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2005年あけましておめでとうございます

2005年あけましておめでとうございます

そろそろ旧暦で2005年あけましておめでとうございます。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2010-05-22 03:09:22

ゲームはパチンコ化しちゃったわけだが

身近なヤバいネタ書こう。コンテンツ創造科学なんていうのがあるんだ、東京本郷辺りの某偉そうな国立の組織に。そこにいる人や、やってくる人を見て色々考えるわけだよ、所属する身として。しみじみ、将来の日本のコンテンツ産業のほとんどはパチンコ化するのだろうな、とね。半ば絶望的な確信を深めていく今日この頃だ。

俺はパチンコをやったことがないので印象論になることをあらかじめ詫びておくが、画期的なパチンコ台から新しい表現が生まれメディアが開拓されたというような話は、寡聞にして知らない。初めてパチンコが発明された時から基本的には変わっていないだろう。パチンコは、決して表現としての場などではなく、いかにユーザから金を巻き上げるかという技術のみを徹底的に追求してきた娯楽であるように思われる。そして、どのゲーム会社のプロデューサの話を聞いても、今後のゲームが目指す世界はパチンコと全く同じ世界のようである。どうやって射幸心を煽るか。いかに効率よくユーザから金を吸い取るか。さらには、いかにユーザに社会と適当な折り合いをつけ「させ」るかまで考えている。もう、手取り足取り面倒みてやるからさっさと金を出せ、てな状態ですな。

プロデューサはそれでいいのだという反論もあるだろう。人々を満足させるコンテンツが創られるためには、強い創造欲と、それを維持し続けるための環境、つまりは飯が食えるだけの金が必要だ。プロデューサは金を考えてればいいんだという意見は、まあ成り立つかもしれない。短期的にはすごく正しい。

でも、10年先、20年先という期間を考えた場合、そんな縮小再生産を繰り返すようになってしまった世界で、作り手側の強い創造へのモチベーションを維持することは可能だろうか。新しい作品もメディアも生まれることのない閉じた世界で、作り手の創造欲を飼い殺すような表現の場というのは、本当に日本のコンテンツ産業にとって長期的にプラスとなりえるのだろうか。意欲ある若い世代は、そんな閉鎖的な環境に未来を見い出さないだろう。ゲームというメディアが輝いていた時代を知っている世代として、そういう世界はあまり望ましくないと俺は思う。

もっと一歩引いた視点で、10年、20年先までを俯瞰している人達は、日本に大勢いるはずだ。上記のような構造くらい、切込隊長や山形浩生はよーく分かってるし、白田秀彰先生だって分かってる。だからさ、いい加減分かれよ。愚民を誑かしながら金を吸い上げることばかり夢見てたら、足元すくわれるぞ。そんなんでどうやって「コンテンツ立国」するんだ。

閉鎖的な状況を打破するには2つの選択肢があると思う。1つは、俯瞰して長期的な方策を考えること。白田先生たちが取り組んでいるのはこっちだ。もう1つは、今までの構造をぶち壊す斬新な技術や表現を開発すること。Winnyがやってしまったのはこれだ。新しいものが反社会的に見えるのは仕方が無い。だが、新しいものに何一つ注力せずアガリだけを欲しがる連中は唾棄すべき寄生虫であろう。反社会的で斬新な何かと社会との折り合いをつけるという調停の部分で暗躍することこそ、あの本郷や駒場の組織の文系の人間がもっとも得意とするところではなかったのか。だから文系はダメなんだ、と皆に揶揄されるのが悔しければ発奮しやがれ。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 01:32:46

他人の持ちネタを奪いながらterminologyの恐ろしさを考える

この前 ised@glocom へ行って来たわけだが、そこで白田先生がツカミに使われていたネタを紹介してみよう。いわく、「『法』と『法律』の違い、分かりますか?」

ワカラン。知りません。説明できません。でも会場はみな平然とした顔をしているぞ。うーん、みんなには既知の話なんだろうか、知らないのは俺だけかグワァー。以下、白田先生の説明に自分の理解が加わってるので、間違いは私の責任です。

で、「法」という言葉はラテン語の“ius”であって、この言葉を羅英辞典で引いてみると、“justice, right, law”などと出てくる。道徳を含んだ法・権利、正義などの概念で、意味としては「正」に近いのであろう。一方「法律」に当たるラテン語は“lex”で、これは英語の“code”や“statute”に相当しているという。どういうことかというと、「法」という体系に何らかの問題がおきたとき、それに対処するための仕組みが「法律」という位置づけになるようだ。白田先生は、「『法律』とは『法』のパッチである」とまとめられていた。

さて、今までの人生で、「法」と「法律」を正しく使い分けできていただろうか。思い返してみれば、「法制度」とは言うけれど、「法律制度」とは言わないような気がする。「法システム」はアリだけど、「法律システム」はだめぽな感じ。なるほど、落鱗です、白田先生。

まあ、isedの続きはそのうち本家でうpされるだろうから置いておくとして、「言葉なんて、相手に通じりゃいいじゃない」と考える人たちに、伝えたいのである。言葉が複数あるということは、複数に分かれるだけの理由があるということだ。それをぐっちゃぐちゃに混ぜて使うということは、「自分の脳ミソでは違いが分からない」と宣言しているのとなんら代わりがない。知らなかったときはしょうがない。一言しゃべっただけで無知がばれるけど、それは仕方が無い。でも、知っちゃったなら使い分けようよ。脱無知。

だから、「IPアドレス」を「IP」って略すな! いい加減めんどくさくなってきたけど、せめて「ホムペ」は止めてくれ! しかし、一般素人相手の時に、自ら「ホームページ」といえるくらいには、大人になった俺。大人になるって悲しい。

追記:平野敬さんから、ツッコミメールを頂戴しました。「法」と「法律」という言葉は、日本の国内法学者、法制史家、法哲学者などが三者三様の使い分けをしており、上記の理解は一面的なので誤解なきよう、ということです。以下、平野さんのメールから 3 つの類型を引用します。
> 1. 日本の国内法の世界においては
> 国家権力によって拘束力を担保された規範を「法」と呼び
> 国会において成立した法であって,
> 予算・議院規則・憲法および憲法改正を除くものを「法律」と呼びます。
> たとえば地方自治体の条例や国際条約は,法ではあるが法律ではありません。
> 難しく言うと,「法律」は法源(法の存在形式)のひとつです。
> 法律システム・法律制度と言わず,法システム・法制度と言うのは
> 法律はそれ自体で完結した規範体系を構築しないからです。
> 多くの法律は政令・省令・条例によって補完されることによって機能します。

> 2. 語源的に見ると,「律」は刑事法を意味する言葉です。
> (日本史の「律令政治」を思い出してください。ちなみに令は行政法です)
> 法制史の世界においては,「法律」あるいは「律法」と殊更に強調した場合
> 刑事的ニュアンスが強くなることでしょう。

> 3. 西欧語における ius / lex の二分論に対応させる形で
> 法 / 法律を使い分けようという思想は確かに存在します。
> 特に,法哲学の世界ではこうした使い分けが珍しくありません。
> ただ,「法は『正しさ』の概念を含みます」なんて言い出すと
> 「じゃあその『正しさ』の基準を決定するのは何だ」といった
> メタ法をめぐる泥沼論争に陥る危険性があるので,
> 敢えて無造作に使ったりすることもありますが。
当然白田先生は、こうした背景をご承知の上で、後に展開する持論のツカミとしてお話されたのですが、背景の理解がいい加減で、すぐ針小棒大にマンセーしちゃうのは私の浅薄さ故です。いただいたツッコミメールは精緻で大変勉強になりました。ありがとうございます。なお、平野さんのメールからの引用部分も CC ライセンスです。
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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:09

今年は士気が上がるといいね

遅ればせながら新年あけましておめでとうございます。

今現在、フリーターという存在は貶されがちだけど、1980年代に、株式会社リクルートが「フリーター」という言葉を作り出した時のことを考えてみよう。“free”という言葉のもつイメージがプラスなのかマイナスなのかを考えれば、これが当時プラスの概念だったことが容易に想像される。フルタイムの雇用者より多くの自由時間が得られる。「夢に向かってガンバレ」。そういう新しくてカッコイイ存在として、フリーターという言葉と概念が、株式会社リクルートという一企業によって作られ、ポジティブなイメージを与えられた。何しろやつら、『フリーター』という映画まで作ったしな。何のために? そりゃあ雇用情報の仲介をするリクルート社が、アルバイト市場を広げるためにですよ。リクルート社は、言葉を作り市場を作り、社会構造まで変えてしまったのだ。うーんさすがだね。企業戦略ってのはこういう規模でやるもんだね。(参考:http://www.works-i.com/article/db/aid279.html

さて、フリーター批判の大半は、「社会に参加していないから」というところへ尽きるだろう。税金や年金を払わない。隣近所の共同体に参加しない。家族を作ろうとしない。で、なんでそれが社会的な批判の対象になるかといえば、我々がそういう生き方を是としない社会の一員だからだろう。でも。「社会のためでだけはなく、自分のために自分らしく生きてもいいじゃないか。いやむしろそうするべきだ」っていう類のメッセージを、20年以上もの間ありとあらゆるメディアでフィクション・ノンフィクション問わず散々流しておいて、いまさら「そんな生き方はダメです」って否定しても、まあ手遅れだわな。

お金を稼ぐことは何のためですか。社会貢献のためではないよね。社会貢献のために日々仕事をしている人、今の日本にどれだけいますか。如何に楽に金を稼いで如何に楽な人生を過ごすか。メディアでそんなことしか流れないのだし、みんな大同小異そういう行動形態を取る。その行動取る人たちにフリーターとか風俗で働く人とか援助交際とか、そういう人たちを批判すべき倫理的な論拠なんて、どこにもないじゃない。

でも貨幣ってのはすげぇ公平なシステムだよな。他にこれほど一元的な価値を提供できるシステムがあるだろうか。貨幣経済を否定するなら、これ以外に皆が納得できる一元的な価値システムを作らねばなるまい。そいつは無理だ。そして皆そこで思考を止める。だから、フリーターが何故ダメなのかをちゃんと説明できる人はほとんどいない。「アンタが不利な立場になるよ」という個人的な損得に基づいた説得か、常識か特定の理念に基づいた非論理的な説教からか、経済学の穴だらけのモデルからの推論くらいでしか述べられない。結局、背後の説得力ある理由は金か。なら開き直って金が一番すばらしいんだ、金が全てだってプロパガンダ流せばいいのに、そんなことはできもしない日本のマスメディアの中途半端さよ。

結局もう経済システムに組み込まれてしまってたフリーターは減りようもない。今現在できるのは、フリーターのマイナスイメージを積極的に売り込むことであって、そしてそれは一応成功している。かのリクルート社も、今となってはフリーターに肯定的ではない。

でもマイナスイメージだけでは、貨幣経済にすっかり組み込まれてしまったフリーターという雇用形態の合理性に勝てないんじゃないか。5人に1人がフリーターの時代、マイナスイメージだけで推し進めたら、社会の士気が下がるじゃない。オルタナティブもないわけだし、少なくとも1/5の人間の士気は下がるわけよ。だからさ、なんかもうちょっと考えた方がええんでねーの。フリーターを非難するより、フリーターでも明るく生きられるための何かを考えたらいいんでねーの。非フリーターの士気を上げるためにフリーターを貶める社会なんて、まともじゃない。と俺は思うんだけどね。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:10


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