ようやく現実逃避も兼ねて『崖の上のポニョ』を見た。鑑賞後30分くらい反芻していたら、押井 守があの作品を「老人の妄想」と批判した理由が分かった気がする。
ばっさりまとめてしまえば、ポニョという物語には、人間が成長するための課題や試練、イニシエーションやらが含まれていないからだろう。
一般的な物語では、主人公は何らかの試練を与えられ、それをクリアすることで観客と達成感をシェアする。難題をクリアして前に進む主人公というのは、ほとんどの物語に共通的に見られる普遍構造である。しかし、冷静に考えると、ポニョには一切それがないことが分かる。
以下ネタバレしまくりなので、観てない方はご注意下さい。
誰に試練があるのか
よく半魚人のポニョを受け入れることが宗介の試練だといわれるようだが、魚のポニョも人間のポニョも一貫してかわいいままで、彼女を受け入れることに何らかの抵抗感を覚える余地が無い。だからそれは、宗介にも観客にも、乗り越えるべき試練にはならない。あれが試練なら、ポニョはもっとグロくなければならない。
唯一の試練らしい試練は、あの女の子を魚のポニョと同一だと看破して名前を当てることだが、その象徴性を意識した盛り上げも特に無かった。
終盤母親に会いに行くのは、冒険ではあるが、「試練」にはなってない。宗介の行動は、母親を信じていないものだし、約束を破っての行動である。もしあれが物語上の試練であるなら、彼女を信じて待つことで、親子の絆や信ずることの大切を訴える、となるはずなのだ (そういう意味では、母親との約束を何らの抵抗も無く無視することが、いつの間にかポニョを助け世界を救うことそのものになっているというプロットは、普通に考えれば「破綻している」と評されると思う)。 だからあのトンネルも、暗喩的ではあるが試練にはなっていない。
ポニョについても、彼女は特に苦労もせず人間になり、特に苦労もせず宗介に受け入れられている。彼女の試練は、フジモトの部屋を抜け出すことくらいだったが、それも彼女だけではなく、彼女の妹たちの無償の好意に助けられてのことである。彼女は変身はしたが成長はしていないのだ。
しかし、大人であるフジモトには試練がある。彼は、自分の思い通りであって欲しい娘のポニョが、人間の男の子に惚れてしまい、彼の元へと行こうとすることを必死で止める。だがその試みは失敗に終わり、最後にはポニョの決意を受け入れ、相手の男の子(宗介)と握手して別れる。これは、父親としての一般的な成長課題だ。
大人が大人ではない世界
冷静に考えると、この物語で何らかの試練を乗り越えて成長したのは、唯一の大人であるフジモトだけだ。大人は成長する。子供は子供のまま無邪気でい続ける。これが宮崎の示した物語だ。
まだ入手していないので米光一成氏のページからの孫引きということになってしまうのだが、宮崎駿が『折り返し点』で以下のように述べていることを鑑みても、それが宮崎駿の理想の「子供」の姿なのだろう。
子供が成長してどうなるかといえば、ただのつまらない大人になるだけです。大人になってもたいていは、栄光もなければ、ハッピーエンドもない、悲劇すらあいまいな人生があるだけです。 だけど、子供はいつも希望です。挫折していく、希望の塊なんです。
実は、宗介の母親であるリサも、大人ではない。リサは一応母としての仕事をこなしているけれど、子供達を一切導いていない。子供が不可思議なことを言い出したり、無茶な行動をしようとしても、怒らない。
つまりリサは、宗介達と一緒に遊んでいるのだ。
社会のあるべき姿の方向へ一切導く役目を担っているはずの彼女自身が、むしろ周囲の静止を振り切って嵐の中で無茶をするという、極めて大人気ない行動をする。あの嵐の中、無茶して家へ帰る理由は何一つ無い。例えばシュワルツェネガーやセガールが無茶をしても立派な「大人」でありえるのは、彼らには「娘を救う」などの正しい大人としての大義があるからだ。何の大義も無いまま無茶をするのが許されるのは、リサが子供だからだ。
宗介とリサの母子は、お互いを名前で呼び合っている。これを奇妙だと思う人は多いかもしれないが、リサも宗介も子供だと考えれば、すっきりする。両方とも子供であるから、そう呼び合うことがあの世界では許されている。おばあちゃん達も、宗介を一切導かない。彼女達も子供なのだ。だから彼女達も名前で呼ばれる。
一方あの作品で唯一成長したフジモトには、「姓」はあるが「名」は無い。これはとても象徴的である。
押井はなぜ批判したか
押井があの映画を「妄想」だと言ったのは、フジモトを除く全員子供であり、皆好き勝手に振舞っているだけで、なんらの破綻も無く、グランマンマーレから幸せを与えられ、フジモトが子供達の勝手さを受け入れることで、全てが上手く済んでしまうからであろう。どこにも乗り越えるべき試練が無い。
押井は、『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』に代表されるように、一貫して「終わりなき日常をどう生きるか」というテーマを持っている。その彼が、子供の夢想を全肯定するだけのドラマツルギーを、受け入れられるわけがない。だから彼はポニョを批判せずにはいられないのだろう。
大人が子供を、子供が大人を受け入れる物語
フジモトは、作品の冒頭から宗介にもリサにも拒絶されるが、最後は握手をして和解する。
つまりあの作品は、(リサやおばあちゃんズも含めた)子供たちが妄想の世界で遊びまわっている様を、フジモトが受け入れるという映画なのだと解釈できる。
あの空間の全てが子供の楽しい夢想として作られているという根拠は幾つか挙げられるが、例えばよくみんなが取り上げる、金魚を真水、しかも水道水にそのまま突っ込んでもなんとも無いということを考えてみると良い。金魚は海で捕れないし、海の魚は水道水では生きられない。しかし、リサもおばあさんも保育園の先生も、誰もそれを注意しない。何故なら彼らは皆子供だから。それで問題があると考えることの無い子供達だけの世界、そこへ唯一の大人であるフジモトが入り込んできたという構図、それがポニョという映画空間なのだ。
しかしラストで、子供である宗介は大人のフジモトと握手をした。宗介は、退屈な大人になることを拒絶したわけではなかった。
フジモトという父親が娘を見送るという課題をクリアしたこと、恐らくこれは、宮崎駿が、鈴木敏夫に宮崎吾郎を預けるような心境なのではないかと思うが、その子離れを果たした男親との和解は、あの作品中で唯一見出せた、宗介という子供が将来大人になっていく道筋を付けた様子である。フジモトはポニョを預けて子供たちの夢想を受け入れたが、宗介たちも、ポニョを預かることで、フジモトという大人を受け入れたのではないか。
「無邪気な子供がかわいいとか言ってるだけなのはやっぱり現実逃避だろう」というようなメッセージも、宮崎駿はちゃんと込めていると思う。
著作者 : 未識 魚
最終更新日 : 2008-09-14 13:39:32