MIAUイメージキャラクターみゃうたんのフィギュア。がもしあったらこんな感じで。
神原型師の手にかかれば、魚ぐらいいくらでも飛ばせるに違いない。
あ、今気づいた。キーボード描いている内に左右逆にしちった。超ショック。というわけでこれは鏡の中だ。
なんてことを言っていたら、> なんか面白そうなので立体化してみますです。とかいうウェブ拍手が! 正座して待ちます! (2008/06/21 00:17追記)
著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-05-22 03:09:19
そろそろ2008年も、あけましておめでたかったと過去形で評価してよろしいのではないでしょうか。リアルでお知り合いの方には、いまさらですが御葉書でお送りするかも。
先日、MIAU(インターネット先進ユーザーの会)という団体を立ち上げた。詳細はサイトを見たり適当にぐぐってくれ。とりあえずは、ダウンロード違法化問題を取り扱っているけれど、個人的には、末端の絵師やら研究者やらの視点から色々言ってみたいつもり。
なぜ著作権なのかといえば、ネット上でコンテンツを扱う上で、著作権が凶悪極まりないツールになってしまっているからだ。著作権者は、自分の著作物がどのように扱われるかについて、好き勝手に決められる権利があることになっている。考えようによっては、これは全うな主張のようでもあり、しかしながら、とんでもないワガママでもある。
例えば、自分が買ったCDであっても、その音楽をCDプレーヤー以外で再生してはいかんし、ましてやてPCから携帯電話にコピーするなんて言語道断、携帯で聞きたければ別途金を払って買え、というような要求を出したりしたら、ワガママ極まりないと感じるのが自然な人情だ。しかしこれは適法な要求だ。
さらにタチが悪いのは、そういうワガママな人に結構権力がある場合、そういう人の意向に従って、コンテンツを再生する「機械」までが作り変えられてしまうという問題がある。現に、俺の携帯電話には、(色々とトリックを使わないと)音楽を移せないようになっていたりする。
もし、こういうワガママな人の声がでかくて、例えば「イヤフォンやヘッドフォンでCD聞くの禁止、必ずスピーカー使え」とか言い出したとしよう。そして、もしヘッドフォン端子の無いCDプレーヤーしか発売されなくなったとしよう。そうしたら、この世からは「ヘッドフォンで音楽を聴く自由」が、実質的に消えてしまうだろう。知識と技術があれば、ヘッドフォン端子を自分で作ることくらいできるけど、でも、ほとんどのユーザはヘッドフォンを使えなくなるだろう。そして10年経てば、それが当たり前の世の中になる。この世界では、携帯CDプレーヤーは絶対に発売されない。きっと、外で音楽を聞く文化も、カセットテープ以後は滅んでしまうかもしれない。iPodは誕生していないだろう。
何てバカな比喩を、と嘲うかもしれない。でも、ビデオデッキが生まれた時は本当に同じようなことが行われた。1976年、米国の映画会社ユニバーサル社は、家庭用ビデオデッキを作ったソニーを訴えた。8年くらいかかった裁判は、最終的には5対4の僅差で無事ソニーが勝って、ビデオデッキは違法な存在にならずに済んだ。だからみんな忘れている。でも、もしビデオが違法となっていたりしたら、家庭のテレビデッキで、映画を繰り返し見たりするような生活スタイルは、絶対に訪れなかっただろう。そして皮肉なことに、もしそうなっていたら、ユニバーサル社自身も傾いていた可能性がある。今日の映画産業は、その収入の半分以上を、あれほど嫌っていたビデオやDVDの販売に依存しているからだ(もちろん、1976年当時の家庭用ビデオソフトの売上は、ゼロだったわけだ)。斯様に、目先の金に目が眩んでしまうと、大企業の優秀な経営陣であっても、たかだか10年そこそこの未来すら見通すのは難しい。
著作権や、その他通信や表現に関する諸々の改悪をゴリ押ししていけば、日本のコンテンツ業界は泥舟に乗ったままゆっくり沈没し、恥ずかしげもなく“くーるナントカ”と称する国際競争力も無くしていくだろう。商業主義満開な大衆迎合で当たり障りの無い大作アニメが、巨大な大手プロダクションから年に数本送り出され、それらはガリガリに強化された著作権法の下で大金を稼ぐ。受け手は、おとなしく金払ってヒナのように口を開けて、偉大なコンテンツ製作会社様から作り出されるエサを待っている。そういうコンテンツ産業の形って、俺は嫌いなんだよね。
昨今の著作権法を強化しようとする動きは、そういう社会へ向かいたがってる人たちの意向だ。俺は、そういうところには組してないし、多分今後も組しないと思う。だから、俺は何かしてみたかったわけ。
で、MIAU の擬人化をやってみた。命名:みゃうたん。一応他の設立メンバーにもほどほど好評。なのでオフィシャルである。猫娘というか、まあ、ネコマタなんだこの子は。
さて、当然こういう何だか魔法少女っぽいキャラクターには、ツッコミ担当の小動物が要るわけです。猫キャラだから、ツッコミキャラはねずみをベースにすると好いかなぁ。じゃあ、こんなんどうだろう。
あれ? なんかヤバい気がするのは俺だけか? で、でも、もう『蒸気船ウィリー』は著作権切れてるし、大丈夫なはず……。あ、そうだ、色が黒いのがよくないんだ、そんな薄汚れた色はいけないな。『おねがいマイメロディ』のフラッ○君みたいに、青くすりゃいいんでね?
む、なんか22世紀の未来から来た猫型ロボットに似てね? うーん。
とか考えているうちに、mhattaに“ミキまる”と命名された。なので、色はともかくも、その方向性で行ってみよう。
各色ご用意してみたので、みんなヤバくなさそうな色をはてなやウェブ拍手経由で教えてくだされ!
ま、まあ、そんな感じで、MIAUでも、なんかこういうキャラ使って遊んでも行きたいなと思っています。無闇に堅苦しいのは嫌いだからね。
俺が描いているような絵では、印象派に代表されるような芸術的な絵画の手法では考えられないような、誇張した塗りを行わないと、かえって不自然になるという事例が存在する。
とりあえず、この写真を見てもらおう。念のため、この写真は18禁ではない。一応、全年齢閲覧可能なパンチラ画像である。正直なところ、こういう画像をAmazonで探してくるのがこのエントリの苦労の大半だったのだが、まあそれはおいておこう。
しかし、このエントリを書こうとしたときには、この商品ちゃんとAmazonに存在していたのに、今は商品情報が消されてしまっている。画像が残ってるのに商品DBから存在が消えてしまうというのは、びっくりだ。どっかのPTAに児童ポルノと看做されたのだろうか。まあ無理も無いが。
話を戻そう。ここからは純粋に作画技術的な話だ。とりあえず、でかい画像でパンツの色を眺めてくれ。この写真の女の子パンツは何色だろうか。こう尋ねたら、100%の人間が「白」と答えるだろう。だが、実際にパンツの部分の色を調べてみると、白ではない。実際のパンツの色は、一番明るい部分でも ■ #ac7056 という茶色、暗い部分ならば、 ■ #623629 というような黒に近いこげ茶色なのである。この色だけを見たら、白だと主張する人間はいまい。グレースケールにしてみると、一番明るい部分でも、黒50%を超えるグレーであることが分かる。かなり暗い色だ。つまりこのパンツ部分は、どちらかといえば白より黒に近いのである。なぜこんなこげ茶が白に見えるのだろうか。
これを説明する手がかりは、写真の世界で「記憶色」や「期待色」と呼ばれる現象にある。パンツの物理的な色は、光や陰によってさまざまに変化し、単純な白になることは現実の世界では絶対にありえない。しかしながら、我々は経験的に「パンツは白いものだ」と記憶し、写真でもそういう色であることを期待してしまっている。
このように、写真の実際の被写体の色と、我々が脳内で想定している色とでは、齟齬をきたすことがある。例えば、綺麗な青空を撮ったはずなのに、後で見返してみるとよどんだ灰色に写っていたり、色白美人を撮ったはずなのに土気色で汚らしい肌であったりするという現象だ。そのため、写真では「レタッチ」を行って、「欲しい色」へ近づける作業が必要になる。テレビに出るタレントがドーランを塗りたくるのも、これと同じ理由による。
上記のパンツ写真の場合、人間が不自然に感じるほど暗い色にはなっていないので、我々は脳内の記憶どおり、パンツの色を即座に「白」だと指摘することができる。でも、その「白」は、物理的な色とは異なっているのである。このパンツ写真は、パンツの部分を白くレタッチした方が脳内で想像している発色に近いことになる。
人間の思い込みによる色の錯覚を分かりやすく示す有名な例として、MIT の Edward Adelson によるチェッカーボードの錯視がある。
図が示すとおり、Aで示されるグレーとBで示されるグレーは、物理的には同じ色であるにもかかわらず、左の図ではどう見てもBの方がAよりずっと明るく見える。彼が挙げているこの錯視の理由2点をまとめると、以下のようになる。
我々は、正確に眼前の色そのものを、絶対値として見ているわけではない。被写体となっている色がどういう意味を持つのかという「文脈」を考慮して、その物体の模範的な色を勝手に脳内で当てはめている。人間は、色を見るのではなく、意味を見ていると考えられる。
写真やイラストは、現実の世界より抽象性が高い。写真が抽象的だ、という考え方に疑問を持つかもしれないが、カメラは世界の全てでも視界の全てでもなく、限定的な3次元の空間を2次元に透視した小さな図を見せてくれるに過ぎない。現実世界の情報量とは比較にならない。絵は、言うまでも無いだろう。
そうした「情報量を減らしている表現」においては、その情報を受け取る人間に、伝えたい情報をあらかじめ強調しておくことで、受け手に情報を伝達しやすくする必要がある。こうした強調が、写真では「レタッチ」、絵では「デフォルメ」と呼ばれる。
では、先ほどの写真を、萌え絵にしてみよう。もしゃもしゃしてやった。今は後悔してない。
模写とはいえ、実は俺は今年まだノースリーブ以外の服を描いてなくて、こんなところでソデを描くのも癪だから、ノースリーブセーラー服に魔改造してみた。まあそれはいいや。
この絵におけるパンツの明るい部分は本当の「白」、16進数で言えば #ffffff である。これがもし写真と同じような暗さの色だったりしたら、この絵はパンツ絵としては成立しない。試してみよう。
パンツを写真と同じ程度の暗さ(50%グレー)程度にしてみると、これが白のパンツには絶対に見えないことが分かる。もはや黒パンツであろう。しかしながら、先ほどのチェッカーボードの事例で考えてみれば、単にグレーだからグレーのパンツに見えるのではなく、周囲との文脈によってそう見えているのだと考えられる。つまりこれは、周囲の明るい肌の色とのギャップが際立っているからグレーに見えるのである。肌色をこのパンツより暗い色にすれば、この色でもパンツは白く見えるだろう。
実際、写真におけるパンツ周辺の肌は、■ #2b0500 というような、かなり黒い色だ。この色との対比によって、写真のパンツは白く見えているのだ。一方、絵の方は、陰の部分でも ■ #f6c6ac という明るい色で塗られている。だから、同じ明るさのグレーでも白には見えない。
では、絵でも肌を暗く塗れば好いのだろうか。だが、我々の「綺麗な肌の色」を好ましいと感じる感覚というのは、ほとんど絶対的に動かしにくい認識なのだ。ファンデーションやドーランやフェイスライトという存在は全て、脳内で想定される理想の肌色に近づけるための努力の結晶である。他と比べて明るく、色にムラの無いことが綺麗な肌の条件である。背景などを持たない人物単体のイラストレーションカットにおいて、暗い色で肌を塗ったり、陰の部分をうんと暗くしたりするのは、少々無謀である。綺麗に見せ辛いからだ。受け手にストレートに情報を与えるための「デフォルメ」という視点から考えても、肌は明るい色で塗った方が良い。
また、写真を見ると分かるように、肌の陰部分は緩やかに暗くなっていく。これは、人間の体にはキツい鋭角が存在しないからだ。チェッカーボードの錯視がおきる理由で述べたように、緩やかに変化する明るさは、人間は無視してしまう。だから、肌の暗めの陰色の部分は、無視してもかまわないのである。
以上のような理由から、萌え絵の肌は基本的に明るい色で塗られるので、必然的に、パンツも白で塗るしかないのだ。
その昔、アリンコが描いたこの4コマの通りの会話を交わしたことがあるが、これは決して誇張ではない。パンツが白いのは萌え絵の文脈において正しい。
2007年デスクトップカレンダー用のイラスト。スカートのローライズっぷりと、微かに漂うゴスロリ感。多分うさ耳は制服の一部。
というわけで、2007年デスクトップカレンダー作りました。印刷面は13cm×13cmと、CDケースより一回り大き目のサイズです。
以前の通販では郵便振替を使っていたのですが、「超めんどくせぇ」、「昼間に郵便局なんぞいけるかボケ」等、大変評判が悪かったので、入札費用タダ期間中で、銀行振込やクレジットカード決済ができるやふおくを使ってみることにしました。
オークションページ: http://page5.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/e61822294
金額を入れて入札すれば、残り時間に関係なく、その時点で購入できます。あと、現在、新規出品者扱いなので複数個の出品ができまへん。複数個ほしいとかいう場合は応相談。
というわけでよろしく! ご家庭に1つ! 仕事場のデスクの上にも1つ!
周囲のみんなから「ロリコン!!」、「キモヲタ!!」、「アキバ系!!」などと後ろ指さされよう!