1 万円程度と目されていた絵が実はゴッホ作で 6000 万の値がついた、というネタっぽいニュースが記憶に新しいところだ。我々素人には、1 万円なのか 6000 万円なのかなんて区別は付かない。だから、6000万円で売れるわけだが。
絵や音楽の「技術的」な評価を正しく下せる人がほとんどいないというのは紛れもない事実である。これは、多少絵の上手くなった人などが気付いて愕然とするポイントの 1 つであろう。恐らくもっとも適切な評価を下せるのは、作者と同程度かやや下の技術力を持った人間である。技量のレベルは、上下どちらであっても乖離しすぎるとなかなかに評価は難しい。
どんなに絵を大量の眺めている人間でも、実際に描いてる人との間には致命的な技術的理解のギャップがあるのだが、これは絵を描くなり楽器を弾くなり作曲するなりという、その技術のプロトコルを介さない人へは中々伝達が難しい。というか、まず伝わらない。アプリケーションの操作感覚だけで、そのソースコードのデキを評価しろというようなものである。また、もう 1 つのよくある問題点として、程々描けたり作れたりする人間や現状の自作品に満足している人間は、すぐ自分の技術に調子づいて絵や音楽の深いところまで分かったつもりになりがちだというところも、他者への伝達や的確な評価を妨げる。一般的に、女性より男性がこの罠に陥り易い。
で、多くの人は技術的な面を良く分かってくれないし、その評価基準の伝達や一般化はほぼ不可能なのだから、そういう評価を広く期待すること自体が間違っているし、そういう評価をしてくれないからといって作品の受け手を馬鹿にするのはもっと間違っている。先の喩えを使えば、「コンピュータを使う人間は全員が高度なプログラマでなければならないし、プログラマじゃないやつらはゴミ」という、アラン・ケイも真っ青なくらいの無茶苦茶な要求を暗にしていることになる。極マレに、技術力への共感と卓越した文章力で作品の技術的なところを噛み砕いて説明してくれる評論家という人種がエヴァンジェリストをやってくれることがあるが、まあそんなもんを当てにする方がおかしかろう。
アプリケーションとソースコードの比喩をもう少し引きずると、プログラミングの場合は、ソースを読む人はほぼイコールソースを書く人であり、すなわち受け手も書き手もほぼ同レベルの技術を持つケースが多いので、特にどうということもないのだが、絵や音楽や小説などは、同レベルの技術を持つ人間も見るには見るが、それ以前に一般の人に広く見せて、理解なり共感なり萌えなりをしてもらわないと作品として成立しないという点が大きく違う。そのため、何故か技術面までが広く理解されるものだという誤解をしてしまう作り手は少なくない。技術面(や精神面)だけを取り上げて評価して欲しい場合は、よりニッチな純粋芸術寄りの道を歩むことになる。卓越した技術があれば、その手の人だけが相手をしてくれるようになるだろうし、そのうち評論家が現れて、誰もが分かる言葉で素晴らしさを説くだろう。
非純粋芸術である我々ヲタの場合は、当然の結論として、多くの人が下す感覚的な評価基準で作品を判断するのが最も普遍的で妥当だということになる。つまり、普通の人の「パッと見」というのが、多くの場合最も的確な評価なわけだ。もし過去に美術や音楽の先生から「第一印象が肝心だ」というようなことを言われていたら、こういう意味合いもあったのかもしれない。というわけで、これを読んでいるあなたの審美眼は、何も間違ってませんし、その判断は多くの作り手から期待されています。別に無理に何かを学ぼうとする必要もありません。ただし、技術を知ると全く異なる見方が手に入ります。少し、その辺に興味を持ってみませんか。
著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2007-01-24 22:55:01