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オタクの飽食

物語というものは、出来事と出来事をつないでいく過程を楽しむものであって、シーンの一部だけを取り出して前後を鑑みずどうのこうの言っても詮無きものです。過程を無視してしまえば、例えば戦隊モノとか、シュワルツェネガーやセガールのアクションものなんて、「今日も苦労したけど主人公が勝ちました」で要約できてしまいます。

しかし、過程を作るためにつないで行くべき出来事というのにもそんなにバリエーションがあるのかというと、実はネタ切れしきってます。「普通の少年少女がある日ヘンな生き物と出会って正義の味方になって、友達を増やしたり修行したり裏切られたりしたけどラスボスに勝つ」なんて構造の物語は、一体この世に何万・何十万あるやら。こんな風に物語の要素を分解してみたウラジミール・プロップというロシア人は、ストーリー展開というのはどれもこれも似たようなもんだ、というようなことをまとめ上げました。例えば、スターウォーズとハリーポッターをそれぞれ要約して比べてみてください。養父母の下で育てられ、ある日「実はお前は……」と告げられ、旅に出て、仲間を作って……。ね?

で、そういう大して複雑な構造を持ちようも無い物語というものに、実際にバリエーションを与えてるのが、設定や演出という部分になってきます。物語の場所、時代、背景を変えたり、話し方を変えてみたりして、受け手をひきつけていくわけです。

さて。我々オタクが「オタク」と後ろ指を差されるようになるまでには、莫大な量の物語を消費してきています。当然、物語の展開に大してパターンが無いことくらいは、経験的に了解しています。次どうなるのかとドキドキワクワクしながら物語を眺めるなんてことは、できなくなっています。「どうせ次はこうなって、それからこうなって、最後はああなるな」くらいの予想は立ってしまいますから。そうなると、オタク的に楽しむべきポイントは、設定(キャラクターやメカや舞台など)や、演出(画面作り、構図、細かい台詞回し、演技、音楽など)の部分へ移ってくるのです。これは、映画という形で物語を消費しまくってる映画ファンなども同じはずです。

そもそもの萌えという概念は、キャラクターとかメカとか、あるいはカメラワークとか、そういうオタク的に楽しむ細かいポイントが強く自分の興味をかきたてている様を表す言葉ではなかったか、と今の私は考えています。現在の「萌え」は、単に性的好奇心をかきたてる様くらいの意味しかありません。性的な好奇心というものは、広く皆が共有できるオタク的な視点だからでしょう。

我々の世代は、かつて無い量の物語を消費しまくっている層です。映画は100年、マンガは50年くらいしか歴史がありません。いわゆる「テレビゲーム」に至ってはせいぜい20年です。たったそれだけの期間にもかかわらず、テレビ、ビデオ、コミックス、文庫本、CD、ゲーム、ネットなどなど、色々なメディアで莫大な数の物語が作り出され、その洪水の中で生きています。大塚英志氏が以前、若者が物語を作りたがらないというようなことをおっしゃってて(その時同意を求められて実は微妙に困ったのですが)、それは恐らくメディアへの暴露量が違うからなんではないかと。逆に言うとジュニアノベルとかを量産してそういう世代を作ったのは大塚氏たちなんですが。

多分、東 浩紀が本来検討すべきだったのはこういうことであって、自分の消費的傾向を動物的だとか何とか言い訳してゴニョゴニョするべきではなかったんだと思いますよ。ニンニン。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 00:34:42


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