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七夕妄想解釈

織姫は、その名のとおり機織を生業としていた女性であったのだろう。牽牛も字のとおり、牛を飼っていたに違いない。牧畜なのか農業なのかは分からないが。つか、これまともな名前じゃねーな。むしろ職業名か称号みたいなもん? 記憶を振り絞って七夕の伝説を思い返せば、“働き者だった 2 人が結婚したところ、いかがわしい 18 禁な行為にばかり勤しんでいるので、その熱愛ぶりに嫉妬した 怠惰に激怒したエラい人だか神様だかが天の川の両岸に 2 人を引き裂き、年に1度の逢瀬のみ許した”、というものだったと思う。

さて、このお話がいつ生まれたものなのかは知らないが、暗示されている教訓を抜き出すのは簡単だ。

  • 男は外で仕事しろ
  • 女は家で働け
  • 昼間っからやりまくってんじゃねぇ
  • がんばってればたまにご褒美あるんだから、なまけるな

これらから、この物語の聞き手として想定しているのがどういう人達なのか妄想してみよう。

まず、男女の理想像が描かれそれぞれの社会での性的な役割(ジェンダーね)が固定しているということは、職業が専門化し分業が行われる社会になっているということだ。社会が複雑化し高度化し様式化していなければ、この物語は通用しない。また、「やりまくるな」という教訓が含まれてるということは、逆に言えばそれなりに遊びでセックスするくらいの社会的な余裕はあるということでもあろう。現代の日本において、「ひきこもるな」と社会がメッセージを発するということは、ひきこもりが存在するだけの社会的な余裕があることを意味しているのと同じだ。それに、もし戦乱などで人的リソースの損耗が著しい場合は、産めよ殖やせよ的スローガンになるはずだから、爆発的な人口の増大を求めない、安定して平穏な社会であることがうかがえるだろう。ちゃんとご褒美を毎年用意できるというところからも、社会の安定がうかがえる。

なんか、これってこの前までの日本の姿に似てるような気がしない? 高度経済成長期を知っている大人がその子供に聞かせるのには、なかなか悪くない題材なわけだ。だから、我々はこの物語を知っているんじゃないのかな。

こういった物語は、時代によって細かい部分が変わっていく。それは、社会がそうあることを求めるからだ。今発刊されている絵本の桃太郎は、鬼を殺さなくなっているという。かちかち山の狸も死なないみたいだ。子供のときからそういう話ばかり聞いていれば、昔はどういう話だったのかなんて誰も気にとめない。そういえば、数年前には『本当は恐ろしいグリム童話』なんて本が売れたよなぁ。グリム童話だって、社会の求める姿にだんだん変形していった。もともとディズニーのような脳内お花畑満開のアメリカ的ハッピーな物語というわけではなかった。というわけで、すっかりおなじみの七夕の物語も、歴史と共に変わってきた部分があるんじゃないかなぁ。もし大きく変わってないとしたら、受け入れられなかった時期や地域というのが存在しているんじゃないだろうか。

今のところ詳しく調べてみる気はない。まあでも、誰か調べてそうだなぁ。

(44)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:23

嘘吐きで臆病で親の顔色うかがっていた元子供達へ

アリエスは『子供の誕生』という著書で、「子供」という概念は近代ヨーロッパ以後の産物であると述べている。それ以前に子供という概念は存在せず、ただの小さい人間というだけだった。大人とは、理性的な判断ができて社会に参加できる人間だけど、子供はそれができないから、親や社会が愛し保護し育まなければならない。今の人間はそう考えてると思うが、そんな考え方は実は普遍的ではない。近代以前は、貴族などの特権階級を除き、幼くてもすぐさま職業訓練を受けさっさと働いた。親が愛し保護する存在ではなく、社会人として生かされた。今でもアフガニスタンやウガンダで少年兵というのが問題になってるが、近代ヨーロッパの洗礼をあまり受けていない彼らの考え方としては、少年というただちょいとばかし小さいだけの「大人」が武器を持って戦うのは、極めて当たり前のことなのだ。

子供が無垢だ純粋だ、という考え方は幻想だ。それは自分の子供の頃を思い返せば分かるだろう。あなたは子供のとき嘘をつかなかったか? 親や先生の顔色をうかがっておもねらなかったか? 中学生の頃は親を口汚く罵倒しなかったか? そんな人間のどこが無垢で純粋なんだ? 年を経るとこの程度の自問自答さえ忘れてしまうのだろうか。子供(といわれる人間)は、無知ゆえに、価値判断が単純なだけだ。感情のコントロールも上手くないことが多いから、些細なことでも単純に喜んだり、単純に怒ったり、単純に悲しんだりする。それを大人が良いように誤解して、純粋だ無垢だとレッテルを貼ってしまう。巨大な勘違いだ。

単純な人間は、喜びを爆発的な身体表現で表さざるをえないから、嬉しいとぴょんぴょん飛び跳ねて駆け回ったりする。例が不適切かもしれないが、知的障害を負っている大人の方々が同様の身体表現をされているのをご覧になったこと、あるだろう? 当然怒りも同様で、かんしゃくを起こして周囲のものに八つ当たりしたりする。ある程度感情を抑制できるようになれば、「殺してやるっ!」なんて表現を人前で行うことは自然になくなる。子供は純粋なんじゃない、ただ脳味噌が単純なだけだ。

でも、いくらアリエスが相対化してくれたとはいえ、近代西欧の考え方が広まり、分業の徹底と技術の複雑化が進んでしまっている現在、大人と子供を分類してしまう考え方は、もう後戻りできないと思う。だから大人は考えなければならない。「殺してやるっ!」以外の「理性的な」感情表現をどう自分が身に付けたのか。どう感情を抑制すればいいのか。その殺してやりたい相手にどう自分の意図を伝えて妥協していけばいいのか。道徳や(一部の)哲学というのはこういうときに使える知識なんだ。日の丸や上っ面の親孝行ばかり教えてていいのか? それこそ国が滅ぶぞ。

例のネヴァダたん事件についてはりそりょ氏の物語的解説が卓出してると思う。

(43)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:25

motivation

(インターネット上の不正コピーが横行している現状では)「音楽で生計を立てられる見通しが立たなくなる。そうしたら誰も音楽を作らなくなる」。RIAA(全米レコード協会)のお偉方が以前 NHK スペシャルの番組で語っていたことだ。俺はヤツに言ってやりたい。「日本のヲタクどもを見やがれ。絵で生計を立てられる見通しなんか立たなくたって、誰もが絵を描き続けているぞ」。

著作者を法律で保護すれば、著作者のやる気が出て表現活動を活発に行うようになり、ひいては文化が発展するというインセンティブ論は、一面の真実であるとは思うが、作り手はそれだけで動いているわけではない。金がなくても時間がなくても、命を削って描く人は描くし、作る人は作るんだ。作り手のモチベーションの少なからぬ部分は、インセンティブ論者や自然権論者が考えてないところから沸いている。そりゃ目の前に山があれば登りたくなるし、タブレットがあればなんか描いてみたくなるし、ピアノがあったら弾いてみたくなるんだ。

この情報時代、著作権法がどんどん改悪されてるのになぜ著作者はなぜ声を上げないのかっていう疑問が法律周りの人なんかから時々出てくるんだけど、この単純な創作欲みたいな感覚の分からない人なんて、作り手からみたら完全な異人種で、おそらくそいつは俺たちとは共通の言語も感覚も持ってない。はっきり言って、そいつらは金のことばかり考えてるように見える流通のやつらより、作り手からは遠いところにいる。レッシグを知ってる人が同人界にどれだけいる? そんな言葉の通じない人間を口説いてるヒマなんかあるかバカバカしい。それより次の描きたいもののことで頭がいっぱいなんで早く帰っていいですか? 作り手の発想とはそういうものだ。だから、社会システムを作ろうとする人たちは、そういう無茶苦茶ワガママで社会性がなかったり、社会のことに致命的に無知な人たちを守ろうとしてるんだという自覚を持たなければならない。全員に社会性を持たせようなんていう発想は上手くいきっこない。その手の試みは共産主義でコケた。

(44)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:26

raison d'etre

実は今年の 4 月から所属する組織が 1 つ増えたのだが、そしたら「なんでこういうオタクな絵を描くの?」っていう理由の精神的な面みたいなものを尋ねられることが多くなって、ちょっと困ってる。なんで描くって、喜んでくれる人がいるからとか、〆切があるからとか、イベントがあるからとか、そういう表向きで分かりやすい理由もあるし、また、作り手の数が増えれば増えるほど競争が盛んになるわけで、間接的にオタク層全員の技術アップ、ひいては文化振興にまで貢献することになるから、とかいう社会的理由をでっち上げることもできる。そういう時だけ口達者だから。でもなぁ、そういうのって、当たってもいるけどちょっと違うんだよなぁ。

なんで描くのかって、そりゃやっぱ単純に描きたいからでしょ。

ってこれで終わったら中学生でも書ける文章だから、もう少し考えてみよう。

俺がこういう絵を描き始めたのは高校くらいからなわけだが、ぶっちゃけオタクな絵を描くのってのは俺にとっては性欲の昇華だったんだろうなぁ。まあこれはフロイトっぽいというか、絶対に反証不能だけど一見理論ぽく見えるラカン大好き斉藤 環風のインチキ文になりそうだから、あまり長く書くは止めとこう。彼の胡散臭さを一発で看破した私の現在の恩師、ナイスです。閑話休題。まあつまり、俺の近くに、オタクなかわいい女の子の絵を描くって行動をしている人がいたわけなんですね。だから、俺はその人の「欲望のモデルを模倣」したわけだ。とジラールだかなんかのパクリっぽいことを言ってみよう。

でもまぁ、いい年してオタクな絵を描くっていう欲望のモデルはあんまないので、実は結構みんなビビりながら描いている。この手の世界のリーディングエイジは 40 過ぎくらいでしょうか。2ch にも将来を不安がる同人屋のスレとかあるわけだし、老後の話題は最大のタブーと断じる上に、ゲーム業界の方がもっと非道いと適切に指摘されるアニメ業界の中の人 もいたりして、他に職業持って片手間な人はまだマシだけれど(とはいっても出世街道からは確実に外れていて給料泥棒化することが多いわけだが)、同人とイラストとエロマンガとエロゲンガーとかを適当につまみ歩いて食おうとしてるような人達の未来は決して明るくないわけですが、それでも全然絵を止める気にならないのは、やっぱ楽しくてたまらないからなわけでしょう。10代の頃は、絵を描くという行為の土台に性欲があったとしても、段々歳を重ねてくれば自然に性欲は枯れてくるし、そのうち絵を描くこと自体が自己目的化して描くこと自体が純粋に楽しくなってくる。それに、いまさら他のこともできやしねーなんてことになったら、もう抜けられやしないのだろうよ。たとえ 30 過ぎて年収が 100 万台な生活でもね。

まあそういう実情を全然知らないで、絵を描くこととかを文化だなんだとむやみに礼賛したりするマスメディアとか似非評論家とか、著作権料のことしか言わない流通関係者なんかは氏ねとか思うわけだ。最後のはあんま関係ないな。直接は知らないけれど、音楽の世界も同じようなもんで、やっぱ食えないんだろうね。というわけで、ほとんどの人は 10 代か 20 代前半くらいでこういった世界を抜けていくわけだ。音楽や絵画といった文化っぽいもの(サブカルだけど)の製作に関われるチャンスが、親の庇護下にある時くらいしかないってのは、悲惨な自称「文化国家」だよねぇ、日本。

と、ここで終わるのもシニカルなだけなので、どうすればマシになるかってことを考えるわけだが、これがもう絶望的に手段がないんだよね。今日、散々騒がれた CD の輸入規制を認める著作権法改悪案は可決されたわけで、めでたく CD というメディアの滅亡に一役を担うだろう。なんかさぁ、後ろ向きだけど、もうちょっと「頭のおかしくなさそうな人」を国会議員にするしかないのかねぇ。自民だ民主だ共産だっていう枠組みを糞転がしみたいに戦前からズルズル引きずってなくて、クリエイタとかコンテンツとか表現の自由とか萌えとかロリとかに理解があって活動してくれるナイスなキチガイ、略してナイスガイな政治家モトム。絶対にある程度の支持は取れるけども、全国的に広く薄い支持になりそうだから、今の日本の選挙区のように地域ごとに分割されてると当選が難しい。まったく、既得権益のカタマリじゃなどこもかしこも。いっそ投票用紙に「金子 勇」とか「ぴろゆき」とでも書こうかなぁ。

(41)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 20:13:25

花火

俺が、宮谷一彦という天才的画力をもったマンガ家を知ったのは、BSマンガ夜話が彼を取り上げた時である。伊達に人生の半分以上を岡田斗司夫的オタク作品消費にささげてたわけではない俺ですら、彼を知らなかった。彼の作品を読んだこともなかった。積極的に写真的な絵をマンガに取り入れたのは宮谷一彦が初めてであり、またその際にスクリーントーンを重ねる、削る、荒い網点を使うなどの、現代マンガでは当たり前となった技術を開発したのも宮谷であると紹介されていた。これほどの重要人物を、人生の半分はオタクやってる上にまだまだ現在進行形で、しかもちょっとは商業仕事もしたような人間が知らないのである。マンガの描き方的ハウツー本なら、10代の頃いっぱい手にしているのに。

まあ俺が無知なのだと言ってしまえばそれまでだが、そうすると話が終了なのでそれはあっちへ置いといてくれ。で、これほどのエポックメーカーなのに何故それまでの人生で全然触れてこなかったのか。一言で言えば、彼とは生きていた時代が全然違うからであろう。俺が生まれて初めてマンガという表現ブツを手にするころには、彼はもう商業連載をやっていなかった。だから、歴史をさかのぼって「教養」として知るしか手段は残されていなかった。そうなると、子供には普通は親が読んでいて残っているマンガとか、手塚治虫くらいしか手にできないのだ。俺が神保町の古本屋などで読子・リードマン的強引な書籍入手方法を駆使できるようになったのはせいぜい 90 年代に入ってからだし、その際も運悪く宮谷を知ることはできなかった。

かように、マンガという表現はとてつもなく共時的な、つまり作家と同時代に生き、作家と同時代の空気を共有していないと、一瞬にして消えてしまうはかないものだ。作家が命を削って描いた作品も、5年もすれば致命的に古くなり、10年もすればみんな忘れてしまう(ウェブの萌え絵なんてもっとサイクルが短い)。運がよければファンが作家と一緒に歳を取って作家を支えてくれるが、商業連載などの発表の場を持ち続けてないとそれもなかなか難しい。マンガ(とか俺がやってるようなこと)というのはどれもこれも花火みたいな一瞬のもんで、しかもその 99% くらいは地味でちっぽけな線香花火である。もちろん、それらは全て美しく見る者を楽しませる。でも、大きな打ち上げ花火をぶっ放せるのは極々一部だし、大玉を打ち上げたマンガ家でも人生明るいとは限らない。アニメ化されるほどの人気作家であった吾妻ひでおですら、仕事がなくなって肉体労働をしていた時期があるという。

一応、マンガ系の出版業界はそういう構造を理解しているから、同人とかウェブで過去の絶版作品を作者が無料配布したりしても、あまり文句は言わない。絶版マンガや単行本未収録作品を同人で出すのって、よくあるよねー。こういうのを出版社が見逃したり認めたりしてくれるのは、この業界が比較的良心的だからというよりは、「どうせ商業ラインで出してもそれほど金にはならないからどうでもいいやー」という「なあなあ主義」だからだとは思うけど、音楽業界なんかに照らし合わせれば、そういう手段を認めてくれてるってだけで十分にたいしたことだ。

だからさー、著作権著作権と金切り声を上げてる音楽業界とか映画業界とか一部のゲーム業界の人達もさー、せいぜいそれくらいには考えを軟化させたらどうなのよ。どうせ、資本主義社会の商業芸術作品なんて一瞬しか輝かない花火なんだから。でもみんな命削って花火作ってるんだからな。俺らはもっと花火が見たいんだよ。昔の花火も見たいんだよ。どうするのが長期的な利益になるかという視点を持てないくらい馬鹿な人ばかりではあるまいに。緩慢な自殺を試みているなら止めてやらねばなるまい。

さて、そんなことを考えながら渦中のダウンロード板なんかを見てみると、「これは京都府警との戦争である!! 47氏の遺志を継ぎ俺は ny を続ける!! ジークダウソ!!」なんていう、今は学生闘争の只中ですか火炎瓶投げますか的雰囲気が少なからずあって、警察は萎縮を狙ったのだろうが、なんだか逆効果著しい人もいるようだ。

(47)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:32

著作権法は何を守っているのだろう

特許法第一条には

「発明の保護及び利用を図ることにより、発明を奨励し、もつて産業の発達に寄与すること」

とある。これは、産業を発展させることがその目的であり、その手段として発明を保護すると読める(現在の特許法が本当に産業の発展に役立っているかどうかは大いに異論のあるところだとは思うが)。一方著作権法第一条には

「著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与すること」

とある。まず権利を定義し権利の保護を図ることで文化を発展しようという。これは、権利を保護することが法の目的であり、その結果として文化が発展するのだというように読める。つまり、根本的に法のスタンスが違うようである。それは、特許法には「発明を奨励」するとあるのに、著作権法には、表現活動を奨励するとは記述されていないところからもうかがえる。この違いはなんだろうか。

産業の発展は、国にとって絶対に必要である。産業がなければ国民は飯が食えないから、確実に国が破綻する。だから、産業を育成し保護するのは国として当たり前なのだ。では文化はどうだろう。文化は生存に必須ではない。日本国民は憲法で「文化的な生活」が保障されているが、何をどうすれば「文化的」なのかについては定義されていないから、「文化的」というのは大いに幅のある概念だろう。

だから、現在の著作権法が、産業として成立している流通業ばかり保護しているように見えても、国の立場としては決して不自然なことではない。そもそも、文化という得体の知れない上に生活に必要ではないモノを云々するには、全員が余裕で飯を食えるくらいの豊かさが前提となる。現代のイット革命な日本で著作権問題が派手に取り上げられる背景は、誰一人として餓えることのない豊かさと、実質識字率 100% という、国民の情報の受信と発信が可能になりうるための最低限の教育が達成されているからに他ならない。

逆から考えれば、そういった最低限の土台が整ったところで、ようやく憲法でうたわれている「文化的」とは何かを議論することができるようになったと言える。高度経済成長前にこんなことは議論できなかっただろう。著作権法は何を保護するべきなのか。産業なのか。それとも何か他のモノなのか。それとも、いっそ保護しないエリアを決めるべきなのか。それほど遠くないところから象徴的な逮捕者が出た今日、考えずにはいられない。

Winny が違法に使われることを承知で作られているのは紛れも無い事実だと私も思うが、立証は困難だろうから言い逃れできる道の方が太めなような気もする。でももし起訴されたら有罪にはなるだろう。それに開発者自身が、「今の社会システムに巨大な一石を投じて討ち死にするもまたよし」くらいの覚悟を決めているフシがある。もしかしたら警察は報復逮捕とか見せしめ逮捕みたいな低いレベルの動機で動いているかもしれないが。

でも一石を投じたまま終わられても困る。何とか著作権法を「文化育成」の方向へ向けねばならん。せめて、第一条に育成とか発展の一言くらい入れてくれ。そのために、「ある程度枠組みを作って後は放置」という姿勢を許容できるくらいには、国にもオトナになってもらわねばならん。文化大国になりたいなら、有象無象を有象無象のまま認める度量を持ってもらわねばならん。国が、というのはつまり、国民がということだ。

(45)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:33

つながってる?

日本は、文字の読み書きが出来ない(つまり文字通りリテラシのない)人がほぼゼロという、とんでもない国である。こういう国では、行政や社会サービスにおいて文字の読み書きができない人を取り扱う必要がないから、そういう人たちを表現する社会的に問題のなさげな言葉(つまり「文盲」以外の穏当な表現)が一般化してなかったり、役所をはじめとする社会システムも、そういう人の存在を考慮しないのが当たり前になっている。これを少しアカデミックに言えば、差異がなく均質化している分野や、分ける必要が無い分野においては、分けるべき言葉そのものが存在しない、ということになる。

これは、逆の方向から言うとそのまんまソシュールになる。虹は無段階に変化する色相のグラデーションだが、日本語だと赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の 7 色に分割し、英語だと藍色が抜けて 6 色とする。なんでそうなるのかというと、日本語には藍色という青と紫の間をさらに細かく分割する概念があったから、てな感じである。もし藍色という分類を知らなければ、青か紫のどちらかに押し込んでしまうだろう。

さて。現在の日本というのは、IP reachable も当たり前になってるわけで、IP のネットワークに接続することはなんら特殊な属性ではない。そういう状況で、ネットワークに接続する人としてない人とを分け隔てる言葉、例えば「ネットワーカー」や「ネチズン」といった言葉は必要だろうか。もちろん全く必要ない。当たり前の属性な上に、対立項はどんどん消滅していってるのだから。『CGネットワーカー自薦集』などという今から思えばややイタいタイトルの本に名を載せたこともある私なわけだが、「ネットワーカー」という言葉は現在では完全に死んでいる。

3月頃にアジア各国の大学関係者による情報環境普及についての発表があって半分眠りながらぐんにょり聞いていたら、韓国の発表者が積極的に「ネチズン」という言葉を繰り返し、自国に IP ネットワークが普及していることをがんがってアピールしていたのだが、これはもちろん「IT 国家をアピールする手法」としては間違ったアプローチであり、失敗である。本当に普及していたら「ネチズン」という恥ずかしい言葉は消滅しているからだ。

(42)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:35

脱イタタを目指して

情報処理周辺に関するマスコミの報道は、不適切な用語の使用や稚拙な背景知識など、かなり非道いデキのものが多い。例えば、asahi.comの 4月8日の記事には「他人のホームページに侵入」といった素敵に頭の悪そうな表現がある。わずか 3 文節のフレーズなのにもうツッコミどころ満載である。他にも、「ウイルス」や「HP」や「基本ソフト」などのイタい表現は尽きないし、横書きが標準のウェブ用記事でさえ、「マイクロソフト・ウインドウズ」や「グーグル」や「ホットメール」など固有名詞を必ずカタカナに書き下すもんだから、読んでて背中がむずがゆい。

で、マスコミの情報リテラシが低いと批判したり、所詮マスコミなんてダメなんだとペシミスティックになるのも簡単なのだが、そんなことはやり尽くされてるから、いまさらどうでもいい。ちょっと冷静に考えるべきなのは、マスコミの報道というものは、どのジャンルにおいても、この程度の浅い理解とイタイタしい言葉の使い方しかしてないのではないかという点である。

私が一応プロだと言える範囲は、大まかに言ってヲタと情報処理なジャンルであって、ここら辺にはまあそれなりの知識と技術を持っている。となると、そういった事象を扱う記述については、マスコミの不正確さに気づくことができるし、より正確な表現にして欲しいとも思う。だが多くの専門外の人にとって、緻密すぎるターミノロジは、全体像を理解する上で妨げにしかならない。だから、多数の人間を相手にせざるを得ないマスメディアがある程度粗い説明になるのは、仕方のないことである。

となるとである。新聞やテレビで伝えられる、政治やら経済やらについてのニュースも、その道の専門家から見た場合は、多分かなりイタイタしい文章に仕上がっているのではないか、という推論が成りたちそうである。まあつまり、マスコミに載ってる内容って、そのジャンルのプロからみたら全部イタいんだろうね多分。もちろん、そういった記事を引っ張って騒いでるだけの素人の会話は、もっとイタいことになっているのだろう。所詮、素人が素人向けに書いたものを素人が読んで分かった気になっているのだから。

じゃあ、そういった素人のイタい活動は無意味なのかというと、もちろんそんなことはない。専門家は、素人の輪の中から生まれてくるのだから。それに、全員が全てのジャンルの専門家になるなんてことはムリなんだから。で、もしよく分からないことがあったのなら、素人は専門家の助言や解説を利用してその現象を読み解いて、多少なりともイタくない理解へ近づいていけばいい。まあだから、一応マスコミは可能な限りそうできるための道を用意しようとしている。専門家呼んで解説させたりしてるよね。

ただ、その専門家を選定しているのが超素人の視点だったりして、イタい解説をするイタい専門家を呼んでしまうことが少なくないなんて点が悩ましいわけで。つまり、リテラシを高めるというのは、学ぶべき人物を鑑定する嗅覚を高めるということなのかもねぇ。

(45)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:36

はなし塚に続くもの

はなし塚という石碑が浅草の本法寺にある。東京新聞の記事から引いてみる。

戦時中、「廓大学」「明烏」「つづら間男」など五十三演目が世情に合わない「禁演落語」とみなされ納められた。戦後、落語家の手で封印が解かれたが、現在もその塚がそのまま残されている。

要するに、戦時に合わない「『不謹慎』なお話(ネタ)のお墓」だ。高座で演じられなくなったので、落語家がネタの弔いをしたわけだ。こう書かれると、『はだしのゲン』とか読んでる世代は、特高警察による激しい弾圧があったのか!? などと思いがちだが、それは誤解である。孫引きになるが小林信彦のコラムを引いてみる。

落語家たちが艶笑落語をやりません、などと誓いを立てたのは、文字通りのお笑いぐさであった。<中略>べつに弾圧ではなく、落語界が自粛したのである。

その他にも同様の指摘をしている資料は幾つかウェブ上にあるが、なんと、驚いたことに、飯のタネである落語のネタを、落語家自らが封じようと動いたのだ。そして、高座は時流におもねる漫談のような兵隊ネタ軍隊ネタで満ちたという。

実はこのエピソードは以前 NHK で流された古今亭志ん朝師匠の再現ドラマで知ったのだが、こいつはとても示唆に富んでいると思う。思想や表現や創作の自由の制限は、法的には何の拘束力もない、自粛から始まるのだ。

皆が自粛すれば、「そういった表現を行わない」ことは“常識”としてその業界に定着する。卑近な例だが、エロゲーで18歳未満の性行為を出さないとかね。18歳未満のキャラクターに性行為させる表現物の創作・頒布は、完全に合法であるにも関わらず、業界団体の自粛の一言によって葬られる。近親相姦ネタとかもな。そして、いっそう自粛が進み、その規制が完全な“常識”、すなわちタブーと化したら、堂々とその表現を規制する法律を作ればいい。そうすれば、そういった“常識”に則ってる規制の制定に反対するような奴は、非常識であり反体制であるといった認識がコモンとなるのは間違いない。その時はもうすでに、反対派が社会的な支持を集めることは難しい。タブーに理性は通じないんだ。

だから、あるジャンルにおけるコンテンツ規制で騒ぐなら、自粛が始まった時点で力いっぱい騒ぐべきなんだ。2002 年 4 月、うるし原智志氏が、コミックスでの未成年の性描写とその暗示について、「残念です」とおっしゃりつつ自粛に応じていた。当時は、この俺ですら K 川の編集に釘をさされたことがあり、それと合わせて俺はスゲェショックを受けてスンゲェ長いアジ文を書いたのだが、あまりに攻撃的だったので公開しなかった。うるし原先生が自粛に応じられたのは、仕方のないことだ。作家は、編集や流通の自粛には絶対に逆らえない。作家がプライオリティを持ってるなどと思うのは大きな間違いだ。そんなのは鳥山 明クラスの大作家センセイであって、多くの作家は、大企業様からお仕事を分けていただく中小企業の社長に過ぎない。同人誌なら大丈夫と思ってる人、印刷所が自粛したら本は1冊も刷れない。即売会が自粛したら全て販売停止だ。ネットなら大丈夫だと思ってる人、プロバイダやサーバ屋に自粛されたら、何も公開できない。違法じゃないコンテンツだって、自粛で遮断できるんだ。

自粛の後に続くものについて、思いを馳せねばならない。コンテンツを作ったり消費するのが大好きなら。

(44)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:38

許されざる者

日本人には、一人もバカはいない。いや、いてはならない。バカでいることは憲法違反だからだ。

国民主権とは、国のまつりごとを全国民が行うということである。まつりごとを行うには、計画をたてたり、情報を収集・分析たり、意思決定したり、行動したり、結果を観察したり、欠点を反省したり、やらねばならぬことは山のようにある。日本国民全員は、少なくともこれらをこなせるくらいには優秀でなければならない。だから、バカでいることは罪なのだ。

まあ、もちろんこれは冗談だし、そもそも憲法とは国の姿勢を規定するもので個人が犯しうる法ではないわけだが、代表制民主主義という制度を敷いている以上、国民は、自分を代弁する為政者を「理性的に」選ぶだけの能力は持っていなければならない。だから教育は国民の三大義務だし、やっぱりバカでいることは憲法違反であって、「バカでいる自由」などというものは、ないのだ。

もし国が衆愚的な政治制度を敷こうとした場合、日本国民は理性的に判断しそれを止め、あるいは改定しなければならない。というか、そうするだけの理性があることを前提に、民主主義国家の憲法は作られている。なのに、もっとも民主的な国であるはずのアメリカ合衆国の様を見てると鬱になるのは、なんでだろう。

(43)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:39
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