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作り手は諦めない

この前大手ゲーム会社のN社の方とお話しする機会があった。俺は、ゲームっていうメディアがものすごい勢いでパチンコ化して、「どうやってバカを誑かしていかに金を巻き上げるかモード」になっていることを危惧していたりした。でも、それは杞憂だった。少なくともクリエイタたちは違った。俺は悪いプロデューサの形を見過ぎたのです。ごめんなさい。

ゲーム業界のクリエイタたちは、自分の表現というものを全然諦めてなかった。彼らにとっては、面白い何かを作り上げることが第一義であるようで、それはつまり、自分たちが面白い・楽しいと感じられた経験を抽象化・一般化して周りの人に伝達する方法を真剣に探した結果、ゲームというメディアを使っているに過ぎない、ということのようだった。熱かった。情熱があった。面白いものを作ってやろうという空気に満ち満ちていた。これは、最高の創造の空間ではないだろうか。仕事上で妥協させられることはあるにしろ、創造的な人々が作り出している熱気のようなものの漂う空間が維持されているということは、とてもすごいことだ。

クリエイタの創造への熱情を盛り上げ、なおかつ現実的な金銭の問題とを調整する役目がプロデューサには課せられていて、N社のプロデューサは皆、何よりもそれに重点を置かれていた。どこかで、プロデューサの仕事は、金、金、金で 3K だなどという冗談を聞いたことがあるが、そんなのはニヒリズムに酔っているだけの戯言のようである。つまり、何が言いたいかというと、とある独立行政法人の中の偉い人は、こういう意味でのコンテンツプロデューサの役目をどの程度理解されておられたのかと。

こっそり内部告発しよう。残念ながら、本郷三丁目にある組織のコンテンツ創造科学産学連携プログラムにおいて、そういった「場を作る能力」について問われることは、まずない。なぜなら、そんな能力を持った人間が教える側で常駐してはいないからだ。だからそういう能力の評価もできない。そもそも、そこまでの理解にたどり着いてる人がどれくらいいるやら。あのプログラムを存続させるには、誰か突発的な能力を持った受講生が出世して宣伝する以外にないのかしらねぇ。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2009-05-07 13:54:21

インフルエンザ日記

一昨日辺りから、ナウなヤングに大人気の今年のインフルエンザが発症しやがりまして、高熱を出しております。と久しぶりに普通の日記のようなことを書いてみる。さすがにisedは欠席するぜ畜生。毎年インフルエンザ拾ってるんだけど、どっかインフルエンザ皆勤賞とかくれないかしら。多分俺の血に抗体いっぱいあるよ。

発熱は体の防衛作用なので無理に解熱するなという主張をされる方が多くいらっしゃるが、そういった方は38度、39度を超えるような高熱の辛さを本当にご存じなのかと小一時間問い詰めたい。大体、成人男性には不能のリスクが付きまとうんだぞ。多少治癒までの時間が長引いても、耐え難い高熱は下げるべきではなかろうか。で、摂取の間隔を最低6時間以上あけるべきと思われる解熱剤を、効果が薄れてきたと感じたので、素人判断して勝手に 4 時間半くらいのインターバルで飲んだ。これが大失敗だった。

1時間くらい経って薬が効いてきた頃、急に寒気に襲われた。寒い。桁外れに寒い。体の芯がザラついたつららになったかのように寒い。小学生の頃、6月の曇天だというのに学校のプールへ飛び込んだ時も寒かったけど、ああいう外的なのとはちょっと違って、体の内部から来る感じだ。暖房の効いた部屋で布団に入っていて、さっきまで暖かかったにも関わらず、猛烈な寒気だ。

おそらく、解熱剤が効きすぎたのであろうと思われる。市販薬は、一ビン全部飲んでも死なないような分量で売られているという話を聞いたことがある。それくらい市販薬の効果は抑えられているし、フールプルーフも万全だ、と。本当かどうかは知らないが、納得はできる。しかし、そんな噂なんざ吹き飛ばすほど市販薬効きまくり。もし一ビン丸ごと飲んだりしたら、文字通り「死なない」だけで、地獄の苦しみが味わえそうだ。

ぬるま湯を飲んで薬の代謝を急がせながら厚着して震えていたところ、15分くらいで寒気は落ち着いてきたが、時間の経つのってこんなに遅いものか、俺の目を盗んで小人さんがこっそり時計の針戻してんじゃないかとか電波出せるくらいには辛かった。メンヘルの方はよくオーバードーズなんかできるもんだなぁと感心した次第です。さて、そろそろ薬が切れる頃なのでまた……。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:06

檻に入る幸せ

高校生くらいの頃、なぜ成年向けコンテンツのレーティング(分別)やゾーニング(販売などの制限)があるのか、全く分からなかった。10代後半は、人生でもっとも性欲が強い時期だと思う。多分、肉体的にはもっとも生殖に適している年代だからだろう。10代で子どもを作らないのは、動物としての側面のみで考えれば、致命的な間違いだ。なぜその性欲がもっとも強い10代からセックスを取り上げ、はけ口となりうる性的なコンテンツまでも取り上げるのか。本当に分からなかった。表現の自由を歌うなら、性表現を完全解放しろよ! 高校生当時の俺はこんなことを本当に考えていたんだよ、へっへっへ、エロかろう。まあ早い話が、俺は20代半ばにして高校生と間違われて身分証を求められたことがあったくらいで、ぶっちゃけエロマンガを買ったりするのにそれなりの困難が伴ったのであるよ。

若年でのセックスを批判する人達の典型的な論理として、10代ではセックスの責任を取れないというのがある。でも、その責任を取るための社会制度を失ってしまったのは、別にやりたい盛りの10代の責任ではない。「ガキのうちに教育を叩き込んで大人になってからは労働させる社会と、それを支える家族」という枠組みが定着したのは近代以後の話で、それまでの200万年間くらいは、人間は10代でセックスして子どもを作っていたわけだし、今のような家族という枠組みも不明瞭だったのだ。赤松啓介の奇書なんぞを色々読むに、昭和30年代くらいまでは多少なりともそういった性環境を許容する土地も日本にあったようである。だから、現在の性制度はかなりいびつなものなのだ。

でもね、もし俺が今ゾーニングやレーティングについての是非を問われれば、多分俺は賛成するよ。だってさ、俺描きたいもの。ほんわかした絵も、パンチラも、少女が強姦されてる絵も、俺は分けへだてなく描きたいんだよね。それと同時に、読みたいの。他人が描いたの見たいの。そういう俺たち変態の趣味嗜好を、理解できない有象無象の人達から守るための手段としては、ゾーニングやレーティングといった理論武装を使うしかないと思う。俺たちは檻の中に入りますから、勝手にやらせて下さい。それ以外の論理で、どうやって社会の大多数と戦える? 至るところにエロ画像あるのは困るのだ。

これは、社会倫理という点からだけで言うのではない。白田秀彰先生は猥褻表現規制の理由を、倫理などではなく、猥褻表現の放置が情報流通の帯域を食いつぶすという点に求めている。実に怜悧な指摘である。「あまりにも人々の興味を強くかきたてすぎる」ため、放置してしまうと情報伝達のリソースを食い過ぎるという。エロサイトやスパムメールなどの例を考えれば、理解は容易であろう。

といった辺りを根拠に、俺は、創作者の表現活動を活発にするための、自主規制を誘発しないような形でのゾーニングやレーティングについては、賛成しちゃうだろう。何を描いても安全な世界がやってくるとしたら。修正も要らない世界がやってくるとしたら。たとえそこが檻の中であったとしても、俺は飛び込むと思うね。その先に待っているのは、ハックスリーの『すばらしき新世界』で描かれるような、動物的な快楽をアホ面下げて享受するだけの腐ったユートピアなのかもしれないけどね。

すまんな、10代のときの俺。そいから今10代で、鬱々とした性欲を抱えているような若人。でもね、現代のように18歳まで性的な表現に一切触れさせないくせに、20歳過ぎの童貞をあざ笑う日本がいびつなのは間違いないから、上手くかいくぐって強く生きてくれ。そういうたくましさが、ハックスリー的な安定を打ち破る鍵なんだと思う。そこら辺に期待。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:07


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