「ヨーロッパだと萌絵は変態」という話が出回っているらしい。これには多重の誤解か無理解があると思う。そもそも、性的な日本スタイルのアニメ・マンガ・ゲームの表現のことは確かに“Hentai”と呼ぶのだが、これは単にそういう俗語が出来ちゃってるというだけで、「日本風の成年向け表現」以上のことを意味しているわけではない。

まず、歴史的に絵画を考える上での大前提として、欧州におけるまともな絵画とは何か、という問いを考える必要がある。これは長い西洋絵画史を要約してしまうと身も蓋もなくなるのだが、西洋における「まともな絵」とは、つまりは美術界の権威が認めた美術館にある絵(特に近世以後は国家が認めた絵)だけであって、それ以外は全部反権力的なカウンターカルチャーだったり、アウトサイダーアート、サブカルチャーとして存在していると考えるのが早い。っていうか、世界のどこでもそうだけど、権威や国家が認めてなかった絵って、ぶっちゃけあんまり残ってないんだよね。

しかし、欧州では少数となる民族の人達が大事に育んでいる文化であるなら、それは確かに我々立派な欧州人のメインのカルチャーではないけれど、我々欧州人は大変に立派であるからして、そういうものも大事にしてあげないといけないねという生暖かい上から目線が、この100年くらいにだんだんヨーロッパ地域には育まれてきた。それは本来的な意味でのサブ(=少数の人達の、そして自分達より下の)カルチャー。

その発想を踏まえて日本風のアニメ・マンガ・ゲームのキャラクター表現を考えてみよう。まず歴史的な美術界の権威は価値を認めてない、何なら認めたくない表現(ということは「カウンターカルチャー的」)だけど、アジア人とかのヨーロッパじゃない辺境の人達が大事にしている表現(ということは「サブカルチャー的」)だし、我々立派な欧州人が観たり読んだり遊んだりすると結構楽しいし、結構人気もあるみたいだから(ということは「ポピュラーカルチャー的」)という、欧州人が考えてきた文化の枠に収まらない状況が無い混ぜになったところへ、最近は批評家や大学や国家などの権威からも「まあ、たまにはああいうのも良いのではないか」というお声がけも起きているという感じ。

だから、欧州のインテリの人達にはややこしい感情が生まれるのだ。アニメやマンガが「日本の民族的な文化」というパッケージになっていれば、多文化を大事にする欧州人としてはケチをつけにくい。それを安易に批判するのは民族差別に直結する恐れがあり、自分たち欧州人が他民族の文化としてのサブカルチャーも抱擁できる立派な存在であるという、ヨーロッパ人の根幹的なアイデンティティすら否定してしまう。

一方で、「アニメやマンガは女性や同性愛者を搾取する表現なのだ」等々とプレゼンされれば、そのような野蛮な状況を野放しにしていることはこれまた欧州人の沽券に関わる大問題になる。恐らく現在(2019年)は、「否定するべき問題点もあるが民族的な芸術表現として普及している」みたいな感覚が、最も通りやすい理解であるはず。

まず、「萌絵みたいなのは権威の無い絵だから論外」という、猛烈に権威主義的な感覚は今でもある。日本人にだってそういう人がいる。でも、その権威主義的な発想自体は欧州人もさすがにいかがなものかと思っていて、日本・中国・韓国辺りの民族的表現としてプレゼンされれば「アリかな……」とも思うけど、でも我々の価値観としては一致しない部分がある。とはいえ、じゃあ広くヨーロッパ人の中でも人気のある民族のアイデンティティに関わる表現に立ち入るとなったらこれはややこしい……みたいな葛藤が、欧州の真面目な人達には当然発生するはずなのだ。これは、我々日本人が欧米の文化や価値基準を丸ごと受け入れられないのと何も変わらない。

以上、こういったことをつらつらと考えていくと、日本人による「欧州では萌絵は変態でダメ」みたいな物言いは、マンガやアニメに出会った欧州人のインテリに発生するであろう表現様式受容の葛藤をほぼ代弁してない。

気をつけるべきポイントは、欧州のインテリ達が日本風のマンガやアニメを広く認めてくれたとしても、彼らが認めた理由は、我々がそうした表現を支持している理由とは全く異なっているかもしれないところだ。でも違うが故に、「Hなのはいけないと思います!」という類の批判も通らない可能性が生まれるわけ。重要なのは、彼らが何に惹かれて何に引いているのかを理解することだ。

為念、この話は「マンガ・アニメは日本民族が誇るべき表現!」とかいうインスタントなナショナリズムとは2万kmくらい隔たっている。日本人がアメコミや洋ドラから欧米っぽさを感じるのと同じように、欧米はおろか世界中のどの国でも、日本風のアニメ・マンガ・ゲームの絵から、“オリエント”な臭い(つまりは多少の違和感)を完全に抜いて鑑賞するというのは、不可能なのだ。我々の表現は決して普遍ではないし、我々は他者の違和感を知る必要がある。ただそれは、日本が他国のために表現を変えるということを意味してはいない。日本人は好き放題やればいいのだが、他者の違和感とその背後の理屈を「識っておく」必要はある。そう試みない限り、欧米人の自文化中心主義的傲慢さを日本人が再生産するという地獄に至るからである。