高校生くらいの頃、なぜ成年向けコンテンツのレーティング(分別)やゾーニング(販売などの制限)があるのか、全く分からなかった。10代後半は、人生でもっとも性欲が強い時期だと思う。多分、肉体的にはもっとも生殖に適している年代だからだろう。10代で子どもを作らないのは、動物としての側面のみで考えれば、致命的な間違いだ。なぜその性欲がもっとも強い10代からセックスを取り上げ、はけ口となりうる性的なコンテンツまでも取り上げるのか。本当に分からなかった。表現の自由を歌うなら、性表現を完全解放しろよ! 高校生当時の俺はこんなことを本当に考えていたんだよ、へっへっへ、エロかろう。まあ早い話が、俺は20代半ばにして高校生と間違われて身分証を求められたことがあったくらいで、ぶっちゃけエロマンガを買ったりするのにそれなりの困難が伴ったのであるよ。
若年でのセックスを批判する人達の典型的な論理として、10代ではセックスの責任を取れないというのがある。でも、その責任を取るための社会制度を失ってしまったのは、別にやりたい盛りの10代の責任ではない。「ガキのうちに教育を叩き込んで大人になってからは労働させる社会と、それを支える家族」という枠組みが定着したのは近代以後の話で、それまでの200万年間くらいは、人間は10代でセックスして子どもを作っていたわけだし、今のような家族という枠組みも不明瞭だったのだ。赤松啓介の奇書なんぞを色々読むに、昭和30年代くらいまでは多少なりともそういった性環境を許容する土地も日本にあったようである。だから、現在の性制度はかなりいびつなものなのだ。
でもね、もし俺が今ゾーニングやレーティングについての是非を問われれば、多分俺は賛成するよ。だってさ、俺描きたいもの。ほんわかした絵も、パンチラも、少女が強姦されてる絵も、俺は分けへだてなく描きたいんだよね。それと同時に、読みたいの。他人が描いたの見たいの。そういう俺たち変態の趣味嗜好を、理解できない有象無象の人達から守るための手段としては、ゾーニングやレーティングといった理論武装を使うしかないと思う。俺たちは檻の中に入りますから、勝手にやらせて下さい。それ以外の論理で、どうやって社会の大多数と戦える? 至るところにエロ画像あるのは困るのだ。
これは、社会倫理という点からだけで言うのではない。白田秀彰先生は猥褻表現規制の理由を、倫理などではなく、猥褻表現の放置が情報流通の帯域を食いつぶすという点に求めている。実に怜悧な指摘である。「あまりにも人々の興味を強くかきたてすぎる」ため、放置してしまうと情報伝達のリソースを食い過ぎるという。エロサイトやスパムメールなどの例を考えれば、理解は容易であろう。
といった辺りを根拠に、俺は、創作者の表現活動を活発にするための、自主規制を誘発しないような形でのゾーニングやレーティングについては、賛成しちゃうだろう。何を描いても安全な世界がやってくるとしたら。修正も要らない世界がやってくるとしたら。たとえそこが檻の中であったとしても、俺は飛び込むと思うね。その先に待っているのは、ハックスリーの『すばらしき新世界』で描かれるような、動物的な快楽をアホ面下げて享受するだけの腐ったユートピアなのかもしれないけどね。
すまんな、10代のときの俺。そいから今10代で、鬱々とした性欲を抱えているような若人。でもね、現代のように18歳まで性的な表現に一切触れさせないくせに、20歳過ぎの童貞をあざ笑う日本がいびつなのは間違いないから、上手くかいくぐって強く生きてくれ。そういうたくましさが、ハックスリー的な安定を打ち破る鍵なんだと思う。そこら辺に期待。
著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-26 17:58:07