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アートとコンテンツの違い

アートって何だろう。村上 隆がオタク作品をアートだと主張する時の違和感は何だろう。半年くらい前に俺の絵をイギリス人のインテリに見せたら、「アートだ!」とか騒いでくれたが、それは大きな勘違いというものだ。アート(芸術作品)とコンテンツ(商業作品)とは何が違うんだろう。

アート作品とは、複製が困難でこの世にその1点きりしか存在しない作品のことを指す。この世に1つしか存在しないのだから、その作品を市場で取引する場合は、大変な高値で行われることになる。一方、コンテンツは、そもそも全く同一の作品が多数存在しえるよう、複製が容易な表現形態でのみ、製作が行われる。その作品の完全に同一なコピーが多数存在するのだから、当然市場では安価に取引される。アートとコンテンツの本来的な違いは、この1点のみだ。

オタクコンテンツが時々アートだと叫ばれてしまう理由は簡単で、それはアート作品に芸術家が挑む時と同様、オタクコンテンツの作家も命を削って作品を作っているからである。しかしながら、どんなに命を削ろうが、その作品はコピーされることが前提なので、決して高価にはなりようがないのだ(命の削りっぷりや作品の輝きっぷりを評価する概念として、ベンヤミンの「アウラ」という言葉があったりするが、一部の文系の人にしか通じない狭くて誰も読まない話になるし俺もよく知らないので止めておきたい)

とはいっても、オタクコンテンツを高価なアート作品にしてしまう方法は簡単である。複製しなけりゃいいのだ。「これはアートなので1点モノです、複製しません!」と宣言すればいい。村上 隆もそうやっている。しかし、コピーできる媒体の作品(印刷とかフィギュアとか)でそんなことを叫んでも、そりゃあ違和感があるだろう。同じようなことをやっているのが、“エウリアン”と揶揄される、天野喜孝の水彩画やラッセンのシルクスクリーンのコピーを押し売りする版画販売業者だ。

一方、アート作品をコンテンツにしてしまう方法も、まあ簡単である。コンテンツと同じように、複製が容易な媒体に向けて作品を作ればいいのだ。例えば写真とかNTSCで再現できる映像作品とかさ。それでどうなるかというと、作品がさっぱり売れないだけだ。かくして、「芸術なんてゴミ」だとかいわれてしまう。

だって、芸術というのは、すげぇニッチな層へ向けるものだ。そもそも1点しか作らないものなのだから、受け手が大勢いたら困るんです。なので、極々少数の受け手へ向けた文法で作品を作るわけだ。そんな作品を、多くの人に楽しんでもらえる文法で作られたコンテンツと同じ媒体に乗せたって、そりゃぁ勝負にはならんわけですよ。写真などの複製できるメディアで芸術だといわれる作品が存在し得るのは、デジタル技術が普及する以前の時代には、写真の複製に物理的な手間がかかり、なおかつ美術館での展示や高級な書籍として媒介させる以外販路がなかったからだ。

さて、ここで視点を変えて、情報通信技術がアートやコンテンツに与えた影響を考えてみよう。

まずコンテンツについて。情報通信技術の発展によって、情報の共有、すなわち情報のコピーは行いやすくなった。だから、コンテンツの流通コストは下がる。コンテンツの製作も容易になった。ということは、流通するコンテンツの総量は増えるわけで、経済の基本原理に従った結果どうなるかといえば、人々がコンテンツを今以上に消費していくか、あるいはコンテンツの創り手の淘汰が行われない限り、コンテンツ1つあたりの値段はグッと下がるということを意味する。日本のオタク市場はほぼ飽和している。となればコンテンツの世界でいわゆる「勝ち組」になるには、外人とかに売りつけながら、創り手同士の生存競争に勝つくらいしかない。でも、逆に考えれば、創作や発表のコストが下がって低リスクになるのだから、細く長くゆっくり自分の主義主張の下で活動することも、可能になったという見方も出来る。どっちを選ぶかはその人次第やね。

一方、アートの方だが、先ほど述べたように、芸術作品は皆に広める必要など全くないのだ。啓蒙主義的な作品だって、どうせエリートにしか届かない。本当の大衆はアートなど必要とはしない。芸術の本質は、唯一性だ。だから、本来的には、情報通信技術はアートに何の影響も与えないはずだ。でも、写真や映画など、複製できるメディアのアートが持っていた「芸術性」などといわれる芸術の文脈は、よりいっそう奪われていって、コンテンツと同じ土俵でアートが勝つチャンスは、決定的にゼロになるだろう。芸術性とやらを発揮したければ、複製できるメディアでコピーできないふりをするか、そもそも複製できないメディアを使うか、しかないんだ。

繰り返しになるが、普通の人が芸術を理解しない理由は簡単だ。そもそも創り手に相手にされてないからだ。芸術というものは、創造性に理解があり、作家の背景を想像し解釈し講釈できる人たち、そしてその解釈を理解できる人たち、すなわち教養あるエリートの間だけに共有される。一方コンテンツは、一人でも多くの人が理解できるように、作られる。ハリウッドの映画からふたばの二次裏に貼られる絵まで、全てがそうだ。商業用途に用いられない個人的な作品であっても、多くの人への訴求力を持つよう商業的にくみ上げられた作品の影響下で作られている。だから、分かりやすくキャッチーに作るという文法から逃れることはできない。

で、コンテンツ畑の俺が今なんとなく考えてるのは、コンテンツについての文法、言い換えると、コンテンツの技術的なクライテリアをもっと共有したいなーって辺りだ。評論という形でのコンテンツの文脈付けは既にかなり行われているけれど、技術を知らないために頓珍漢なのも少なくない。特に商業音楽は酷いと思う。芸術の技術的なクライテリアはそれについて教えてくれる学校もちゃんと存在するのに、コンテンツについての技術的なクライテリアは、映画や写真などの古いメディアの以外全然固まってない。まあ、すぐ廃れてしまうのでまとめるのが難しいというのはあるかもしれないが、夏目房之介とか竹熊健太郎より新しい世代で、萌え絵とかをまとめていかないといかんのかなあ、と思わなくもない昨今である。とかいってるが、実はこれ書いているうちに思いついただけだ。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2006-09-27 01:29:06


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