「ナチが共産主義者を襲ったとき、自分はやや不安になった。けれども結局自分は共産主義者ではなかったので何もしなかった。それからナチは社会主義者を攻撃した。自分の不安はやや増大した。けれども依然として自分は社会主義者ではなかった。そこでやはり何もしなかった。それから学校が、新聞が、ユダヤ教徒が、というふうにつぎつぎと攻撃の手が加わり、そのたびに自分の不安は増したが、なおも何事も行わなかった。さてそれからナチは教会を攻撃した。私は教会の人間であった。そこで自分は何事かをした。しかし、そのときにはすでに手遅れであった。」
ドイツの牧師ニーメラーのこの警句は、体制側が何らかの規制をちらつかせた時反対を表明する陣営によく援用される。無策でいることの切迫した危機感が伝わってくる、強い警句だと思う。ニーメラー本人にとっては血を吐くような後悔、懺悔の言葉なのだが、現在引用する人達は単に過激な表現で受け手の恐怖感を煽ろうとして用いることが少なくない言葉でもある。
ナチスの支持率は軽く 90% を超えていた。飴と鞭の政策だったとはいえ、逆に言えば、9割 以上の人間にとっては、実感しにくい末節の人権、パンとサーカス以外なんていうもんはどうでもいいのだ。例えば「表現の自由」。みんな大切なモノのような顔をしてはいるが、本当に表現の自由が失われて痛みと感じる人間が現在どれくらいいるだろうか。今後は、為政者の悪口を言えないというような規制ではなく、もっと上品に規制されることになろう。例えば刑法 175 条の拡大解釈とか。9 割以上の人間は、そもそもほとんど表現活動自体を行わないし、制限されたコンテンツの消費だけでも平気で生きていける。現にアメリカでは、制限されまくりのディズニーくらいしかまともなアニメ作ってないけど、ほとんどの人平気じゃん。それどころか、表現物なんか全く消費せずとも平気な人がかなり存在している。
ニーメラーの警句を引用するような人には、直接弾圧される極少数の側が蚊の鳴くような声で唱えてる主張に異様な程共感して、盲目的に自らの意見としてしまう人が少なくない。そしてこういう人達は、一昔前の左翼運動家的に体制側を声高に非難しがちだ。だが弾圧される当事者達には下手をすると却って迷惑だろう。
共同体意識に埋もれるのを心地好く感じている大多数の人達を批判したり、体制に反発することをカッコイイと思うのはとても容易なことで、日本では安保闘争時代に多くの若者がその陥穽にはまった。だが、そんな考え方では、多数派 90% の人間を口説くことなんてできはしないのだ。傲慢な啓蒙的手法なんて、誰がありがたがって聞くだろう。体制側がどうやって自らの意見をコモンとしたのか熟考し、そういう政治的な手練手管をもっと考えるべきなのだ。政治手法というものは決して理想通りの綺麗なものにはならないと思う。でもそういった現実的な妥協ができない人達で構成されている組織、例えば共産党や社民党は潰れかけている。彼らは、なぜ「野党は反対するだけ」と揶揄されているのかを全く自覚できない。自民党は、どうやって人を手玉に取ればいいかを知っている。この差は大きい。理念という、手に取れない「ステキなモノ(ただし自称)」だけ唱えても人は動かない。そしてニーメラーの警句のような文言は、啓蒙的理想を聞かせるための脅し文句として使うべきではないと思う。
著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:58