俺が携帯小説の本文やそれを揶揄している2ちゃんねるのスレッドとか、さらにその辺りをまとめているサイトなどを眺めていると、「エロゲー読んで泣いてる奴も携帯小説読んで泣いてる奴もレベルは一緒だ」っていう書き込みが幾つか目に付いた。「現実感」とか「リアル」ってのがキーワードになって論争しているらしい。これは根本的に勘違いだと思う。携帯小説を読んだ時に感じる違和感ってのは、リアリティの問題じゃない。ついでに、リンク先の記事とかを読んでいたら、個人的な知り合いが何人か出てきたので、せっかくだから反応してみよう。
何が問題なのかを考えるために、既に散々語られている感があるけど、『Kanon』やら『AIR』やら『CLANNAD』やらのKey周辺のエロゲーについて、もう一度考えてみることにしよう。
まず、名作とされている美少女ゲームの物語構造を、ものすごーく単純化して俯瞰してみると、古典的な物語作成の技法にも合致する一般的な構造の脚本であることが分かる。何かをきっかけとして“異界”への扉が開き(異界というのは、剣と魔法のファンタジーの世界というような意味ではなく、単身どこか知らない街へ引っ越すとか、周りの人が少しだけ妙な反応をしていることに気づくとか、そういう「普通の毎日ではないこと」を指す)、主人公はその異界を彷徨い、何らかの形で問題をクリアして、読み手は一定のカタルシスと共に通常の世界へ戻る。その際には、ちゃんと「どんでん返し」が仕込まれている。これは、アリストテレスが『詩学』でミュートスだ何だと言っている時から求められる構造と別に変わらない、普遍的な物語の構造だ。
もう1つ重要な点として、『One』や『Kanon』の脚本は、「こういうことがありました」、「次にこういうことがありました」、「最後にこうなりました」というようなエピソードの数珠繋ぎにはなっていない。主人公や周囲の人物は、ある時点ではどういう感情を抱いていて、何らかの事件によってそれがどう変化したか、その感情の変化を追いかけることができるように、文章が書かれている。かわいい女の子がタイヤキを盗むのも妙な口癖を持っているのも、それは読み手に、何らかの感情を想起させるための仕掛けである。俺も初めて「うぐぅ」のくだりを読んだ時は、ぶん殴りたくなったが、それは脚本家の仕掛けの成功なのである。ポジティブであれネガティブであれ、読み手の感情が動かされたということは、物語に引き込めている証拠なのだから。脚本が失敗し、物語に引き込めていない時の読み手の反応は、登場人物への「反発」ではない。「無関心」だ。アナタと無関係の赤の他人がこういう事件に見舞われました、では誰も感動しない。映画なら途中で寝てるだろうし、ゲームならAlt-F4が押されるか右上の×ボタンがクリックされる。物語の最後にカタルシスを与えるためには、物語中の人物が、アナタの感情を何らかの形で動かしていなければならない。だから脚本家は、様々な仕掛けを用いて読み手の感情をコントロールし、途中でゲームを止めさせないために様々なスパイスを撒いている。ボケ漫才もその手段の1つである。Keyのゲームは、そういった仕掛けが、既存のよくある物語とちょっと違っただけだと俺は理解している。彼らの志向はあくまでも王道だし、脚本の手法もやっぱり王道なんだよね。表出されたものは王道に見えないかもしれないけどさ。
一方、携帯小説である。携帯小説は、「彼氏に振られた!」、「レイプされた!」、「ドラッグを打たれた!」、「妊娠した!」、「自殺未遂した!」、「彼氏が死んだ!」、そういうショッキングな事象が延々と連発される。これは何でなんだろうか。こういう事象が「リアル」なんだって書いている人がいるけど、そうじゃない。それは勘違いだ。「異性に振られた」とか「妊娠した」はともかくも、ドラッグや集団レイプがそうそうあるわけはない。むしろ、リアルじゃないからこういう物語が作られているのだし、そもそも、「リアル」かどうかってのはどうでもいい話なんだ。
携帯小説も、日常から非日常へ行き、また日常へ戻ってくるという、基本的な物語の構造を持っている。ほとんどの女の子は輪姦されないし、彼氏も不治の病にならないし、自殺未遂もしない。これらの要素は、リアルじゃないから、物語の「非日常」として成り立つのだ。作者だってそれを明確に意識している。そうでなければ、最後に「から揚げ」などという「日常」を持ってきたりはしない。携帯小説は、物語であろうという志向は持っているし、ものすごくプリミティブな意味では、物語の構造を持っている。ここは間違えないで欲しい。携帯小説も、根本的には物語であろうとはしている。問題は、もう1つの方、感情を揺り動かすための仕掛けの部分だ。
携帯小説も、読み手の感情を何らかの形で揺り動かそうとしているのは伝わってくる。でも、その手段がものすごく乏しい。ビジュアルを伝えられないので人物の外見で引きずり込むことは出来ないし、誰もが興味を催すような舞台をひねり出すのはとても難しいし、文字だけで魅力のあるキャラクターを創造するのもとても骨が折れる作業だ。そういう作業については、一切放棄している。だとしたら、誰もが恐れ嫌がるに決まっている単純な不幸を連発して、不幸の持つインパクトで読み手を呼び寄せるしかない。この、読み手の感情を揺り動かすという部分について、携帯小説の作家達には、全く技量が無いのだ。
携帯小説の作者は、別に不可思議なことは何一つやっていない。読み手の感情を動かしてカタルシスを与えようという志向は持っている。彼らが物語を作ろうとする時の志向も、王道である。でも、俺などのように、物語を山のように読んできた人間の感情を動かすことは、できない。腐るほど物語を読んでいるオタク共には、不幸を連発して読み手を引き付けるという手法は「邪道」だし、「下手糞」以外の何物でもない。今までの物語作者が散々頭を悩ませてきた「読み手を引き付けるための工夫」を完全に放棄しているように見えるからだ。
社会学者達が考えるべきなのは、エロゲーの脚本家達は叙述の力によって読み手の感情をコントロールできる技術を身につけられたのに、なぜ10年世代のズレた携帯小説の作家達にはそれが出来なくなっているのか、というところだ。その答えの1つはコレなのだと思う。
909 名前: 大道芸人(長崎県)[] 投稿日:2008/01/17(木) 10:32:31.74 ID:i1xWOipi0
まあ、いいんじゃないか、
人それぞれ、そういう時代だろ。
こういう、履き違えた個人主義のような発想が、間違いの元だと俺は考える。確かに、個人の好き嫌いってのは別に「人それぞれ」でいいと思う。でも、ある技術や技法(例えば文章技術)の巧拙、上手・下手ってのは「人それぞれ」で認めてよいものじゃあないんだな。技術や技法ってのは客観的に評価できるものだし、教育によって伝達することもできるものだ。「下手な技術で作られたアウトプットを喜んで受け入れる自由はあるじゃないか」、って主張する人もいると思う。確かに受け入れるのはその人の自由だ。俺も、超絶技巧なコンテンツばかりを愛好しているわけじゃない。どうしようもないモノを山ほど愛しているし、自分が創ったり描いたりしてるのも超絶技巧とは縁遠い。でも、だ。
アナタが技術者、表現者、創作者、芸術家を志向しているのならば、「別に下手でもいいじゃん」という考え方を受け入れることは許されない。何で許されないのかっていえば、それを許しちゃうと、次世代の技術者が育たないからだ。もちろん自分自身も成長しないしね。下手な技術者が存在することは許される。初学者は全員下手だ。成長の歩みが遅いことも状況次第で許される。でも下手な技術者が「俺様は下手なままでいい」と開き直ることは許されない。技術者なら、常に鍛錬しないといけない。そして、その鍛錬を楽める人が技術者であるべきだ。技術者達がこういう価値観を共有していなければ、社会全体の技術は向上しないのだ。だから、これはmustなんだ。
つまり携帯小説をバカにする多くの人達がムカついているのは、その致命的な低レベルさと作者の技術的な向上心の無さ、そしてそれをそのまんま受け入れている人たちのゆるーいメンタリティなんだ。これは、リアリティなどとは全然関係が無いんだよ。「文章下手な癖に自分に酔っているからムカツク」で合ってるし、その要約が正しい。濱野さんや東さん、ised の時に面と向かって何度か言ったけど、技術者やクリエイタとしての経験がないと、こういう時に議論の踏み込みが甘くなるんですよ。何でも相対化したりメタ化すりゃいいってもんじゃねーんだよ。どこかで一線を引いて、そのラインを守るために戦わなきゃならんのだ。それが意見を主張するってことだし、学者としての責任なんだと俺は思うよ。大塚が言ってて伝わらなかったのはそういうことなんだよね。
でも逆に、そういうゆるーい姿勢をバッシングする人達がいる限り、日本人の向上心ってのは大丈夫なんじゃないかと俺は思ってる。皆が向上心を持ち続けている限り新しい技術・技法は開けるだろう。そこには未来があるはずだ。俺はそこのところを信じているな。
著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2008-01-18 23:33:02