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無為無策

大江健三郎の息子は知的障害を負っている。そして現在は音楽家として活動している。だが。彼の音楽家としての能力は高いか? 曲は美麗か? 演奏は巧緻か? 残念ながら、否。幾つか聞いたが、正直どうでもいい作品ばかりだ。だから坂本龍一は浅田彰に言った。彼を持ち上げるのは、ポリティカルコレクトネスの行き過ぎだ、と。音楽家はその作品で評価されねばならない。作品の質では、取り上げるに足る存在ではない、と。

なぜそんな稚拙な作品が取り上げられるのか。「障害者なのに頑張っている」からである。ここには、ものすごい差別意識が潜んでいる。彼を過大に評価するということは、「障害者はどうせたいしたことは出来ないのに、まあまあ健常者並のモンができるなんてすごいね」と言っているに等しい。表現者という同じまな板の上で評価を下した坂本龍一の発言を差別だと断じる人間の方が、無自覚の差別主義者である可能性は高い。あるいは、「俺には音楽の良し悪しなんて全くわからないので、あの程度でも上手く聞こえます」と、自らの審美能力の欠如を表明しているという可能性もあるが。

もちろん、努力家ではあるだろう。彼も、彼の親も。でも、彼には努力家として地味に作品を聞かせる道もあった。また、一切金銭を気にせずに楽しく作品を書き続けるという、創作者として最高の人生をも選択することができた。にも関わらず、「障害者なのに頑張ってます」という看板を掲げて作品を売って(あるいは売らされて)しまった。大江健三郎ほどの大家が、様々な選択肢からその道を選んだのだ。その点は批判されてしかるべきではないか。俺はそういうえげつない意見の持ち主だ。

しかし、だ。「大江健三郎さんの息子さんがね、必死で頑張ってる姿を見てね、私も頑張らなきゃいけないって思ったの」。もしあなたの大事な知り合いがこういうナイーブなことをのたまい、なおかつその人自身が病気や障害と戦っていたとしたら、あなたはその時何が言える? 俺の口から出たのは、「そうですね」という何の役にも立たないカスのような音だけだった。

(後日談:この方は 2004 年 5 月に癌で亡くなられた。たとえ、障害を宣伝文句にした作品が音楽的にはクズであっても、余命 1 ヶ月程度と宣告された人を半年以上がんばらせた一助になっていたのなら、俺の糞の役にも立たない駄論なんかより、よほど価値がある。すごいじゃないか大江光。)

(87)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-01-11 03:17:17

多層世界の上で

コンピューターに触ることとプログラムを組むことがイコールだった時代はそう遠くない。自分でプログラムを組まないのなら、プログラムを買ってこない限りコンピュータは何もしない。だから、MS-DOS より前に何らかの形でコンピュータに触れている人で、なおかつコンピュータに興味があると言う人なら、多かれ少なかれ何かのコードは書いただろう。ゲームが好きだという人や、LISA 使ってたとかいう話はどっか置いといてね、ややこしくなるから。

今コンピュータに触ることとは、GUI な OS 上のアプリケーションの使い方を覚えることだ。で、今コンピュータやネットワークを好きだって気楽にいっちゃう人は、テレビが好きだ携帯が好きだっていう人と同じようなもんで、コンピュータやそれを利用したネットワーク上で流通するコンテンツが好きな人が多いだろう。コンピュータのハードウェアやソフトウェアの仕組みそのものが面白い人よりも、ずっとずっと。既に、http の上には、例えば SOAP とか DAV とか、もっと身近なのだと blog みたいな、あるいは 2ch なんかでもいいが、そういうブラックボックス化したプロトコルやシステムが被ってしまっていて、多くの人の興味は、OSI 第7層以下まで到達することがない。普通の人の何気ない好奇心を阻むくらいには、フクザツな仕組みだったのだ。

でもそれはレイヤー化がもたらした必然であって、こうあるべきという事態なんだ。Socket を開く時、それ以下の仕組みなんて考えない。そのレイヤーが 1 段 2 段上がった。ただそれだけのことだ。でも、情報系の学者や技術者達はこういう“衆愚”な状態は予想してはいなかったんじゃなかろうか。アラン・ケイ御大とかもね。Squeak ってなんか違うですよ、そうじゃないと思うんですよ。これに興味持って組むヤツは、大体どんなプログラム言語与えても興味持つヤツだよ。

(45)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 23:19:25

IPv6がもたらすもの

IPv6 は、end-to-end の完全な双方向通信をインターネットにもたらすとされている。少なくとも推す側はそう宣伝している。本当だろうか。NAT や proxy がもたらした弊害は大きいけれど、NAT 抜きで生きて行ってもらうには、ユーザの啓蒙が必要だ。でも、現在は NAT どころかアプリケーションゲートウェイのレベルでしか外につながらないような組織の方がほとんどだ。しかもたちが悪いことに、みんなこの状態が当たり前だと思ってる。いやもっと悪いな。http 以外使えなくても何の疑問も不便もない人の方が多い。そういう意識の人たちに IPv6 の理想を理解させるのは、ハードやソフトを置き換えるより莫大なコストが必要になりそうだ。

もちろん IPv6 を推してる人も、俺が数分間妄想しただけで思いつく程度のことは承知している。ぐぐってみたら、IPv6 は、「end-to-endの原則の瓦解を市場原理として受け入れるか、それとも、さらなるインターネットの自己革新を信じて end-to-end の原則を堅持するのかという選択」なのだという指摘がすぐ見つかった。

俺がどちらに付くのかといえば、当然 IPv6 を推す方に付く。end-to-end の崩壊を当然と受け入れるのは辛い。でも、もしかしたらそれがただの理想主義か、あるいは古き良き v4 時代へのノスタルジーなのかもしれないと、ちょっとだけ思っている。だって、みんな企業内部のネットワークでその原則が瓦解しているのは当然だと諦めてるじゃないか。この諦めの期間が長ければ長いほど、v6 の導入は難しくなっていくだろう。技術的にではなく、意識の問題として。頼むよ村井 純、希望は灯し続けてくれ。いや、下さい。さあ愚民を誑かせ我らが村井 純!

だから、今後の end-to-end 通信や IPv6 について漠然と危惧しているのは、IPv6 と v4 のネットワークは、使用するデバイス、ソフトウェアの違いやユーザの技術力などを反映して、住み分けが進んでしまうんじゃないかなぁという点だ。緩やかな移行じゃなくて。今後 20 年くらい v4 は現役かもしれない。それも一般人向けの主役として。その住み分けが、ある種のデジタルデバイドを産まないことを祈る。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:59:14


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