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排除対象としてのオタクと婚姻の不自由

森永卓郎氏の「オタク恋愛コンサルタントは日本を救えるか」という記事を読んで、なんだかモヤモヤするけど上手く批判できないというお声を目にしたので、2つ問題点を挙げてみる。

森永氏の記事は、オタクは本心では恋愛・結婚したがっているので、それを助ける仕事が日本では必要だ、というのが趣旨だと思われる。

まず、オタクは恋愛をしたがっているのに出来ていない、「二次元」へ逃避しているという前提がどうにも妙だ。

アニメ・マンガ・フィギュア等の制作・消費を趣味とする人達は恋愛・結婚ができない、という単純化がなされているようだが、俺の周りには、そういう趣味であって恋愛・結婚している人はいっぱいいる。大塚英志や岡田斗司夫や東浩紀といったオタクのパイオニアも、みんな(実質的には)結婚しているじゃん。

だから、オタクは恋愛・結婚できないという主張は、そういう趣味を持つ人達の中から、恋愛・結婚できない人達という集合を特別に抜き出しているわけで、逆に考えると、恋愛・結婚できない人間でそういう趣味の人達を、オタクと名付けているようなもんだ。

つまり、オタクという言葉を、自分が否定したい人達のレッテルにしている。 今の日本で、アニメを見たことない・マンガも読んだことないなどという人はかなりレアだ。モテなさそうな人を捕まえて「マンガを読みますか?」と尋ね、Yesと応えたらオタク扱いしてしまう、なんていうようなイメージでオタクという集合を形作るとすれば、この定義の曖昧な概念は、適当に都合よく膨らませていくことができる。

そもそもオタク概念の始祖である中森明夫も、 自分達とは違う価値観の人々を排除するための言葉としてオタクという語を使い出した。それは、中森がこの語を初めて使ったエッセイで、コミケに集まる人達を揶揄しているところを読んでもよく分かる。

東京中から一万人以上もの少年少女が集まってくるんだけど、その彼らの異様さね。なんて言うんだろうねぇ、ほら、どこのクラスにもいるでしょ、運動が全くだめで、休み時間なんかも教室の中に閉じ込もって、日陰でウジウジと将棋なんかに打ち興じてたりする奴らが。モロあれなんだよね。

髪型は七三の長髪でボサボサか、キョーフの刈り上げ坊っちゃん刈り。イトーヨーカドーや西友でママに買ってきて貰った980円1980円均一のシャツやスラックスを小粋に着こなし、数年前はやったRのマークのリーガルのニセ物スニーカーはいて、ショルダーバッグをパンパンにふくらませてヨタヨタやってくるんだよ、これが。

それで栄養のいき届いてないようなガリガリか、銀ブチメガネのつるを額に喰い込ませて笑う白ブタかてな感じで、女なんかはオカッパでたいがいは太ってて、丸太ん棒みたいな太い足を白いハイソックスで包んでたりするんだよね。普段はクラスの片隅でさぁ、目立たなく暗い目をして、友達の一人もいない、そんな奴らが、どこからわいてきたんだろうって首をひねるぐらいにゾロゾロゾロゾロ一万人!

『おたく』の研究(1)(漫画ブリッコ 1983年6月号)より

森永卓郎氏も、結婚・恋愛していない人間を否定したいがために、「オタク」という語を当てはめているのではないか。この記事の違和感の1つはここにある。

もう1つの問題点は、恋愛・結婚できないヤツが劣っているという価値観だ。この価値観はさらに分解出来て、恋愛=結婚という等式の問題点と、もう1つは、それができないヤツが劣っているという価値観そのものだ。

この辺は、本田透が「恋愛資本主義」と命名して散々批判しているから充分な気がするけれど、まず、元々恋愛と結婚は別物だ。


例えば、平安時代の貴族は結構自由に恋愛していたようだが、結婚は一族が決めた相手と粛々と行って子孫を残す。また、赤松民俗学が描くように、夜這いやりまくりだが特定の相手と結婚する、というような世界も、恋愛と結婚が別物であると考えると理解出来る。日本で、恋愛=結婚という等式になったのは、せいぜい数十年だと考えられる。この辺は、デビッド・ノッターの『純潔の近代』などにも詳しい。


で、恋愛=結婚が自由な以上、恋愛=結婚しないことも自由なはずなのだが、それは劣っているとされ批判の対象となってしまう。そういう価値観は本田透を初めとして色々な人が批判するのだけれど、日本で恋愛や結婚をしないでいる若者に有形無形の圧力がかかるのならば、日本の恋愛や結婚は、実質的には自由ではないということだ。

この不自由さの根は深い。しかし森永卓郎氏の記事は、そういう不自由さや息苦しさを全て、「オタク」という便利な否定のための語に封じてしまっている。そこがこの記事のもう1つの問題点だ。

まとめよう。おそらく皆の不満点はこういう辺りだと思う。

  1. 「オタク」を排除の言葉として使っていること
  2. 恋愛や結婚にまつわる閉塞感をオタクという語に押し付けていること

(188)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-02-28 03:27:41

リンだのルカだの…

鏡音リン

2日目お疲れ様でした。この糞寒い中、露出の多いコスプレしていた人はすごい。

31日は東モ‐44aです。なんとかDVD版の方もできそう。AT-Xの方もよろしく

(29)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-05-22 03:09:19

冬コミは31日・東モ‐44a

冬コミのお知らせ

停電を乗り越え冬コミ新刊が滑り込みで出きました!

osakana.factory decade 表紙イラスト

初めて絵が商業誌に載ってから丸10年(実は11年目ではないかという気もする)ということで、10年間の乏しい仕事を振り返りつつ、当時描いた絵を今描き直してみるとどうなるか? という本です。

多分この辺りが劇的。

2000年の絵と同じ構図を2009年に描いてみる

左は2000年に同人誌即売会眼鏡時空のポスターとして描いた絵、右は今年同じ絵を今描いたらこうなる、というもの。……実は俺は成長していないのか?

当日はデータDVDも用意したいと思います。『ソデなし!?』等々の過去の本もありますよ。(2009/12/28 03:18追記)

AT-Xブースにもなんかあります。しあたんと4コマを描きました。

AT-Xしあたんイラスト

AT-Xしあたん4コマ

4コマですっごいブラックなネタを描いたら、すっごい怒られたので丸くしましたが、でもまだ危険っぽいです。

(25)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-05-22 03:09:19

セーラーハロウィーン

セーラーハロウィーン

やっぱ問題はハロウィンが昨日だったことだと思います。

(53)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-05-22 03:09:19

夏コミは16日・つ-08a

今年の夏コミは西に飛ばされてしまいました。“osakana.factory”16日(日曜日)つ-08aです。

今回は、『ソデなし!?』という制服をノースリーブに変えられた小学生マンガ本です。

『ソデなし!?』表紙

『ソデなし!?』男の娘

『ソデなし!?』ノースリーブ体操服

『ソデなし!?』裏表紙

ノースリーブセーラー服フェチマンガ、あるいは、ロリワキフェチマンガです。先生のモデルが俺なのではないかと一部で話題沸騰してません。

(54)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-05-23 00:34:19

エロゲー規制派・児童ポルノ規制派の考え方の恐ろしさ

要約

公開したらいきなり「なげーよ」って言われたので、要約を付けておく。(2009/06/25 03:18追記)

  1. メディア(コンテンツ)はもちろん人間の行動に影響あるよ
  2. でも「悪」影響があるとはいえないよ
  3. エロゲとか児ポ規制派とかはそんなこと気にせず言いたいこと言ってるよ
  4. オマエラもっと怒れ

はじめに

先日livedoorで「レイプレイ事件」のコラムを書いたけど、あれで言い足りなかった(ていうか編集が入ってよく分からなくなったところがある)ので、長文だが俺の言いたいことを書いておく。

児童ポルノ法の審議入りも近い。エロゲー規制に加えてどこまで与党案が盛り込まれるのか、大変憂慮している。だが、規制反対派にはヒステリックな反応をして欲しくない。そのために、できるだけ分かりやすく「メディア害悪論」と「ポルノ規制論」についての俯瞰を提供したいと思う。

メディア(コンテンツ)は人間に影響を与えるのか?

メディア(コンテンツ)は人間に影響を与えるのかといえば、もちろん与えるに決まっている。メディアを利用して流布するコンテンツ、つまりは一定の情報が人間の思考や行動に影響を与えるか? という命題は、紛れも無く真だ。

コンテンツは人間を一定程度コントロールするから、「プロパガンダ」という概念がある。結局イラクに大量破壊兵器は無かったじゃないか。でも、「ある」という情報を流し込まれれば、人間はその情報に基づいて一定の判断をし、行動を起こす。情報が人をコントロールするのは紛れも無い事実だから、「情報戦」という概念もある。もっと単純に考えても好い。「明日は100%雨が降る」という天気予報だってコンテンツだ。アナタの行動に影響を与えないわけが無い。

より卑近な話になるが、オタクなアナタはエロマンガでオナニーしてるんでしょ? エロゲーで抜いてるんでしょ? 別に恥ずかしがることもない、クリエイタは、アナタがそういう用途に使ってくれるよう、血を吐きながら創っているんだから。それはつまり、エロマンガやエロゲーがあるお陰で、アナタのリアルワールドでの行動は変化しているってことだ。そもそも、その作品を消費するために、他の趣味なり仕事なりの時間を削るわけじゃん。引きこもってる人だって、ゲームに熱中して飯を食い忘れたりなんてことがあるだろう。つまり「機会損失」を出しているわけだ。こういうのをひっくるめれば、「コンテンツは人間に影響を与える」って言うしかない。エロゲー規制児童ポルノ規制反対の人も、まずこれは認めよう。

既存のメディアについての学術的な研究をものすごく大まかにまとめれば、

  1. 人間はメディアに言われた通りに動くぜ(強力効果説)
  2. おいおい、人間はそんなバカじゃねぇよ(限定効果説)
  3. いやいや、やっぱり結構影響あるでしょ(議題設定機能説等)
という歴史的な変遷を辿っている。詳しく知りたい人は、吉見俊哉の『メディア文化論』辺りを読むと良い。優れた入門書だ。

現在一般的な考え方は、「結構影響がある」が基本だ。しかしここで注意して欲しいのは、「影響がある=悪影響がある」ではないことだ。

コンテンツが「悪」影響を与えるという考えが正しくないわけ

メディア(コンテンツ)が人間に影響を与えるのは確かだが、「コンテンツが人間や社会に悪影響を与えるか?」という問いになると、急にどっちとも言えなくなるのだ。何故なら、①「悪」という価値判断をしているのは誰か、②ある人間がどれくらい「悪」なのかを誰がどうやって判断するのか、という2点の極めて難しい問題を孕むことになるからだ。

まず、「悪」という判断が、例えば為政者であったり、特定の利害関係者の価値に基づくものだとしたら、その判断はフェアとは言えない。例えば、中国が共産党に反対する言論を「悪」とすることや、キリスト教徒がイスラム教徒の価値観を「悪」とすることがフェアからほど遠いことは、容易に理解されよう。

もう1つの難しい問題は、その曖昧なる「悪」影響とやらが「どれくらい」「どのように」高まるのかをちゃんと測定できるのか? という点だ。

例えばワールドベースクラシックスのテレビ中継を見た後に、イチローの真似してバットを振り回したくなった中学生を考えて見よう。これは悪だろうか? あるいは、映画『スターウォーズ』を見た後にライトセーバーを振り回したくなったとしよう。それってその人間が暴力的になったのだろうか? そうだと言えばそうも言えるし、否定することもできる。教室や街中でいきなり金属バットのフルスイングを始めれば周囲を恐怖のドン底に叩き込めるだろうが、野球場でやってる限り誰からも文句は出ない。そして、1週間もしたらその子は違う遊びをしているだろう。こういうのは極めて短期的な影響であって、スターウォーズマニアも、恒常的に刀で人を襲うようになったりはしない。斯様に、「悪」影響というのは満足に定義もできないし、その影響を計測することも難しい。

2D格闘ゲームがブームの頃ぐらいから、「暴力的で残酷なゲームは悪い」という主張は繰り返し聞かされたものだ。「暴力性が悪い」というのは、その通りじゃないかと言う人もいるかもしれない。だが、これだってよく考えると曖昧な話だ。「暴力性」や「残酷さ」は誰の基準でどう測るのか? という問題が必ず付いて回る。

以上のようにややこしい問題を抱えているため、コンテンツには確かに影響力があるけど、「悪」と言うのはいかがなものか、という風に学者は考えるわけだ。

学者は何をやっているのか?

「悪」影響とは何なのか、どう計測するのかという問いに満足に答えることが難しい中で、メディアの影響を探るとする科学者の研究は色々進められている。しかし、当然ながらその研究結果は、割れている。

よく心理学の学生などが行ってしまいがちなダメな研究の例としては、被験者を密室に閉じ込めて2時間ほど格ゲーやシューティングなんかをやらせて、「イライラしましたか?」などと質問したりする類のものだ。この手の実験は、

  1. 慣れない環境や長時間の拘束などゲーム以外の要因でイライラしている可能性を排除できないという問題
  2. 短時間イライラすることはその人間が「暴力的」なこととイコールなのかという問題
などが解決されないまま、「ゲームは暴力性を高める」あるいは「あまり影響が無い」などの結論に結び付けられがちだ。慣れないコントローラでつまらんゲームを衆人環視の中2時間もプレイさせられたら、それだけで十分イライラできると思うが、それはコンテンツのせいではないし、そのイライラのせいで、今まで穏便だった人が急に暴力的な人間に変化するわけではない。あるいは、ゲームを冷静にプレイしたからといってその人が暴力を振るわない保障など、どこにあるというのだろうか。

当然まじめな学者達は、この辺を何とか定量化しようとがんばることになる。研究室に閉じ込めて行う心理実験などのようなのも含めて、科学者は色々な限定条件をつけて、「ある特定の場合ならどうにか計測できるんじゃないか」という仮説の実証を、延々試みているのだ。限定した条件の下での限定した影響については、量として示すことを可能にしよう、と試しているわけ。

そうするとどうなるかというと、絶対に一般化することができない特殊ケースについての実験や調査、統計が蓄積されていくことになるのだ。だから、この手の議論はあっちのケースではこうで、こっちのケースではこうで、という話ばかりが積み上がり、尽きることがないのである。

適当に紹介しよう。例えば、David Phillipsは、“Natural experiments on the effects of mass media violence on fatal aggression: strengths and weaknesses of a new approach.”(Advances in Experimental Social Psychology, Volume 19, 1986, p.207-250)という論文で、「全国ネットで放映されるプロボクシングヘビー級チャンピオン決定戦から4日以内に何の罪も無いアメリカ市民が少なくとも11人冷酷に殺される」と唱えている。これは、ボクシングのチャンピオンが全国規模のメディアで尊敬すべき人物として讃えられるため、その悪影響が出るのだという主張だと思われる。ポイントは、被験者を研究室に閉じ込めたりせず、犯罪の数字を使ったことだ。しかしこの主張はやや疑わしい。1980年代のアメリカの年間の殺人事件発生数は、年間約2万件だ。1日辺り50件を大きく越える。ボクシングの試合放映から4日間、1日2人~3人程度殺人事件の被害者が増えるという計算になるが、果たしてこれは本当に有意な数字なんだろうか?

今度は逆のケースを紹介しよう。Josephson, W. L.は、“Television violence and children's aggression: Testing the priming, social script, and disinhibition predictions”(Journal of Personality and Social Psychology, 535, 1987 p.882-890)という論文で、暴力的番組の視聴率が高いほど、暴力犯罪の発生率が低いという結論の論文を発表している。これは、396人の2年生と3年生の男の子に暴力的な番組と暴力的でない番組を見せ、その後ホッケーの試合をさせて暴力性を測定しようとしたものだ。問診票のチェックで元々暴力性が低いと判断された子供たちは、暴力的番組を見せたところ攻撃性が下がったという。この研究についても、例えば問診票で測れるナニカを「暴力性」とする、と定義しているだけであって、その人間がどれくらい他人に暴力を振るうかなどを測っているわけではないこととか、同様にホッケーの試合が荒っぽいことでその人間を「暴力的」だと評価するのってどうよとか、色々突っ込みどころがある。

まあ、以上のように紹介すると、学者ってのがバカの集まりに見えるかもしれないが、まじめなアカデミシャンは、自分達がやっているのが特殊ケースであって、コンテンツそのものやメディアという仕組みそのものに、善悪を押し付けられないことくらい、実はとっくの昔に分かっている。

ものすごく古い論文を紹介しよう。Schramm, Lyle, & Parker は、“Television in the lives of our children.”(Schramm, W., Lyle, J., & Parker, E. B. Television in the lives of our children, Stanford University Press. 1961)という論文の冒頭で、

ある子供が、ある条件下におかれた場合、いくらかのテレビ番組は有害だ。しかし他の子供たちが同じ条件下におかれた場合、あるいは同じ子供たちが別の条件下におかれた場合には、そのテレビ番組は有益となる。そして、ほとんどの子供にとって、ほとんどの場合テレビ番組は特に有害でも有益でも無い (俺訳)
と述べている。もはや1960年代の段階で、コンテンツ害悪論についてはほぼ結論が出ていると言える。ある子供にはあるコンテンツは有害であり、ある子供には同じコンテンツが有益であったりする。

例えば、『はだしのゲン』は今のところ有益なコンテンツということになってるだろうけど、アレは本当に有益なんだろうか? 反戦意識を高める人から良いということになってんだろうが、そもそもアレで反戦意識とやらは高まるのだろうか。で、それを高めるのは誰にとって良いことなのか。それに暴力やグロさがトラウマになる人もいるし、特高警察の拷問方法を熟読するガキだっているだろう。つまりは、コンテンツそのものが客体として善悪を帯びるわけじゃあないのだ。

ここまでのまとめ。コンテンツに影響力があるのは事実だが、常に「悪」影響があるなんてことはない。コンテンツ単体が善悪を帯びるわけでもない。影響の善悪や程度は場合によりけりで、あるコンテンツがどういう影響力を持つかは、研究者が設定した特定環境下以外では、よく分からん。

エロゲー害悪論の立脚点は何か

コンテンツそのものに害がある論ってのにムリがあることは、まともな学者なら分かっている。では、エロゲー害悪論、準児童ポルノ害悪論の立脚点は一体何なのか。江口聡は、『ポルノグラフィに対する言語行為論アプローチ』という論文で、ポルノを批判する文脈を次の5つに整理している。

  1. ①性暴力アプローチ
  2. ②名誉毀損アプローチ
  3. ③搾取アプローチ
  4. ④モノ化アプローチ
  5. ⑤言語行為論アプローチ

このうち、①~④については、生身の女性についての話なのでほぼ関係が無い。エロゲー害悪論、準児童ポルノ害悪論の立脚点は、⑤あるいはそれに類する発想だ。簡単に説明すると、ポルノってのは、女性を従属させるという男性の行為そのものだから、ダメなんだそうな。何でポルノが女性を従属させる行為そのものになるのかというと、そういう風に考えることも可能だから、っていうか、ラングトンっていう人が思いついたからという、理由だか何だか判断のできないものが理由になっている。

『レイプレイ』事件で大いに力を発揮したEquality Nowが、

『レイプレイ』のようなコンピューター・ゲームは、性に基づく差別的振る舞いやステレオタイプを許容するものであり、これは女性に対する暴力を維持する(日本語訳より
という声明を出している背景には、こういう発想がある。女性をレイプするという表現そのものが、女性抑圧行為なのだという論理だ。どうだ、すげぇだろう? じゃあ、黒人差別を描いた物語は黒人抑圧の行為なんだろうかね?

しみじみ感心するのは、エロゲーやエロマンガが、実社会にどれくらい「害悪」をもたらすかどうか等々について、Equality Nowとか日本ユニセフとかは、計測する気なんか無いってところだ。まあ、さっきまで言っていたように、コンテンツはそのものに善悪が無いってことは分かりきってるから、いっそ計測しようともしないというのは、かなり潔いアプローチだと評価することもできる。ただ、このあまりに無茶苦茶な論法が、それなりに社会に通るところが恐ろしい。

江口氏の論文でも、「女性に対する暴力を『祝福・促進・許可・合法化する』ことが、女性に対する直接の『危害』であるかどうかは議論の余地があるかもしれないことはラングトンも認めている」って言ってるのに、表現=抑圧っていう等式を錦の御旗にしているんだよね。どうだ、オタク共、我々は恐ろしい連中を相手にしているだろう? 論理が通じない相手ほど怖いものは無いぞ。そして、どうもそれが多数派らしいんだ。

俺は何にムカついているか

もし、幼女を犯すマンガを読んだとしても、「よーし、今日は近所の小学校に幼女犯しに行こうっと!」となるバカなど、まずいないのだ。我々は、妄想そのままの行動を取るのではなく、理性や社会性などによってその妄想をコントロールしながら生きていて、先のLivedoorのコラムでも書いたけど、理性の箍が外れて犯罪者となる人間は、日本では本当に少ないんだよね。そして、エロゲー害悪論者、準児童ポルノ規制派達は、本当に子供を守ろうとしているわけではなくて、自分達の価値観を押し広げたいだけなんだよ。

俺が一番ムカつくのは、規制派が理性を信じていない、つまりは日本国民をバカだと思っているところだ。自分の主張を、客観的な証拠と論理を用いて広げるのではなく、感情にアピールする形でプロパガンダを撒けば世論の支持が得られると思っているところだ。我々を、論理的にモノの考えられないアホと考えているからこそ取り得る手法だ。要するに、バカにされているわけだ。バカにされたら怒って文句を言わないといけない。

Livedoorでははっきり書かなかったけど、マスコミがそういう変な団体の主張をそのまんま伝えようとしていたら、毎日新聞が変態記事を載せたときのように、どんどん文句を言わなきゃいけない。電凸? スポンサー下ろし? やるなよ!? やるなよ!?

追記

どういう本を読めば良いのかということで、上記を書く上で参考になった一般書を挙げる。 (2009/06/25 08:55追記)

A・プラトカニス、E・アロンソン著の『プロパガンダ』はかなり面白い。 『影響力の武器』とも似ている。論文のポインタ集としてはかなり便利だ。ただし、「コンテンツが影響を与える」のが前提になっているので、例えば、D・フィリップスについては無批判だ。著者達のプロパガンダへの世代による反応の違いというのが興味深い。第二次大戦を経験している著者の1人はメディアを妄信していたが、ベトナム戦争世代のもう1人は、メディアが嘘を流すことを直感的に分かっていた、という。そして今の世代は、メディアが嘘を流していることを承知で、しかもそれに無関心なのだそうだ。恐ろしい話だ。


L・カトナー、C・K・オルソン著の『ゲームと犯罪と子どもたち』。メタアナリシスと、多数のインタビュー調査で構成されている。ばっさり要約すると、子供からゲームを奪うと、子供は子供社会でハブられて、却ってロクでもないことになる、って話だ。メディア批判の歴史がコンパクトにまとめられているのも良い。19世紀は小説害悪論、20世紀になって映画害悪論、後半はテレビ害悪論、そしてゲーム害悪論、ネット害悪論と、この手のメディア害悪論が延々続けられてきたことがよくわかる。


ジュディス・レヴァイン著の『青少年に有害!』は、さまざまな出版妨害に合いながらも刊行された奇跡の書だ。児童ポルノを排除しようとすることは「臭い物にフタ」の行為でしかなく、子供たちが苦しむ本当の原因は貧困であったり無教育であることであって、小学生がキスをしたからといって「セックス依存症では!?」と騒ぎ立てたり、オムツの赤ん坊の写真をポルノだと取り締まっても、本当に何の価値も無い。貧困や教育に取り組み、きんちとした性知識を持たせることこそが本当に子供を救うことだというビジョンをちゃんと示している。ついでに言えば、日本の児童ポルノ法の最大の問題は、この表紙の写真も児童ポルノになりえる定義の曖昧さを内包していることだ。(2009/06/29 21:44追記)

さらに追記

よく分かってない人のために、打ち合わせ中なんだけど、こっそり内職で追記しよう。(2009/06/25 12:00追記)

理性の弱い、もろに影響を受ける人もいるんだ

それって、Equality Nowとかのプロパガンダにあっさりだまされる人って意味? じゃないんだろうね。以下と一緒に答えよう。

「黒人を差別する事を主眼に描かれた物語」は黒人抑圧の行為になると思うけどな。

違うよ、どうしてそう考えるんだ? その物語は黒人を差別するという欲望の発露でしかない。ある日物語に足が生えてKKKと一緒に黒人殺しに行くわけじゃないだろ。抑圧は、物語から影響を受けた極一部の人が行うんだよ。で、それは、黒人差別を悲惨に描こうが、果敢に戦う様を描こうが、絶対に発生するんだよ。ナチズムについての肯定的言説が一切禁止されているドイツで、何故ネオナチに惹かれる人達が途切れないのか、考えたことがあるかい? 完全にナチズムを切るためには、ナチズムを肯定・否定する全ての言説を、丸ごと消す以外にない。でもそれは紛れも無い愚民化政策だ。

エロゲーやそのオタクは確かに気持ち悪いが~

これこそ差別だよね。外見差別イクナイ。個人的に誰かを気持ち悪いと思うことは思想信条の自由というやつで、いくらでも勝手にキモがれば良いし、俺だって「キモッ」と言うことはあるけれど、だからといってそいつらを社会から封殺する政策を取ったら、それは差別以外の何物でもなかろう。

そういや、俺が『レイプレイ』を擁護していると思っている人がいるようだが、どこにそう書いてあるのか指摘してみ? 俺は擁護に相当する文言を一言も書いて無いだろう。文章の趣旨は冒頭に要約したよね。俺が何を言っているのか分かるかな? (2009/07/21 00:26追記)

そういえばこのひとは実作者でありながらさらにアカデミックに対抗できる人物か

いや、一応俺アカデミシャンだぜ? 後、まともなアカデミズムは大体味方だぞ。規制大賛成派の首都大学の前田雅英氏なんか、学者からはあまり相手されて無いもん。

で、俺達は具体的に何をどうすれば何とかなるんですか?というか何とかなる方法はないんですか?

散々書いてるんだから読み取ってくれ。

“電凸? スポンサー下ろし? やるなよ!? やるなよ!?” やらない方がいいですよねー(棒

つまりそういうことだ。論理的かつ冷静にな。

「物語から影響を受けた極一部の人が行う」影響うけるんじゃん。上で自分の言ったこと自分で否定しているし。

ついに冒頭の4行の要約すら読めない人間まで出たか。影響はあるって一番初めに言ってんだろうが。ここまで書いても「あるコンテンツからの影響を一律に『悪』と言うことはできない」っていう話が分からんのかぁ。一応これ学部生のレベルで読めるように書いたつもりなんだけどな。

顔出しでエロゲ擁護できる人いなさそうだしねぇ

お前さんは俺の顔も本名も知らんでここ読んどるんかえ? ぐぐるといいよ

(902)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2009-07-21 00:26:24

お仕事情報とイベント参加等

お仕事情報

  1. 未識 魚名義で、秀和システムの『すぽーつうぇあ大全』にカラー・モノクロ1点ずつイラスト描きました。ノースリーブな何かです。



  2. 少し前ですが、中川 譲名義で、Glocomの智場#113へ寄稿しました。自画自賛ぽくなったけど、MIAUなどの活動について今後の課題を挙げたつもり。

イベント参加予定

  1. 5月5日のショタケット14に参加します
    • スペースは「31a」です。カタログの表紙も描きました。ってこれも仕事だ。
    ショタケ14表紙イラスト・これもとりあえずショタワキ見せポーズから構図


  2. 5月5日のコミティア88へ参加します
    • スペースは「そ14b」

さて、同日にどうやって2つのイベントに参加するのか。多分朝はショタケットに、昼からはティアに移動すると思います。その間は連れが切り盛りしてくれているはずですので、俺に会いたい人はそんな感じでお願いいたします。新刊はあんまり期待しないでねぇ。

(33)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2009-05-04 15:08:32

地デジカ騒動と「マスゴミ」という虚像

要約

地デジカ騒動について、あまりにいい加減なことを言う人が多いのでばっさりまとめた。著作権の問題だという人が多いようだが、問題の本質は著作権にはない。問題点は2つある。1つは、著作権はただでさえややこしいのに、著作権法にない「二次創作」なんて言葉を使ったせいで一層議論がややこしくなったこと。もう1つは「マスゴミ」体質のウェブメディアのせいで間違いが拡大したことだ。

地デジカのイラストを描くことに問題はあるのか?

まず、ここから始めよう。

あの鹿そっくりに描いた場合、怒られる可能性はある。その場合に、複製権だ同一性保持権だのといった、著作権法の概念を持ち出される可能性は高い。そして、pixivなどにのっけている場合、pixivごと怒られる可能性もある。これは事実だ。

しかし、美少女化なりショタ化なりムキムキな擬人化して描いた場合、それらに文句を言う法的根拠はほぼ無い。表現的に似て無さ過ぎるから、著作権で責めるのは不可能と想像される。常識的に考えて、変な色のスクール水着の女の子の絵を手当たり次第訴えられるわけがない。

商標が登録されていればそれで訴えることはできるかもしれないが、特許庁で検索しても出てこないので、現状、商標で文句を言うこともムリだろう。

だから、以下のような擬人絵を描いても文句は言いようが無いし、そこで地デジ行政を揶揄していたとしても、これまた文句は言いようが無い。こういうのは正当な表現行為だ。

地デジカではありません、全く関係ありません。黄色いスクール水着ですからね!

昔、こういう赤いプラスチックの外装を持つSONYのブラウン管テレビ、しかもトリニトロンになる遥か前、というのが実家にあったような気がするんだが、今更探しようもないので適当に描いた。閑話休題。

民放連の発言を注意深く読んでみる

そもそもの騒動の発端となったガジェット通信での記事を注意深く読んでみる必要がある。問題の根本はここにある。

記者はまず、「地デジカのイラストを掲載」することを「許すか」?と尋いている。これについて民放連は「無断掲載には厳しく対応していきます」と答えている。ここで考えなければいけないのは、民放連が何を想像しているかである。

ここでは、地デジカとして民放連が公表したイラストを、そのまんま勝手に掲載することについては許さないという意味だと考えるのが普通だ。これについてNOだということは、俺は驚くには値しない発言だと思う。ここまでで民放連は、「二次創作」なんて微塵も語っていないことに注意していただきたい。そのままのコピーは止めてくれ、としか言ってないと想像される。

記事に拠ればその後、「特に、二次創作キャラクターの作成や掲載につきましては、許されるものではありません」と続けたようであるが、じゃあこの場合の「二次創作」って何のことなのか。問題はここだ。民放連が何を二次創作として考えたのか、それはこの記事からは分からないんである。

以前、『同人作家も誤解する二次創作の「合法性」』という記事で書いたように、「二次創作」という言葉は著作権法の言葉ではない。俺が調べる限り、1990年代後半に一部のエロゲーメーカー、っていうか、つまりはLeafが使い始めてから広がった言葉であることは確かなようだ。

で、この言葉は極めて曖昧だ。元の素材をそのままつなぎ合わせただけの、著作権法的には限りなく黒い作品も、素材にあったアイディアを参考にしただけの、著作権法的には100%白い作品も、どちらも含まれる。

このインタビューの時に、民法連側がMADやコラなどの著作権法的に黒い「二次創作」を想像し、そしてそれを否定したがっていたとしても、何の不思議も無い。なぜなら、それはイキかどうかはともかくとして、現行法に基づく適法な要求だからだ。

それにも拘らず、彼らが「二次創作」という言葉で何を想定していたのかは確認せず、「地デジカをもとに美少女や萌え系のイラストを創作することは断固として許さない」などという、民放連側が言ってもいない上に、著作権法上否定することができない行為を、民法連が反対しているかのように記事をでっち上げたのは、他ならぬガジェット通信だ。

問題の根本

今回の件で民放連がイキでないことは確かだ。しかし、民放連はそれほど大きく間違ったことを言ってはいない。恐らくは、勝手にオリジナルのシカをコピーするなと言っただけだろう。むしろ、著作権法に載っていない「二次創作」という言葉の曖昧さに乗じて誤解を拡大させたガジェット通信にはそれなりに罪がある。

不確かなことを元に扇動するのが「マスゴミ」だというのなら、ガジェット通信がやったことはマスゴミの行動そのものだ。既存メディア対ネットっていう構造は、恐らく本質的な問題ではない。大きな声を出すメディアが、多くの人の信じたいデマを述べれば、そのデマは人心を惑わして、すぐ拡大してしまうのだ。

ネットメディアも、広告ビジネスにどっぷり依存するのならば、人の関心を引くためだけのアジテータ中心になるだろう。そうしたら、あまり既存メディア、つまりは「マスゴミ」と変わらないことが起きると思う。「マスゴミ」の正体が本当は何なのか、考える必要がある。

追記

はてブや拍手などから。

キャラクターの改変をして、どこまでが法的に複製でないか?ってのはケースバイケースなんでは?

俺は一貫してケースバイケースだって言ってんだろ。文章読めなさ杉にも程がある。

権利者のコントロールの及ぶそっくりさんと及ばない改変との境界に興味がある

まあこれもケースバイケースですが、最終的には「常識」ってことですよ。

サザエボンとかDOB君とか
ドテラマン裁判

だって、これらはどれも、まあそれなりに似ていたでしょ。

俺は、この3つの例ほど鹿とすく水の子とが「表現的」に似てるとは思えないし、この判断はわりと普遍的だと思うから、上に掲載したような絵を描いて公開してるけど、この俺の絵と民放連の鹿が「そっくり似ている」という人は、まあ世界も広いから少しはいるかもしれないね。俺の目には別物にしか見えんが。

この辺はバランスとか常識の問題だよ。 (2009/05/02 18:27追記)


さらに追記。

「美少女化なりショタ化なりムキムキな擬人化して描いた場合」○○『化』って言ってる時点で、同一性保持権を侵害してますって言ってる様なものかと。そういう絵は大抵「地デジカ」タグもセットだし。

一体どこのバカなら、擬人絵を地デジカそのものだと思うんだろうね? 誰が見ても別モノじゃん。ここまで表現が違うものは、別個の著作物になるんだよ。判例っぽい表現で言えば、擬人絵からは地デジカの「本質的な特徴を直接感得できない」と判断されると考えるのが妥当。

はてブを読んだり他のサイトを回ったりすると、一体どれだけの人が、著作権法を「表現規制法」のようなものと誤解しているのかと、空恐ろしくなる。 (2009/05/09 14:09追記)


さらさらに追記。拍手より。

地デジ促進キャンペーン」の偶像であるキャラをネットでの情報拡散にすら利用できない部分が叩かれてるのでは?

前にも書いた通り、民放連は粋ではないけど、適法な反応をしているだけだから、俺はあまり批判する気にはならんなぁ。著作権法を変えてフェアユース入れよう! とかいうんなら分かるけど。

後、「普及キャンペーンのためなんだからブログとかにもどんどんコピーさせろよ」って主張する人については、

私が民放連だったら卑猥な二次創作なんかより、ジデジカ(原文ママ)のステッカー作って脱獄製品に張って売るような糞業者が出てこないかの方が気になる

という、はてブコメントにあった危惧をどう拭うのか、尋いてみたい。 (2009/05/10 16:44追記)


さらさらさらに追記。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20090508/194086/

こんな記事が出た。趣旨としては結構だが、小田嶋さん、あなたもガジェット通信の例の記事を満足に読めていないのに、「民放連にはメディアリテラシーがない」などと嘲笑するのは、いかがなものなのか。

別に俺、民放連をかばう気はまったく無いんだけど、真摯にモノを書こうというのなら、いくら自分の書きたい話に都合が良いからといって、煽り記事を丸呑みしてはいけないと思うんですよ。 (2009/05/12 05:30追記)

(191)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2009-05-12 05:30:07

「情報モラル教育」の正体をよく考える

悩ましく胡散臭い「情報モラル教育」

「情報モラル教育」というのは、小学生やら中学生やら高校生やらに、インターネットや携帯(なんでこういう風に二分するのかは不可解だが)の社会的に適切な使い方を教えて、青少年がネット上で犯罪を起こしたり巻き込まれたりしないようにしましょうってことなんだと説明すると、何となく「そうかなぁ」と納得する人も多いかもしれない。

しかし、青少年ネット規制法という悪法を一番初めに取り上げてしまった因果で、情報モラル教育だの情報リテラシー教育だのというのに関わってみた一年だったが、どうも「情報モラル教育」というのを口にする人達は、「インターネットは匿名だから犯罪が多い」だとか、「携帯電話を使うといじめが流行る」だとか、何だか胡散臭いことを言う人達がいっぱいいることが分かった。

彼らにとっての「情報モラル教育」ってのは、インターネットや携帯電話を自由に使わせないことであったり、どこかの大企業が管理している商売気たっぷりのサイトだけを見せようとすることであったりする。その場合の「情報モラル教育」ってのはつまり、「『インターネットの利用』という装飾を用いて、一部の人のエゴやイデオロギーを押し付けたり、上手に商売したりすること」に他ならない。

そういう押し付けと「情報モラル教育」がどう違うのかという問いに、歯切れの良い答えを出せる人は、この1年で出合ったことが無い。俺が出合った真面目な人、信頼できる人達は、みんな悩んでいた。

「情報モラル教育」と「モラル教育」の違い

そもそもの前提として、インターネットはただの技術の寄せ集めに過ぎない。まあしかし、「技術は完全に中立だ!」というつもりはない。インターネットというIPの網にしても、あるいはそれを利用するメールなりウェブなりのアプリケーションにしても、あるいはウェブなりメールなりといったアプリケーションを利用するコミュニケーション(つまりは「2ちゃんねる」なり“mixi”なりのことだ)にしても、それらの仕組みが人間の善意なり害意なりを増幅させるということは確かにあるだろう。

では、「技術に善悪はあるのか」という中々結論の出せない高尚な議論を小中学生にもさせることが「情報モラル教育」なんだろうか。

俺は違うと思う。ネットいじめだのなんだのとマスコミが取り上げるような事件のベースにあるのは、子供同士の悪意のぶつかりあいだ。子供同士の悪意や害意というものは、技術そのものの善悪云々という抽象的な問題とは異なり、抜き差しならない日常生活として、彼らを取り巻いている。ネットがなくなっても、いじめがなくなりはしないのだ。

だから、技術に良し悪しがあるといったことを教える前に、まず「人間は、他人に強烈な悪意を向けることもあるが、社会で生きるならその悪意を制御しなければならない」ということを真っ先に教えるべきだと俺は考える。これが、本来の「モラル教育」、つまり「道徳教育」として何よりも先にやっておくべきことだ。

「情報モラル教育」というなんだかよく分からない言葉は、本来人間が持っている悪意や害意について教えるという、公教育や地域社会や親などが果たすべき、基本的な道徳教育の責任を、「インターネット」という仕組みに、転嫁してしまいがちだ。つまり、「インターネットという自由で匿名の空間があるから犯罪が起きる論」だ。それは大嘘で、他人への悪意や害意をドカンと発露させる人間は大勢いるし、アナタ自身がそうしたくなることもあるだろう。そこにたまたまインターネットがあり、掲示板があり、ブログがあった。モノの順番としては、そういうことだ。

だが、その順番は混乱しており、「情報モラル教育」というよく分からない言葉は、

  1. ① 人間の持つ悪意や害意を教えるということ
  2. ② 技術を通して表面化する悪意や害意を教えるということ
という2つの側面をごっちゃにしてしまっている。

「技術」を教えれば解決するのか

上記の①が「モラル教育」として広く行われるべきなのは、まあ異論の無いところだと思う。では、「情報モラル教育」というのは、まず①のような「モラル教育」を行った上で、そこにプラスしてインターネットやら何やらの技術的な部分を教えることなんだろうか。

でも残念ながら、技術を通して発露する悪意や害意は、触りだけの技術を学ばせることによって解決するわけではないのだ。文系のみならず理系の先生にも、ほとんど触りだけしか教えられないというのが実態だから、その程度を知ったところで、2ちゃんねるで時々ほとばしっている人間の悪意や害意から来る攻撃を抑止できるわけでもないし(っていうか、社会的な悪意は技術的にはあまり防御できない)、そもそもその悪意が消えて無くなるるわけでもない。せいぜい、悪意の発現パターンを知ることができるだけだ。でもその発現パターンは、様々な要因で日々刻々と変化し、新たな発露パターンが次々生まれていく。だから、対策は場当たり的にならざるを得ない。

例えば以下のようなことを子供達に教えようとしても、教える側の違和感はぬぐえないし、異論も噴出する。

  • 「インターネットで住所氏名を書いてはいけません」
    • →じゃあ通販とか銀行のサイトとかどうするんだ?
  • 「ブログなどで個人名を特定できるようにしてはいけません」
    • →俺は個人名特定されまくりだがその方がメリットあると思うよ?
  • 「怪しいサイトで本名を書いてはいけません」
    • →怪しいかどうかは誰が決めるの? 国? 親? 先生? 俺はこのサイトで名前を晒すのは平気だが、スパム投げまくりのショッピングサイトで本名やメールアドレス書くのには抵抗あるよ?

まあ、「気安く住所氏名などを晒すな」ってのは今の日本においては蓋然的には正しい教え方だけど、10年ちょっと遡れば、みんなニューズグループやMLで顔も本名も晒してどつき合いのようなコミュニケーションをしてたのだし、現在だって日本以外の地域ではどうだか分からない。少なくとも、長く教え続けられる真理では無いだろう。

「犯罪自慢をしてはいけません」なんてのも確かにその通りだけど、っていうか犯罪するなってことだけど、でも2ちゃんねるの管理人ひろゆき氏は、長いこと 「実録!交通違反の揉み消し方」 なんてタイトルでそういうサイトをやってたんだぜ? Download板やVIP板は、著作権違反をある種自慢しているような部分もあるし。犯罪自慢をしてバッシングされるってのも、必ずではないんだよね。

この手の教育とやらが、「べからず集」、「○○してはいけません」の繰り返しになることの問題は、そういう場当たり性以外にもある。

例えば「掲示板でいじめをしてはいけません」、「メールで悪口を書いてはいけません」、「プロフに自分の顔写真載せてはいけません」その他諸々。でもさ、いじめにしても、悪口にしても、自分の裸をプロフィールに載せるのも、良し悪しはともかくとして、子供達はやりたくてやっているんだよね。ネット上でのいじめを止めさせても、誰かをいじめたいという黒い感情が消えるわけじゃないし、裸の写真を取り締まっても、注目を浴びたいという欲求が消えるわけでもない。ここには、子供達のプリミティブな欲望と、社会のルールとの間に大いに齟齬がある。そして、この齟齬を矯正してしまう強制力こそが、近代の国民国家における教育というものでもあろう。

ここまでをまとめよう。「技術を通して表面化する悪意や害意を教える」というのは、場当たり的になりがちだし、しかもその教えは子供のプリミティブな欲望に反していることが多いので、押さえ込むための強い力が必要になる。

よくやってしまう良くない教え方

そこで、だ。国家レベルで効果のある「情報モラル教育」は、どういう形態を取ることになるんだろうか。一番確実で手っ取り早いのは、子供達が反社会的な行動を取った時ペナルティがあることを示して脅すことだ。近代国家の教育は一種の洗脳であって、恐怖というのは洗脳のための有効な手法だということを踏まえて考えると、インターネットが、巨大で精緻な監視機構なのだと子供に教え込むのがもっとも手っ取り早いことが分かる。

つまり、悪事をした場合は、通信キャリア、ISP、アプリケーションなどの各レイヤでのログですぐ分かるんだぞ、そして警察はそれらを統合的に手に入れることができるんだぞ、ということで、さらに言えば、インターネットは警察が管理できるんだぞと脅しつけることが一番手っ取り早く子供を「教育」することができる。「犯罪予告をすると捕まりますよ」と脅すのは、そういう意味だ。

これはしかし、インターネットの「自律・分散・協調」という理想を学んできた技術者にしたら、屈辱的な話ではないか?

単に監視されているという恐怖で子供を脅してしまうのならば、中国やイスラム国家のように、政府がインターネットを監視し言論統制をしている環境と何も変わらない。これがインターネット時代の「情報モラル教育」としてあるべき姿だとは、とても考えられない。いや、考えたくない。そんなのは真っ平だ。たとえ、少なからぬ代議士がそうやりたがっているとしてもだ。

やるべきことは、やっぱりこういうことだ

インターネットを真に活用しようと思うためには、それが自由のためのアーキテクチャであるということを教えなければならない。つまり、「無責任な発言が自由にできるからインターネットが素晴らしい」のではなく、「自由な発言を許すことも許さないことも、どちらでも好きなように設計できる通信環境であるから守るべき価値がある」ということを教えなければならない。どんなにハードルが高くても、これを教えなければならない。これを踏まえた上でようやく、そういう場を維持するための「モラル」として何が必要なのかを考えることができる。インターネットとして何を守るべきなのかを分からないまま、見失ったまま、「情報モラル教育」をしてはいけないんだ。

それは、今のインターネットの寿命を縮める行為なんだ。

「犯罪予告をすると捕まるよ」と「犯罪予告をするとネットが窮屈になるよ」とは、少しだけ違う。この少しの違いにきっと光明があるんだと信じたい。

もうちょっとわかりやすく。

俺は、子供を脅すこと自体は、教育のメソッドとしてとても重要だと考えている。でも、「インターネットは怖いんだよぉ、だから気をつけようねぇ」っていうのは間違いだ。「この世には怖い人もいるから、インターネットでは気をつけようね」ってのは、嘘じゃない。この少しの違いが、致命的に重要なんだと思うんだよね。 (2009/05/14 12:31追記)

(130)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2009-05-15 12:02:46

おはなみ連隊

消火器の中には、花咲爺さんの灰的なものが詰まっているのでは!

おはなみ連隊

お花見の季節になりましたが、お花見をし損なっています。だって花粉がひどいんだもの。

でかいの

> 消火器の安全ピンが抜けてない
そういやこの黄色いの抜かないと中身出ないのか。よく知らなかった(ぉ (2009/04/27 23:54追記)

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2009-04-28 03:19:16
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