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負担は誰のためか

国立大学の授業料は安い。現在、年間でたった 50 万円ほど(それでも欧米に比べればむちゃくちゃ高いのだが)。私立の平均が 80 万、慶應なら 70 万~ 100 万といったところであろう(医学部は除く)。恐ろしいことに、偏差値と授業料には反比例の傾向がある。これは、文科省も大まかに認めていると言っていい。そしてあまり知られてないが、専門学校の学費は実はもっと高い。年間 150 万円クラスはざらである。

国立大学は、学生から頂戴する年間 50 万円の授業料では成り立たない。足りない分は、当然税金をたっぷり使う。東大や京大は、優秀な学生を集めて国のお金でさらに優秀にし、いい職に付けさせてがっぽり金を稼がせてやることになる。こういう書き方をすると非常に不公平感がつのる。

なぜもともとそれなりに優秀な人間をさらに国民の税金をかけて学ばせるのかと言えば、優秀な国民には、将来国家を支えるため、先頭に立って働いてもらわねばならないからだ。国立大学とは本来、日本国を支えられるだけの優秀な人間を養成するための機関だ。国立大学出の人間に、いい職や給与などといったそれなりの報酬が与えられていた理由はそこにある。たとえば東京帝国大学は 1878 年に法、文、理、医の 4 学部でスタートしたが、これは、西欧の法システムを学び(法学部)、西欧の文献を翻訳し(文学部)、西欧の科学技術を取り込み(理学部)、西欧の医療を導入する(医学部)ため社会に奉仕してくれる人材が、必要とされていたからである。

現在、この構図はほとんど崩れている。国立大学の学生の大半に、将来日本を支えていくのだという自覚はほとんどないし、教員(教官)にもそれほど強い意識はない。さすがに明治の時代とは社会が求める人材も変わっていて、今となっては文学部なんて金食い虫以外の何ものでもありゃしない。それでも、税金は使われる。そういう矛盾を受け、実態はともあれ独立行政法人という形で国立大学を切り離したのは、1 つの手としてアリだとは思う。でもそれは、国立大学に所属する人間に、自分たちが将来背負うはずである、社会で果たすべき責任を放棄させる方向へ向かいかねないのではないだろうか。

国家という社会的単位を健全に維持し発展させていくためには、(知的、経済的に)富める民は、貧しき民に奉仕する義務がある。エリートが偉そうな顔をしてるのは、奉仕の義務があるからだ(現在の官僚全員にこの自覚があるかどうかは疑問だけど)。たとえば、所得税という仕組みはそういう発想で作られているといっていい。しかし、所得税という仕組みに限界が見えてきて、消費税というマタイ効果(富める者はますます富み、貧しき者はますます貧しくなる状態)を絶大に発揮しかねない制度を中心にすえていかねばならぬ社会へ移行していくのだとしたら、国立大学は何を目指せばいいのだろう。バカをたぶらかして金をかき集め勝ち逃げできる人材の育成だろうか?

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:22

七夕妄想解釈

織姫は、その名のとおり機織を生業としていた女性であったのだろう。牽牛も字のとおり、牛を飼っていたに違いない。牧畜なのか農業なのかは分からないが。つか、これまともな名前じゃねーな。むしろ職業名か称号みたいなもん? 記憶を振り絞って七夕の伝説を思い返せば、“働き者だった 2 人が結婚したところ、いかがわしい 18 禁な行為にばかり勤しんでいるので、その熱愛ぶりに嫉妬した 怠惰に激怒したエラい人だか神様だかが天の川の両岸に 2 人を引き裂き、年に1度の逢瀬のみ許した”、というものだったと思う。

さて、このお話がいつ生まれたものなのかは知らないが、暗示されている教訓を抜き出すのは簡単だ。

  • 男は外で仕事しろ
  • 女は家で働け
  • 昼間っからやりまくってんじゃねぇ
  • がんばってればたまにご褒美あるんだから、なまけるな

これらから、この物語の聞き手として想定しているのがどういう人達なのか妄想してみよう。

まず、男女の理想像が描かれそれぞれの社会での性的な役割(ジェンダーね)が固定しているということは、職業が専門化し分業が行われる社会になっているということだ。社会が複雑化し高度化し様式化していなければ、この物語は通用しない。また、「やりまくるな」という教訓が含まれてるということは、逆に言えばそれなりに遊びでセックスするくらいの社会的な余裕はあるということでもあろう。現代の日本において、「ひきこもるな」と社会がメッセージを発するということは、ひきこもりが存在するだけの社会的な余裕があることを意味しているのと同じだ。それに、もし戦乱などで人的リソースの損耗が著しい場合は、産めよ殖やせよ的スローガンになるはずだから、爆発的な人口の増大を求めない、安定して平穏な社会であることがうかがえるだろう。ちゃんとご褒美を毎年用意できるというところからも、社会の安定がうかがえる。

なんか、これってこの前までの日本の姿に似てるような気がしない? 高度経済成長期を知っている大人がその子供に聞かせるのには、なかなか悪くない題材なわけだ。だから、我々はこの物語を知っているんじゃないのかな。

こういった物語は、時代によって細かい部分が変わっていく。それは、社会がそうあることを求めるからだ。今発刊されている絵本の桃太郎は、鬼を殺さなくなっているという。かちかち山の狸も死なないみたいだ。子供のときからそういう話ばかり聞いていれば、昔はどういう話だったのかなんて誰も気にとめない。そういえば、数年前には『本当は恐ろしいグリム童話』なんて本が売れたよなぁ。グリム童話だって、社会の求める姿にだんだん変形していった。もともとディズニーのような脳内お花畑満開のアメリカ的ハッピーな物語というわけではなかった。というわけで、すっかりおなじみの七夕の物語も、歴史と共に変わってきた部分があるんじゃないかなぁ。もし大きく変わってないとしたら、受け入れられなかった時期や地域というのが存在しているんじゃないだろうか。

今のところ詳しく調べてみる気はない。まあでも、誰か調べてそうだなぁ。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:23


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