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オーマイニュースで分かったこと

オーマイニュースの鳥越氏にインタビューしている元旦のJ-CASTの記事を堪能させてもらった。

ネットユーザーはいろいろ情報発信を始めたわけだよね。で、メディア批判も盛んになって(笑い)、僕はね、ネットユーザーがメディア批判だけではなくて、一市民として持っている情報をね、有効に働かせることができないかと前から思っていたんですよ

以前にも彼は、「人間の負の部分のはけ口だから、ゴミためとしてあっても仕方ない」と2ちゃんねるを評したり、ブログについては、「内容は他愛もないことが多く、社会が変わるような発言は少ない」などと述べるなど、ITmediaのインタビューで祭のネタを提供している。

どうも、散々叩かれたにもかかわらず、未だにオーマイニュースの人間は、自社のウェブサイト(自称“市民メディア”とやら)を、2ちゃんねるやブログなどの代替手段であるかのように捉えているらしい。恐ろしい勘違いだ。治せるものなら、早くその「死に至る病」は治したほうが良いだろう。もし意図的にやっているのなら、詭弁も甚だしい。

まず、全てのコンテンツは、必ず何らかの意図を持って編集され、受け手に届けられてている、ということを確認しなければならない。泣ける映画は観客を泣かせるために作られているし、エロマンガはオナニーさせるために作られている。単純な事実や感情を伝達する普段の会話だって、話者の意図によって表現は大きく変わるのだ。

例えば、とある有名ラーメン店へ行った友人に「あのラーメン屋の味はどうだった?」と尋ねた時のことを想像してみよう。「まあおいしいけど、店がすげー汚かった」という答えが返ってきた場合と、「店は綺麗じゃないけど、結構おいしかった」と返ってきた場合とを、比較してみて欲しい。同じ事実を描写しているはずなのに、受ける印象は全く違うだろう。前者では「じゃあ俺も行こう」とは言い辛いが、後者なら「じゃあ今度また行こう」と言いたくなる。これは、いわば“言霊”の力だ。

オーマイニュース内部の佐々木氏だって、同様の指摘をしている

客観報道の体裁を一見とりながらも、首相の靖国参拝に好意的な言葉を語る市民に対しては、「持論を展開し始めた」「ニヤリと笑う」「まくし立てた」という表現を使い、一方で批判的な市民については「静かに語る」「静かにそう語った」「言葉を継ぐ」といった言葉遣いをしている。
前半に参拝賛同意見を載せ、後半で反対意見を畳みかけるようにつなぐその原稿構成を見れば、中台記者がどのような立ち位置で記事を書いているのかは明確だ。

完璧に中立の記事などというものは、存在しえない。これは、極左としても有名な本多勝一氏の持論でもある。そして周知の事実だが、オーマイニュースは、左寄りとされる視点を持っていると思われる。

何らかの意図を伝達しようとするメディア、すなわちオーマイニュースの「成功」とは、どういう状態を意味するのだろうか。意図を伝達しようとするメディアの目的は、当然、その意図の伝播以外には、あり得ない。それはつまり、プロパガンダの成功と同義であり、すなわち、何らかの意図を持つ集団の発言力が大きくなることを意味している。これは2ちゃんねらーが看破する通りだ。

そうしたメディアが、韓国で成功できたのは、政府や財閥の息がかかったマスメディア以外が存在せず、それらに対抗し得るメディア、カウンターメディアが存在しなかったからだろう。オーマイニュースのポジションは、既存のマスメディアに対して、カウンターパンチを当てるためのメディアであったと考えられる。

別の見方をすれば、既存のマスメディアに大きな影響力があり、そしてカウンターメディアが存在しない場合においてのみ、インターネット上でのカウンターメディア、プロパガンダたるメディアの価値は高まるのである。だから、韓国でオーマイニュースは大事な存在なのであろう。それはそれで良いことだ。

日本の事情を考えてみよう。

まず、2ちゃんねらーにとって、マスメディアの言論の価値などとっくに地に落ちている。日本のマスメディアの価値は、既に完璧に解体されている。マスメディアが、何らかの意思を国民全体へ浸透させようとするパイプであることくらい、とっくに看破されている。だから2ちゃんねらーはマスメディアから、自分達にとっての適切な言論、すなわち、適当な祭のネタを選び取るだけだ。2ちゃんねらーにとって、ある意見を通そうとするメディアを叩くための別のメディアという存在には、失言を探すためのネタとなる以外に存在の価値が、ない。

そして、日本の書籍や雑誌の出版点数はべらぼうであるし、自費出版なりウェブなり同人誌なり、個人でも言論を発表する場は多数存在するし、そうした言論の自由については、憲法で明確に保証され、(重要なことだが)実際にそのとおり運用されている。中小のメディアは十分発達しており、カウンターパンチを当てるメディアなら、十分に存在するといえる。

今更、新聞・テレビといったマスメディアに対抗するプロパガンダを唱える別種のマスメディアは、特に存在する必要が無いと考えられる。

オーマイニュースがあるプロパガンダへのカウンターパンチであるのならば、それは所詮、何らかの価値観を周知するために企業がインターネットを利用するというタイプの行動パターンであり、つまり、古いメディアが新しい衣をまとおうとしているだけだ。だから、2ちゃんねらーには、ゴミ以外の何物にも見えない。

2ちゃんねるとは、どんなむちゃくちゃな言論でも拒まず公開し続けるというだけの、ツールの集合体だ。一方のオーマイニュースは、編集というフィルタを通した言説のみを公開する。両者はそもそも、同列に対照しえる概念ではない。一方はアーキテクチャであり、一方はコンテンツだ。

2ちゃんねるとmixiなら、同列に対照し得る。実名に近い(ということになっている)アカウントで、ある程度狭い範囲の人間にのみ意見を公開するツールと、ほぼ匿名(ということになっている)状態で、全世界に向けて何でも言えてしまうツールとの対立、すなわち、仕組みの違い、アーキテクチャの違い、設計の違い、デザインの違い、だ。

同様に、例えばオーマイニュースと産経新聞なら、対照できるだろう。この対立とはつまり、編集者の価値観によってくみ上げられる言説同士、コンテンツ同士の戦いなのだから、つまりは政治姿勢の戦いである。

2ちゃんねるやmixiが提案しているのは一種のインフラでありアーキテクチャである。しかし、オーマイニュースや朝日や産経が提供しているのは、コンテンツであり価値観である。2ちゃんねるとオーマイニュースでは、全くレイヤーが違う。ブログだって、2ちゃんねるやmixi同様、基本的にはアーキテクチャだ。ブログという仕組みでどういう意見が出てくるのか、それが「市民」とやらにとって都合がいいのか悪いのかについて、ブログという“仕組みそのもの”は、一切斟酌しない。

2ちゃんねるやブログには、ある一定の政治姿勢や価値観を出し続けるような仕組みは(商業上の理由によってある程度コントロールされ得るが、一応)ない。右翼的言説が多いのは、そういう発言を多くするためのツールがあるわけでも、編集者が記事を選んでいるわけでもない。そう発言する人が純粋に多いというだけだ。知識人がやるべきことは、「最近は右翼的な若者が多いですね、わはー」と知的障害を起こすことじゃなく、「モダンな価値観が揺らぐとされる現代においても、何故右翼的な言説は人を魅惑するのか」といった視座から熟慮することだ。

一方のオーマイニュースで左翼的な言説が多かったり、産経新聞が右翼的であったりするのは、純粋にそういう記事を書いたり選んだりするからだ。そういうものしか載らない仕組みになっている。

2ちゃんねるとオーマイニュースの違いとは、本質的にはレイヤの違いである。片方は「プロパガンダをも生成できる自由なシステム」であり、片方は「プロパガンダそのもの」だ。俺は2ちゃんねるを全面肯定するつもりはないが、2ちゃんねるを否定する人達は、こういうレイヤの違いを、「匿名性」などといった言葉で歪曲化し、自らのプロパガンダのために、匿名記事が問題であるかのように話をすり替える。そういうのは大変よろしくない。そして、こういうレイヤ(階層)という発想は、情報通信技術の理解を前提とするから、鳥越氏などは、おそらく自分たちの論理の歪曲化自体に、そもそも気づいていないだろう。そういう、知識人を気取って自らの怠惰を誤魔化そうとする姿勢が、俺は嫌いだ。

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著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2007-01-05 19:06:56


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