特許法第一条には
「発明の保護及び利用を図ることにより、発明を奨励し、もつて産業の発達に寄与すること」
とある。これは、産業を発展させることがその目的であり、その手段として発明を保護すると読める(現在の特許法が本当に産業の発展に役立っているかどうかは大いに異論のあるところだとは思うが)。一方著作権法第一条には
「著作者の権利及びこれに隣接する権利を定め、これらの文化的所産の公正な利用に留意しつつ、著作者等の権利の保護を図り、もつて文化の発展に寄与すること」
とある。まず権利を定義し権利の保護を図ることで文化を発展しようという。これは、権利を保護することが法の目的であり、その結果として文化が発展するのだというように読める。つまり、根本的に法のスタンスが違うようである。それは、特許法には「発明を奨励」するとあるのに、著作権法には、表現活動を奨励するとは記述されていないところからもうかがえる。この違いはなんだろうか。
産業の発展は、国にとって絶対に必要である。産業がなければ国民は飯が食えないから、確実に国が破綻する。だから、産業を育成し保護するのは国として当たり前なのだ。では文化はどうだろう。文化は生存に必須ではない。日本国民は憲法で「文化的な生活」が保障されているが、何をどうすれば「文化的」なのかについては定義されていないから、「文化的」というのは大いに幅のある概念だろう。
だから、現在の著作権法が、産業として成立している流通業ばかり保護しているように見えても、国の立場としては決して不自然なことではない。そもそも、文化という得体の知れない上に生活に必要ではないモノを云々するには、全員が余裕で飯を食えるくらいの豊かさが前提となる。現代のイット革命な日本で著作権問題が派手に取り上げられる背景は、誰一人として餓えることのない豊かさと、実質識字率 100% という、国民の情報の受信と発信が可能になりうるための最低限の教育が達成されているからに他ならない。
逆から考えれば、そういった最低限の土台が整ったところで、ようやく憲法でうたわれている「文化的」とは何かを議論することができるようになったと言える。高度経済成長前にこんなことは議論できなかっただろう。著作権法は何を保護するべきなのか。産業なのか。それとも何か他のモノなのか。それとも、いっそ保護しないエリアを決めるべきなのか。それほど遠くないところから象徴的な逮捕者が出た今日、考えずにはいられない。
Winny が違法に使われることを承知で作られているのは紛れも無い事実だと私も思うが、立証は困難だろうから言い逃れできる道の方が太めなような気もする。でももし起訴されたら有罪にはなるだろう。それに開発者自身が、「今の社会システムに巨大な一石を投じて討ち死にするもまたよし」くらいの覚悟を決めているフシがある。もしかしたら警察は報復逮捕とか見せしめ逮捕みたいな低いレベルの動機で動いているかもしれないが。
でも一石を投じたまま終わられても困る。何とか著作権法を「文化育成」の方向へ向けねばならん。せめて、第一条に育成とか発展の一言くらい入れてくれ。そのために、「ある程度枠組みを作って後は放置」という姿勢を許容できるくらいには、国にもオトナになってもらわねばならん。文化大国になりたいなら、有象無象を有象無象のまま認める度量を持ってもらわねばならん。国が、というのはつまり、国民がということだ。
著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:33