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表現というアーキテクチャ

絵画とは、受け手の視線の動きをコントロールし、何らかの感情や思想を想起させるための表現だ。「視線 誘導」などでググってもらうと幾つかそういうページが見つかると思うが、構図というのは、鑑賞する人間の視線を特定の要素へ誘導するための技法 のことなのだ。絵を描いたり写真を撮ったりする人間は、どう要素を配置すれば受け手に「見てもらうか」というのをずっと考えている。あえて嫌な言い方をすれば、どう配置すれば受け手の行動(視線)をコントロールできるか考えてる、といっても間違いではない。

マンガの場合を考えるともっと分かりやすい。マンガでは、絵の他に言葉も利用して、受け手の行動や思考や感情をコントロールしている。マンガを読んで喜んだり泣いたりするということは、受け手に感情をコントロールされていることに他ならない。さらに、アニメや映画などの映像作品は、音声と映像と時間を利用して同じことをやる。ゲームはユーザからのフィードバックが入るが、やっていることは一緒だ。

つまり表現された作品というものは、一種の「アーキテクチャ」なのだ(ここでいう「アーキテクチャ」とは、「枠組み」とか「仕組み」とか「行動を制限をする構造」といった意味です。)。表現は、受容者に感情や思念などの新たな何かを想起させているが、それは受け手の行動や感情を制御することによって実現されている。

もちろん、作家は読者の全てをコントロールしうる神などというわけではない。その作品が提供するアーキテクチャを気に入らなければ、絵なら見るのを止めればいいし、音楽なら聞かなきゃいい。それに、作り手の想定していない作品の受け取り方というものは多数存在していて、たとえば俺の作った もじうめ は、絵師などが画像を整理するために、と思って作ったんだけど、実は携帯電話向けコンテンツ用の画像処理に使われているケースの方が多いらしいし(俺はプログラムを表現だと考えています)、絵についてだって、予想もしない受け取り方をされることは多い。構図的に寂しいので穴埋めのつもりで描いただけの小動物が意外にウケたりする。すなわち、ある表現には、受け取り方の幅というものが存在する。その幅はかなり大きく、しかも人や時代によって変遷していく。だから、評論という表現活動も成立するし、過去の作品を現在の文脈で読み直すといったことも可能になる。

例えば SQUARE の大作 RPG なんかは、あまりに一本道なもので、“アーキテクチャに縛られる”という感覚が体感できてしまう。より普通の言葉でいえば「やらされてる感が強い」。これは上記の、受け取り方の幅というものが、意図的にかなり狭められているからだと思われる。色々な受け取り方を許容する作品であるならば、(面白いかどうかはともかくとしても)やり込めるゲームと言えるだろう。

アーキテクチャによる自由の制限は随所で行われている。そしてそれらはとても意識しにくい。今後は、単純なメディア・リテラシのみならず、アーキテクチャ・リテラシみたいなのが大事になってくるのかも。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:16

無関心でいるために関心をもつ

俺は政治的な活動ってのはでぇっ嫌いだ。自分に好意を持っているかどうかもわからない上に理解力の足りない人に自分の意思を的確に伝えてなんらかの行動を起こしてもらうなんて全然好きじゃない。まあオタクだしそんなもんだろ。しかし世の中は広い。そういうのが好きな人もいるらしい。一種の征服欲が満たされる喜びを求めてるのかもしれないし、信念が達成される満足感なのかもしれない。いずれにしろよく分からない。

そんな俺でも、政治的な部分に無関心でい続けるのは難しい。青少年健全育成基本法で表現規制とか児童ポルノ法での絵の規制とかさ、ああいうオタクの首を絞めたがるのって、行政側が何らかの悪意を持ってしかけてくるように見えるじゃない、ヲタの身としては。でも最近、そういう行政とかの意思決定できるようになる人たちとかをわりと近くで見てると、思うんだ。こいつら、悪意なんて別にないんだろうなぁ、って。

なんでって、オタクじゃない人はオタクを全然知らないから。考えてみてくれよ、非オタクたちは、あの東浩紀の『動物化するポストモダン』を読むくらいしか、オタクやその行動様式を知る術がないんだぜ (それ以前は大塚英志の『物語消費論』だよ。自分の作品の売り込みのために考えたことを取りまとめたあの本)。ああいうのを読んだら、いまのオタク達が目指すべき目標や価値観というようなものを失っていて、即物的に楽しんでいるだけっていう風に解釈されるだろうし、さらにタチの悪いことにそれはオタクの一面の分析としては極めて分かりやすい形で現状を説明している……いや、もってまわった言い方を止めれば、正しい分析だと思う(細かい間違いは多いけどな)。明確な目標を持って生きていくことが当たり前のエリートたちやハイソサイエティにとって、そういう生き方ってどう映ると思う?

「社会のためになる正しい道を与えてやる」になるか、「バカは遊ばせておいてガンガンむしりとってやる」の二択になると思わん? だからさ、むしろ青少年健全育成なんてのを目指してる方はまだオタクにとってマシなのかもしれないよ? 彼らの多くは、純粋に善意でオタクを更正させようとしてくれてるのではないかと思う。そして、それがいかに勘違いであるかを指摘してくれる人は誰も周囲にいない。オタクで大きな声を上げてるのは、政治闘争そのものが大好きで日々「粉砕」とか「勝利」とかしてそうな左翼系で、ちょっとヘンで、関わりたくもない人たちばっかりだったりするし。

「社会のためになる正しい道を与えてやる」ってのは、テレビとか映画とかの比較的メジャーなメディアで目指されていると思われる。この手のメディア戦略が有効なのはいまさらいうまでもなかろう。たとえば、NHKスペシャル の『映像の世紀』には、第一次大戦時に戦時国債売り込みをやっているチャップリンが映っているし、エイゼンシュタインリーフェンシュタール 辺りは有名どころだから、傍証は十分だ。今だってマスメディアはやってんだろうけど、最近はちょっと視聴者も知恵つけちゃってるんだよね。

一方「バカは遊ばせておいてむしりとる」ってのは主に商売人の発想だから、国策としては取りにくかったと思う。でもさ、国もいわゆるポストモダン状態だったら、国としての理念なんてものを重要視するより、商売人の発想を優先することもありえるよね。そもそも、産業を維持するってのは国のためになるわけだし。そして最近、行政がオタク関係の生産側の方へ色々と首を突っ込もうとしてる。色々なことを知らないままに。大体、東の本なんかに目を通してるのはまだ勉強している方で、大体は日経とかが宮崎や押井煽ったのを真に受けてるだけだろう。

まぁ、山形浩生が危惧していたようなことが現実に起こらんようできるだけくちばしをつっこむってのが、せいいっぱいの俺の良心だろうな。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:17


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