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朝の風景

ある朝目を覚ましたら、6時間ほど前まで元気に動いていたにもかかわらず、なぜか今は溶けたプラスチックの臭いを漂わせる Thinkpad 240 が枕元に鎮座していて、あまつさえ通電を示す LED すら死んでいたら、あなたはどうする? 私は、とりあえず罵りの言葉を口にしてみた後、一応火事にならなくてよかったことをどっかの何かに適当に感謝してみた。

その後の行動は取り立ててどうということもない。kakaku.com で最安値をチェックした後大金を握り締め、迫りくる閉店の時間と戦いながら夕方の秋葉原を疾走し、手にしたのである。Thinkpad X40を。Thinkpad 535 → Thinkpad 240 → Thinkpad X40。うーんなるほどって感じの変遷だ。絵描きの選択肢ではないよなぁこれは、と、はぐれ萌え絵師のかすかなアイデンティティ・クライシスを迎えながらも、新しいマシンは嬉しい。いまさら XGA のノートはどうということもないが、SVGA の 240 からの移行だからそれなりに広い。絵描き用には 1600×1200 使ってるけど、それはそれ、これはこれ。ついでに HOME や END や PgUP、PgDn キーが復活してるのも嬉しい。でも ESC が遠いから適当に全角キー辺りを ESC にしておこう。何はさておき Mozilla と ssh クライアントがないと始まらんから 240の HDD から移し変えて……、おお、1G Hz & 512MB だと劇重 Guevara も重くないなうへへ。

なーんていうような環境設定をしぽしぽやっているうちにふと気づく。こういう作業、昔は結構楽しかったんだけど、今はあんまり楽しく感じられない。むしろダルくなってきた。ちょっと愕然とする。変化を楽しめないのは歳を取った証だろうか。やらなきゃいけないことが積まれてるからだとは思うんだけどなぁ。場数を踏んで飽きてきてるというのもあるかもしれない。そんなことをつれづれに考えながらもセットアップを進めた梅雨の前の夜。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:28

ネットワークは何のため?

そもそも、昔の技術者はなんでコンピュータをつないでネットワークを作ろうなんて考えたんだろう。山形浩生はその理由を、コンピュータ単体じゃショボくて何もできなかったからだとアスキーPCの連載で述べている。その通りだ。周辺機器はおろか、ディスクもメモリもCPUも何もかも足りなかったから、リソースは可能な限り共有せざるを得なかった。では、なぜティム・リーはウェブ(ハイパーテキスト)を作ったのだろうか。これは本人の文章がウェブ上にある。要するに研究資料やコードなんかを上手く共有するために考えたわけだ。そもそもコンピュータネットワークとは、情報など資源の共有を目的とした存在なのだ。そして巨大なコンピュータネットワークであるインターネットも、情報を共有することを目的としている。ウェブもメールも情報の共有だ。情報はコピーされることで伝播していく。

さて、そのインターネットとは、全体を管理する組織が存在しない自律的なネットワークであるといわれる。ちょっと立ち止まって考えてみよう。それって、P2P 通信モデルのことじゃないですか。インターネットを構成している各ネットワークを結ぶルータは、全体を統括する存在がないわけだから、C/S(クライアント / サーバ)モデルではなく、P2P で動いている。RIP なんてまさにそうだ。P2P というのは別に新しく出てきた概念ではない。昔からインターネットは(広義での)P2P で動いているのだ。

情報資源の共有を目的としたインターネット。そしてインターネットは P2P モデルともともと相性がいい。だから、インターネット上の P2P システムで多量の著作物がやり取りされるというのは、(法的、倫理的な視点は抜きにして)システム的に考える限り、実は当たり前のことなのである。良い悪いに関わらず、インターネットというのはそういうベクトル(≒方向性)を持っているアーキテクチャ(≒仕組み)なんだ。そして、こういったベクトルを嫌がる側が、この構造を理解するよりも早く、インターネットはさっさと広まってしまった。はやっ。

もちろん、このベクトルは、現在の著作権法と禿しくコンフリクトする。現行の著作権法は、著作権者の権利を守るため情報の共有を制限する、ちょうどインターネットとは逆のベクトルを持っている。だから、情報ネットワーク社会と現行の著作権法とは、あまり相性がよろしくないのだ。これが現在の著作権法をめぐる問題点の 1 つだ。以上を鑑みるに、

「そろそろ匿名性を実現できるファイル共有ソフトが出てきて、現在の著作権に関する概念を変えざるを得なくなるはず。試しに自分でその流れを後押ししてみよう」

という Winny 開発者の発言の意図は、ネットワークがもたらす(あるいは既にもたらされていた)「当たり前」と、現行の著作権法とのギャップを何とか埋める、あるいは全てを押し切ってしまうことであったのではなかろうかと想像できる。上手に理念的にやればクリエイティブコモンズになり、強引に実装すれば Winny になるのだろう。

これを未必の故意による幇助と見るか見ないかは法律のプロがやることだから私には判断が付かないが、私に判断が付きそうなのは、こういった背景が司法判断をする法律のプロに伝わるかどうかという点だ。……うーん。微妙なところだな。簡単なことなんだけど。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:31

花火

俺が、宮谷一彦という天才的画力をもったマンガ家を知ったのは、BSマンガ夜話が彼を取り上げた時である。伊達に人生の半分以上を岡田斗司夫的オタク作品消費にささげてたわけではない俺ですら、彼を知らなかった。彼の作品を読んだこともなかった。積極的に写真的な絵をマンガに取り入れたのは宮谷一彦が初めてであり、またその際にスクリーントーンを重ねる、削る、荒い網点を使うなどの、現代マンガでは当たり前となった技術を開発したのも宮谷であると紹介されていた。これほどの重要人物を、人生の半分はオタクやってる上にまだまだ現在進行形で、しかもちょっとは商業仕事もしたような人間が知らないのである。マンガの描き方的ハウツー本なら、10代の頃いっぱい手にしているのに。

まあ俺が無知なのだと言ってしまえばそれまでだが、そうすると話が終了なのでそれはあっちへ置いといてくれ。で、これほどのエポックメーカーなのに何故それまでの人生で全然触れてこなかったのか。一言で言えば、彼とは生きていた時代が全然違うからであろう。俺が生まれて初めてマンガという表現ブツを手にするころには、彼はもう商業連載をやっていなかった。だから、歴史をさかのぼって「教養」として知るしか手段は残されていなかった。そうなると、子供には普通は親が読んでいて残っているマンガとか、手塚治虫くらいしか手にできないのだ。俺が神保町の古本屋などで読子・リードマン的強引な書籍入手方法を駆使できるようになったのはせいぜい 90 年代に入ってからだし、その際も運悪く宮谷を知ることはできなかった。

かように、マンガという表現はとてつもなく共時的な、つまり作家と同時代に生き、作家と同時代の空気を共有していないと、一瞬にして消えてしまうはかないものだ。作家が命を削って描いた作品も、5年もすれば致命的に古くなり、10年もすればみんな忘れてしまう(ウェブの萌え絵なんてもっとサイクルが短い)。運がよければファンが作家と一緒に歳を取って作家を支えてくれるが、商業連載などの発表の場を持ち続けてないとそれもなかなか難しい。マンガ(とか俺がやってるようなこと)というのはどれもこれも花火みたいな一瞬のもんで、しかもその 99% くらいは地味でちっぽけな線香花火である。もちろん、それらは全て美しく見る者を楽しませる。でも、大きな打ち上げ花火をぶっ放せるのは極々一部だし、大玉を打ち上げたマンガ家でも人生明るいとは限らない。アニメ化されるほどの人気作家であった吾妻ひでおですら、仕事がなくなって肉体労働をしていた時期があるという。

一応、マンガ系の出版業界はそういう構造を理解しているから、同人とかウェブで過去の絶版作品を作者が無料配布したりしても、あまり文句は言わない。絶版マンガや単行本未収録作品を同人で出すのって、よくあるよねー。こういうのを出版社が見逃したり認めたりしてくれるのは、この業界が比較的良心的だからというよりは、「どうせ商業ラインで出してもそれほど金にはならないからどうでもいいやー」という「なあなあ主義」だからだとは思うけど、音楽業界なんかに照らし合わせれば、そういう手段を認めてくれてるってだけで十分にたいしたことだ。

だからさー、著作権著作権と金切り声を上げてる音楽業界とか映画業界とか一部のゲーム業界の人達もさー、せいぜいそれくらいには考えを軟化させたらどうなのよ。どうせ、資本主義社会の商業芸術作品なんて一瞬しか輝かない花火なんだから。でもみんな命削って花火作ってるんだからな。俺らはもっと花火が見たいんだよ。昔の花火も見たいんだよ。どうするのが長期的な利益になるかという視点を持てないくらい馬鹿な人ばかりではあるまいに。緩慢な自殺を試みているなら止めてやらねばなるまい。

さて、そんなことを考えながら渦中のダウンロード板なんかを見てみると、「これは京都府警との戦争である!! 47氏の遺志を継ぎ俺は ny を続ける!! ジークダウソ!!」なんていう、今は学生闘争の只中ですか火炎瓶投げますか的雰囲気が少なからずあって、警察は萎縮を狙ったのだろうが、なんだか逆効果著しい人もいるようだ。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:32

著作権法は何を守っているのだろう

特許法第一条には

「発明の保護及び利用を図ることにより、発明を奨励し、もつて産業の発達に寄与すること」

とある。これは、産業を発展させることがその目的であり、その手段として発明を保護すると読める(現在の特許法が本当に産業の発展に役立っているかどうかは大いに異論のあるところだとは思うが)。一方著作権法第一条には

「著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与すること」

とある。まず権利を定義し権利の保護を図ることで文化を発展しようという。これは、権利を保護することが法の目的であり、その結果として文化が発展するのだというように読める。つまり、根本的に法のスタンスが違うようである。それは、特許法には「発明を奨励」するとあるのに、著作権法には、表現活動を奨励するとは記述されていないところからもうかがえる。この違いはなんだろうか。

産業の発展は、国にとって絶対に必要である。産業がなければ国民は飯が食えないから、確実に国が破綻する。だから、産業を育成し保護するのは国として当たり前なのだ。では文化はどうだろう。文化は生存に必須ではない。日本国民は憲法で「文化的な生活」が保障されているが、何をどうすれば「文化的」なのかについては定義されていないから、「文化的」というのは大いに幅のある概念だろう。

だから、現在の著作権法が、産業として成立している流通業ばかり保護しているように見えても、国の立場としては決して不自然なことではない。そもそも、文化という得体の知れない上に生活に必要ではないモノを云々するには、全員が余裕で飯を食えるくらいの豊かさが前提となる。現代のイット革命な日本で著作権問題が派手に取り上げられる背景は、誰一人として餓えることのない豊かさと、実質識字率 100% という、国民の情報の受信と発信が可能になりうるための最低限の教育が達成されているからに他ならない。

逆から考えれば、そういった最低限の土台が整ったところで、ようやく憲法でうたわれている「文化的」とは何かを議論することができるようになったと言える。高度経済成長前にこんなことは議論できなかっただろう。著作権法は何を保護するべきなのか。産業なのか。それとも何か他のモノなのか。それとも、いっそ保護しないエリアを決めるべきなのか。それほど遠くないところから象徴的な逮捕者が出た今日、考えずにはいられない。

Winny が違法に使われることを承知で作られているのは紛れも無い事実だと私も思うが、立証は困難だろうから言い逃れできる道の方が太めなような気もする。でももし起訴されたら有罪にはなるだろう。それに開発者自身が、「今の社会システムに巨大な一石を投じて討ち死にするもまたよし」くらいの覚悟を決めているフシがある。もしかしたら警察は報復逮捕とか見せしめ逮捕みたいな低いレベルの動機で動いているかもしれないが。

でも一石を投じたまま終わられても困る。何とか著作権法を「文化育成」の方向へ向けねばならん。せめて、第一条に育成とか発展の一言くらい入れてくれ。そのために、「ある程度枠組みを作って後は放置」という姿勢を許容できるくらいには、国にもオトナになってもらわねばならん。文化大国になりたいなら、有象無象を有象無象のまま認める度量を持ってもらわねばならん。国が、というのはつまり、国民がということだ。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:33

バレにくい嘘

以前、確か日本経済新聞社系のニュース番組だったと思うが、「30% から 50% 低い」と語っていた英語のインタビューを、「30% から 50%程度である」と訳していた字幕があって、クラクラきたことがあった。前者は 60% くらいの数字を想像するし、後者は 40% くらいの数字を想像するのが普通だろう。分かっててやっているとしか思えない。好意的に解釈すれば文意を強調するためなんだろうけど、報道としてはどうだろう。

そういえば、捕虜イラク人にアメリカ軍が行った "torture" と報道される行為を「虐待」としたのは、斬新な意訳だと思う。予備校とかの受験英語の授業ならバツが付くんじゃなかろうか。意訳というのは、もしかしたら 図的な誤 という意味なのかもしれない。

(45)

著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 23:08:40


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