『ズートピア』を観てきた。日本語吹替ばっかりなのでわざわざ六本木くんだりまで出向きましたよ。なお以下には平然と全ての結末までのネタバレを含んでおりますのでご注意下さい。
http://www.disney.co.jp/movie/zootopia.html
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この作品の中には、様々な社会的な対立の図式が埋め込まれている。
- 肉食か草食か
- 体が大きいか小さいか
- 男性か女性か
- 上司か部下か
- イジメる側かイジメられる側か
- 多数派か少数派か
- 都市か地方か
丁寧に観ればもっともっと見つけられるだろう。
『ズートピア』が上手いのは、こういう様々な対立構造を、自身の所属する社会のアナロジーであると解釈していくことが出来るようになっているところである。自身をマイノリティであると思っている人は自分への抑圧と似た構造を簡単に見つけられるし、実はマイノリティのつもりなのに抑圧側になってしまう自分に気づくことも簡単だ。「ウサギ初の警察官」という主人公に、「男性社会へ入り込んだ女性幹部候補」のようなアナロジーを見つけられない人はいないだろう。
注意しなければならないのは、これは何らかの「差別的」で「抑圧的」な構造を簡単に見いだせるように作られている映画だという点だ。この映画に「差別」とか「抑圧」が見い出せるのは、あなたが今いる社会がそのようであるからというよりも、「複雑な社会の問題のアナロジーを見つけ、自身の問題に引きつけて読んでもらう」ことが作品の目的の一つだからなのである。
http://moviepilot.com/posts/3613061
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俺が「おおっ!」と思ったのは、例えば、いかにも白人主流派に見えるJ・K・シモンズがライオンで、しかも市長をやっていると。で、そこにユダヤ系の女性ジェニー・スレイトが演じるヒツジを副市長に迎えているわけだが、その理由について「ヒツジの票が欲しいからでしょ」と言わせたりするのだ。これは「白人男性が、ユダヤ人と女性票を当てこんでますよー」っていう「中の人」の属性の置き換えになっている。それから、あのポップスターのガゼル、角あるからオスなんだよね。女性的に振る舞ってるし声は女性なのだけれどさ。
http://disney.wikia.com/wiki/Gazelle
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昨今の大統領選を眺めているアメリカの人だと、主人公が「肉食獣(プレデター)は遺伝子的に凶暴で」みたいなことを口走ってしまうところからは、その昔ヒラリー・クリントンが黒人に対して「スーパー・プレデター」と発言した騒動を思い出すらしい。まあこれは時期的に偶然ではあろうけれど、恐らく分かる人には、さらにしこたまアナロジーやらアレゴリーやらを見つけうる表現が練りこまれているのだろう。
繰り返しになるが、この映画を「社会問題を的確に描いていて素晴らしい」などと捉えるのは、視野を狭めるし表現の解釈を困難にするのでお勧めしない。身近にある社会的な対立を色々と連想させるように作られているのだ、と理解しよう。
しかも、上手いことにというか恐ろしいことにというか、意図的に矛盾を埋め込んである。先のガゼルもそうだし、白人女性が演じる女性主人公の前に立ちはだかるイヤな上司は、肉食獣ではなく草食獣のアフリカスイギュウだというところもポイントだ。草食獣の敵は別の草食獣。それを演じているのは、アフリカ系を両親に持つ黒人男性である。そして全ての事件の黒幕は、一見「弱者」なのかと思っていたヒツジ女性なわけで、彼女は「実は草食獣の方が強いのだ」という理屈を語る。「肉食獣が草食獣を支配している」という単純な発想に疑問を持たせるようになっているのは、この手の矛盾こそがこの映画の主題というか、前提になるからだ。
http://moviepilot.com/posts/3613061
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http://moviepilot.com/posts/3613061
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あと、あの主人公のウサギとキツネは惹かれ合う。しかし2人が子供を作れないのは確かだ。繁殖が同種同士でしか行われていないのは、ウサギの両親やイタチの夫婦で描かれている。ということは、ウサギとキツネのカップルはヘテロセクシュアルでありながら同性愛者のカップル、同性婚のアナロジーになっているわけよ。「彼らの関係は同性婚と同じでしょ、ヘテロだけど」という。どうだろう、こういう「矛盾」の埋め込み方の見事さ!! すっげー考え抜かれてるよね。
https://www.youtube.com/watch?v=IMueJrVnuEM
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ふんだんに散りばめられた矛盾から見えてくる「あなたの住んでいる社会が抱える問題に気づきましょう」というメッセージ、そして主人公がやっちまったように「あなた自身も問題の原因になり得るんです」という点、この映画はこの2つのメッセージを最前面に打ち出しているわけである。
この地球上のどこであっても、矛盾の無い社会制度などない。人種や宗教や性別や学歴や職業や年齢や、その他いろいろな属性がもたらす階層の違いという問題を抱えていない国もない。だから、この物語は世界的に「普遍性があるように見える」オハナシになっている。かくして、「自分は他人より頭が良い」と思っているスノッブどもは、入れ食いでこの作品を取り上げることになるわけである。「頭の良い私は社会の問題に気づいているぞ!」と一刻も早く喋りたくてたまらなくなるわけだね。
まあ、「こういう記事書いてるオマエも大概俗物だよな?」という批判は甘んじて受けることにしよう。
さて、そんな感じで何らかの「普遍性」を意識している映画ではあると解釈されがちであるようだが、しかし、俺はこの作品に埋め込まれている、恐ろしいほどアメリカンで普遍性に欠けるというか、はっきりきっぱりアメリカという国の宣伝映画になってる「臭い」の方を圧倒的に強く感じてしまった。それは決して悪いことではない。むしろこの作品は、別に時や場所を超えた普遍性があるわけではなく、現在のアメリカ社会に縛られまくって作られた、紛れも無く2016年を象徴するアメリカの作品だということである。
以下、特にその「臭い」の強かった点を3つほど取り上げよう。1つ目は「社会の問題は、我々が挑戦すれば解決出来るのだ」という発想が強いこと。2つ目は、「この社会はある種の嘘だがそれを守ることが正しい」という点。そして3つ目は「この社会を作った主体については積極的には考えない」というところである。
まず1つ目。「挑戦は素晴らしい」というのは一見正しいテーゼなように思えるが、人間が何かに挑戦するためには、挑戦するべき課題が何なのかをクリアにしておかねばならない。でも『ズートピア』の世界ではその点を悩む必要がない。とにかく「挑戦しない」ことを選んだ主人公の両親はその姿勢をはっきり否定されているが、しかし「今の生活を保守する」というのも結構な「挑戦」ではないのだろうか? などということを考えてはイカンのである。ヒネくれて詐欺師をやっていたキツネは、警察官としての生き方を選ぶ。そして詐欺師が警察官になるという挑戦も社会は許すべきでなわけである。そして挑戦すれば解決する。ヒャッハー、Tryは最高だぜ! 「挑戦すれば『何でも』出来るべき社会が正しい」というのは、俺自身も確かにそう言われればもちろん同意せざるを得ないが、これは強力にアメリカンなイデオロギーだ。「ボクの選択肢は本当にこの挑戦で良いのだろうか」「この問題は本当にこの解決法で良いのだろうか」などとウジウジ悩む余地はない。
そして2点目。こここそが『ズートピア』のイデオロギーの本当にスゲーところだと思うんだが、この作品は、「もしかしたら正しさってのは嘘かもしれない」というくらいの発想は織り込み済みで、「嘘でも良いから俺達は正しいと決めたことに挑戦するんだ!」という発想になっているのだ。例えば、肉食獣がDNAに従って草食獣を襲うことは否定されている。その方が「正しい」社会だからだ。ズートピアは肉食獣と草食獣の共存を要求している。そしてこの「正しい」共存は、どうしてもある種の嘘を含んでいる。何もしなくても肉食獣と草食獣が共存できるなら、「昔は肉食獣が草食獣を襲っていたけど今は違うよ!」などという劇を学芸会でやる必要はない。「昔は草食獣が肉食獣をイジメていたけど今は違うよ」という逆の設定の劇が行われ得るか? ということを考えてみよう。放っておいた肉食獣は草食獣を襲い得るからこそ、嘘かもしれない「正しさ」を共有して、肉食獣が草食獣を襲わないことを求め続けているのだ。そして、あの社会の草食獣はある時点で強さを獲得していて、圧倒的な数の力を活かせば肉食獣を隔離するなり、ぶっ殺し尽くすなりという社会が作れるということに気づいてしまうのである。でもそんな社会は実現してはいけないのだ。「正しい」ものではないから。
http://www.vox.com/2016/3/2/11147378/zootopia-review-disney
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「挑戦すれば何でも出来る」と主張する一方で、動物たちの体の大きさによる区別は許容される。キツネがゾウになれないことはどうしようもない事実で、「なれるよ」なんて言っちゃうのははっきり「嘘」である。体の大きさや気候に合わせた社会の区分けは、どうしても生存に必要なのだ。シロクマは砂漠には住めない。言うまでもなく、主人公が期待していた警察はかなりウンコな組織である。
さらに言えば、大きな獣が小さな獣を意図せず踏み潰してしまうような事故はおきているだろう。肉食獣の子供が悪意なくじゃれついただけで草食獣を殺してしまうようなことも起き得るだろう。そんなことがあれば、「互いに別の社会で生きよう」という発想にかなりの正当性があるように見えるはずだ。動物ごとにバラバラの国にするべき理由が、毎日たくさん幾らでも生まれていなければおかしい社会になっている。
しかし、それでも動物たちは一つの国を作らねばならない。主人公が警察官をやるのは「正しい」し、仔狐に向かって「ゾウになれるよ」と励ますのも「正しい」ことなのだ。そして「矛盾を抱えた社会をより良くする正しさ」に皆が挑み続けて、一つの国にとどまらなければならない。なぜかって? そりゃあ、あれは2010年代のアメリカ合衆国だからさ! 果てさて「民族自決」が盛り上がった時代にはこの世界は成立するのだろうか、みたいな疑問はどうしても出てしまう。
近代国家「アメリカ合衆国」が主張する自由や民主主義に「嘘」があるかもしれないことくらい、彼らアメリカ人は気づいているのだよね。それでもその「嘘」を貫き続ける者だけがあの国にとどまれるのだ。「嘘」を綺麗な言葉で言うならば「理念」であり社会契約だ。有馬哲夫は、ディズニーがヨーロッパの民話を元ネタとしながら、新しい国家アメリカの「嘘」を支える物語を紡いでいったという史観を分かりやすく示している。ディズニーは、アメリカの民話をある意味で捏造し、未だに捏造に成功し続けている会社であるわけだ。アメリカのディズニーランドに大統領館があるのは伊達ではないのである。
3点目。さて、一体誰があのズートピアという高度な社会システムを作ったのだろうか。なぜあんなに科学技術が高いのか。あの社会を維持する食料生産インフラ(昆虫由来のタンパク質を食べているらしいが)は、膨大な人口をカバーするエネルギーは、巨大なアイスクリームを作るための電力は、その発電と送電のシステムはどっから湧いて来たのか。誰がその理論を考えだし、設計し大量生産し流通させたのか。っていうかなんで動物はあの形に進化したのか。うん、お気づきですね。あの社会には、(多分人の形をしている)「神様」の存在を想定できる余地が残されてるんだよね! ああん、もうシビレるくらいにアメリカンですね!
この世界は不自然かもしれないし、捏造された「嘘」かもしれないけど「正しい」のだ。だって神様が作ったんですもの! 世界を良くする挑戦は、常に「正しい」に決まってるじゃないですか! ハレルヤ! God loves you!
あ、後もうひとつとってもアメリカンなポイントあるな。「クスリで人間は変わってしまうが、そのクスリの効果はさらに別のクスリで完璧に治る」という機能主義的な、科学は万能だよねバンザイな発想。これって日本人では思いつかないんじゃないかなぁ。人間は体の仕組みを把握できるし適切に制御することも出来るという西洋の発想が前提だからね。アメリカでは処方箋薬の中毒患者が大量に作り出され続けていると主張するドキュメンタリー映画、“Prescription Thugs”を思い出したよ。
つまるところは、『ズートピア』というのは、合理的な近代国家でありつつ実は神様も信じている世界(=アメリカ合衆国)をより良くするという挑戦を皆で続けていこうねという、恐ろしいほど上手く出来ているプロパガンダでありアジテーションなんである。それはウォルト・ディズニーの当初の意図であり、恐らくそれが内面化されているように見せつつ、全部ちゃんと自覚しているんであろうなということも伺わせる練り込みっぷりである。
ディズニーもユニバーサルも世界中から人材を集めているけれど、ここまでアメリカイズムを全開にさせつつ表面では取り繕うようなことが、例えば『ミニオンズ』のスタッフにできたのかなどと妄想を広げれば、まあ、ねぇ……。こんなこと出来るのはやはりディズニーだけだよな! さすがだぜディズニー。愛してるぜディズニー。
https://thewaltdisneycompany.com/about/
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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2016-05-28 18:53:11