を悪く思っているに違いないという被害妄想に陥ってしまうのは、大変容易だ。そういう悪口雑言をやり過ごしながら人前では常に笑顔をキープしていかねばならない。とても精神力を要求されると思う。その代償が高給なのだ。いや、かなり成功しない限り実は全然高給じゃない。よほど神経の図太い人でないと、あまり割に合わないと思う。

作家というのも同じようなもので、編集の言いなりになってわずかばかりの原稿料と引き換えに自分の書きたくないものを書かされ、クオリティを維持できない自分の技量の無さを再認識させられて精神的に滅入ってるところへ、2ch で自分をボロクソに叩いてるスレ発見して鬱スパイラル突入なんてのは、よくあることだ。俺が佐藤友哉の『クリスマス・テロル』を高く評価しているのは、彼がこういった切ない構図を、怒りに任せて毒づきそうになる気持ちを何とか抑えて、ギリギリのメタ小説という形に昇華させた、その精一杯の感情がよく伝わってくるからだ。

もちろんアイドルというのも同じことであって。というわけで、お子様写真集とか見ると、この子はこういうこと全然考えてくれない親を持って不運だなあとか思いつつも、やっぱり買うわけだ。実に業が深いじゃないか。ゴーゴー。

(42)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:56

2004年あけましておめでとうございます

2004年あけましておめでとうございます

もう新年明けたことなんか完璧に忘れそうな勢いの1月下旬、ついに萎えヒモを描いてしまった。

完成版

(44)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-05-22 03:09:24

メラメラ

「ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者ではなかったので何もしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者ではなかった。そこでやはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ教徒が、というふうにつぎつぎと攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかった。さてそれからナチは教会を攻撃した。私は教会の人間であった。そこで自分は何事かをした。しかし、そのときにはすでに手遅れであった。」

ドイツの牧師ニーメラーのこの警句は、体制側が何らかの規制をちらつかせた時反対を表明する陣営によく援用される。無策でいることの切迫した危機感が伝わってくる、強い警句だと思う。ニーメラー本人にとっては血を吐くような後悔、懺悔の言葉なのだが、現在引用する人達は単に過激な表現で受け手の恐怖感を煽ろうとして用いることが少なくない言葉でもある。

ナチスの支持率は軽く 90% を超えていた。飴と鞭の政策だったとはいえ、逆に言えば、9割 以上の人間にとっては、実感しにくい末節の人権、パンとサーカス以外なんていうもんはどうでもいいのだ。例えば「表現の自由」。みんな大切なモノのような顔をしてはいるが、本当に表現の自由が失われて痛みと感じる人間が現在どれくらいいるだろうか。今後は、為政者の悪口を言えないというような規制ではなく、もっと上品に規制されることになろう。例えば刑法 175 条の拡大解釈とか。9 割以上の人間は、そもそもほとんど表現活動自体を行わないし、制限されたコンテンツの消費だけでも平気で生きていける。現にアメリカでは、制限されまくりのディズニーくらいしかまともなアニメ作ってないけど、ほとんどの人平気じゃん。それどころか、表現物なんか全く消費せずとも平気な人がかなり存在している。

ニーメラーの警句を引用するような人には、直接弾圧される極少数の側が蚊の鳴くような声で唱えてる主張に異様な程共感して、盲目的に自らの意見としてしまう人が少なくない。そしてこういう人達は、一昔前の左翼運動家的に体制側を声高に非難しがちだ。だが弾圧される当事者達には下手をすると却って迷惑だろう。

共同体意識に埋もれるのを心地好く感じている大多数の人達を批判したり、体制に反発することをカッコイイと思うのはとても容易なことで、日本では安保闘争時代に多くの若者がその陥穽にはまった。だが、そんな考え方では、多数派 90% の人間を口説くことなんてできはしないのだ。傲慢な啓蒙的手法なんて、誰がありがたがって聞くだろう。体制側がどうやって自らの意見をコモンとしたのか熟考し、そういう政治的な手練手管をもっと考えるべきなのだ。政治手法というものは決して理想通りの綺麗なものにはならないと思う。でもそういった現実的な妥協ができない人達で構成されている組織、例えば共産党や社民党は潰れかけている。彼らは、なぜ「野党は反対するだけ」と揶揄されているのかを全く自覚できない。自民党は、どうやって人を手玉に取ればいいかを知っている。この差は大きい。理念という、手に取れない「ステキなモノ(ただし自称)」だけ唱えても人は動かない。そしてニーメラーの警句のような文言は、啓蒙的理想を聞かせるための脅し文句として使うべきではないと思う。

(42)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:58

レッシグは偉大だが全てのレッシグ支持者は偉大ではない

このままじゃ、クリエイティブコモンズは、一部のインテリとそのフォロワのオナニーで終わると俺は思う。GPL がある程度成功しているのは、ソースを書く「クリエイタ」は大体インテリでもあるという、2 層が一致する極めて珍しいケースだったからだ。現行の著作権法だって満足に浸透してないし、GPL をちゃんと理解してる人だって多くはない。そんな状態で、クリエイタに多くのリテラシを求めすぎ。クリエイタにとっては、そんなメンドイこと考えるよりなんか創る方が大事ではなかろうか。中間搾取してるだけにしか見えないレコード会社だって、クリエイタを雑務から切り離して創作に専念できる状態を作るってことも、やって来てるんだよ(でも、みんなクリエイタって存在にドリーム見過ぎ。実際は泥臭い非創造的作業も少なくない)。そうはいっても、そうやってクリエイタを「保護」してあげよう的な考え方って、コモンズが求める世界とは逆になるわけじゃん。クリエイタには、要するに自立が必要なわけよね。自立っていうとカッコイイけど、じゃあ、みんな会社や学校辞めて自分の腕だけで食っていく覚悟ができる? もともと身分の不安定な多くのクリエイタにとって、編纂業務を行っている企業というのは、数少ない拠り所の 1 つなんだ。それを切り捨てろというのは酷だ。というわけで、状況がもっと切迫しない限り、CC なんてムリではなかろうか。

……と俺は漠然と考えるわけだ。もし今のまま CC が広まったとしたら、CC層 と 非 CC層 の分化が起こるような気がする。おお、一転してアカデミックな表現だ。んで、それは、如実にリテラシの差を反映してしまうのではないか。クリエイタとしての技量なんかは関係なく。だってさ、『コモンズ』って、気楽に読める本ではないじゃん。これちゃんと読んでちゃんと理解してるのってどういう人達? 少なくとも貧乏クリエイタ層じゃないよね。で、そういう理解できる人ってどういう社会的レイヤにいるの? 利益が非明示的で啓蒙が必要な変革! オワットル。つまりさ、そういう形での「変革」って多分ムリなワケよ。まあ、そういうのを信じて実行するのがインテリの責務なんだって言われれば、そうなのかもしれない。でもこのパターンでは歴史上に失敗例が豊富だから俺は全く期待できない。

110年前に作られた曲『ハッピーバースデイ』さえ自由に歌えない ような現状に変革を起こしうるとしたら、とてつもない能力と影響力を持ってるクリエイタが、多数のファンと共に、「変えちまえ」と唱えた時くらいだろう。だからさ、どうせ啓蒙ならもっとそういう方向で動いて切り崩す方が早いんよ多分。

(45)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:59:00
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