日本は、文字の読み書きが出来ない(つまり文字通りリテラシのない)人がほぼゼロという、とんでもない国である。こういう国では、行政や社会サービスにおいて文字の読み書きができない人を取り扱う必要がないから、そういう人たちを表現する社会的に問題のなさげな言葉(つまり「文盲」以外の穏当な表現)が一般化してなかったり、役所をはじめとする社会システムも、そういう人の存在を考慮しないのが当たり前になっている。これを少しアカデミックに言えば、差異がなく均質化している分野や、分ける必要が無い分野においては、分けるべき言葉そのものが存在しない、ということになる。
これは、逆の方向から言うとそのまんまソシュールになる。虹は無段階に変化する色相のグラデーションだが、日本語だと赤、橙、黄、緑、青、藍、紫の 7 色に分割し、英語だと藍色が抜けて 6 色とする。なんでそうなるのかというと、日本語には藍色という青と紫の間をさらに細かく分割する概念があったから、てな感じである。もし藍色という分類を知らなければ、青か紫のどちらかに押し込んでしまうだろう。
さて。現在の日本というのは、IP reachable も当たり前になってるわけで、IP のネットワークに接続することはなんら特殊な属性ではない。そういう状況で、ネットワークに接続する人としてない人とを分け隔てる言葉、例えば「ネットワーカー」や「ネチズン」といった言葉は必要だろうか。もちろん全く必要ない。当たり前の属性な上に、対立項はどんどん消滅していってるのだから。『CGネットワーカー自薦集』などという今から思えばややイタいタイトルの本に名を載せたこともある私なわけだが、「ネットワーカー」という言葉は現在では完全に死んでいる。
3月頃にアジア各国の大学関係者による情報環境普及についての発表があって半分眠りながらぐんにょり聞いていたら、韓国の発表者が積極的に「ネチズン」という言葉を繰り返し、自国に IP ネットワークが普及していることをがんがってアピールしていたのだが、これはもちろん「IT 国家をアピールする手法」としては間違ったアプローチであり、失敗である。本当に普及していたら「ネチズン」という恥ずかしい言葉は消滅しているからだ。
著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:35