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花火

俺が、宮谷一彦という天才的画力をもったマンガ家を知ったのは、BSマンガ夜話が彼を取り上げた時である。伊達に人生の半分以上を岡田斗司夫的オタク作品消費にささげてたわけではない俺ですら、彼を知らなかった。彼の作品を読んだこともなかった。積極的に写真的な絵をマンガに取り入れたのは宮谷一彦が初めてであり、またその際にスクリーントーンを重ねる、削る、荒い網点を使うなどの、現代マンガでは当たり前となった技術を開発したのも宮谷であると紹介されていた。これほどの重要人物を、人生の半分はオタクやってる上にまだまだ現在進行形で、しかもちょっとは商業仕事もしたような人間が知らないのである。マンガの描き方的ハウツー本なら、10代の頃いっぱい手にしているのに。

まあ俺が無知なのだと言ってしまえばそれまでだが、そうすると話が終了なのでそれはあっちへ置いといてくれ。で、これほどのエポックメーカーなのに何故それまでの人生で全然触れてこなかったのか。一言で言えば、彼とは生きていた時代が全然違うからであろう。俺が生まれて初めてマンガという表現ブツを手にするころには、彼はもう商業連載をやっていなかった。だから、歴史をさかのぼって「教養」として知るしか手段は残されていなかった。そうなると、子供には普通は親が読んでいて残っているマンガとか、手塚治虫くらいしか手にできないのだ。俺が神保町の古本屋などで読子・リードマン的強引な書籍入手方法を駆使できるようになったのはせいぜい 90 年代に入ってからだし、その際も運悪く宮谷を知ることはできなかった。

かように、マンガという表現はとてつもなく共時的な、つまり作家と同時代に生き、作家と同時代の空気を共有していないと、一瞬にして消えてしまうはかないものだ。作家が命を削って描いた作品も、5年もすれば致命的に古くなり、10年もすればみんな忘れてしまう(ウェブの萌え絵なんてもっとサイクルが短い)。運がよければファンが作家と一緒に歳を取って作家を支えてくれるが、商業連載などの発表の場を持ち続けてないとそれもなかなか難しい。マンガ(とか俺がやってるようなこと)というのはどれもこれも花火みたいな一瞬のもんで、しかもその 99% くらいは地味でちっぽけな線香花火である。もちろん、それらは全て美しく見る者を楽しませる。でも、大きな打ち上げ花火をぶっ放せるのは極々一部だし、大玉を打ち上げたマンガ家でも人生明るいとは限らない。アニメ化されるほどの人気作家であった吾妻ひでおですら、仕事がなくなって肉体労働をしていた時期があるという。

一応、マンガ系の出版業界はそういう構造を理解しているから、同人とかウェブで過去の絶版作品を作者が無料配布したりしても、あまり文句は言わない。絶版マンガや単行本未収録作品を同人で出すのって、よくあるよねー。こういうのを出版社が見逃したり認めたりしてくれるのは、この業界が比較的良心的だからというよりは、「どうせ商業ラインで出してもそれほど金にはならないからどうでもいいやー」という「なあなあ主義」だからだとは思うけど、音楽業界なんかに照らし合わせれば、そういう手段を認めてくれてるってだけで十分にたいしたことだ。

だからさー、著作権著作権と金切り声を上げてる音楽業界とか映画業界とか一部のゲーム業界の人達もさー、せいぜいそれくらいには考えを軟化させたらどうなのよ。どうせ、資本主義社会の商業芸術作品なんて一瞬しか輝かない花火なんだから。でもみんな命削って花火作ってるんだからな。俺らはもっと花火が見たいんだよ。昔の花火も見たいんだよ。どうするのが長期的な利益になるかという視点を持てないくらい馬鹿な人ばかりではあるまいに。緩慢な自殺を試みているなら止めてやらねばなるまい。

さて、そんなことを考えながら渦中のダウンロード板なんかを見てみると、「これは京都府警との戦争である!! 47氏の遺志を継ぎ俺は ny を続ける!! ジークダウソ!!」なんていう、今は学生闘争の只中ですか火炎瓶投げますか的雰囲気が少なからずあって、警察は萎縮を狙ったのだろうが、なんだか逆効果著しい人もいるようだ。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:32


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